四章 7
文字数 2,004文字
*
ウラボロスの街を見おろす王宮の尖塔から、鐘が鳴り響く。祝いの鐘だ。王族の婚儀か、王子、王女の誕生のときにしか鳴らされない。
街の民はむろん、廷臣たちも時ならぬ祝祭の予告におどろき、広間にかけつけた。
「何事ですか? 左大臣。あの鐘は?」
「わしも知らぬ。誰のイタズラだ?」
「左大臣、卿、あれはイタズラではありません。どうやら、クリュメルさまの指示らしいのです」
「陛下が? なんのためにだ? 陛下も妹君も未婚であらせられる。お子が生まれるわけもなかろうし、婚儀にしても急すぎる」
そこへ、右大臣がやってきた。
「左大臣。陛下がご乱心あそばされた。なんと、昨日、いずこよりか、おつれになった娼婦を妃にするのだとのたまわれ、本日これより婚礼をとりおこなわれるそうだ」
「なんと!」
続々集まる廷臣たちは、ことの重大さに右往左往した。
そこへ王の入場を告げる華やかなファンファーレ。ひざを折って迎える廷臣は一様に絶句した。
昨日まで薔薇色に輝いていた少年王の痛ましい変わりよう。
そして、そのとなりを歩く花嫁のなんという神々しいまでの美しさ。
ウラボロスの民は知っている。その女と同じ美を持つ者を。その美が人ならぬ者の血の証であることを。
「あれは、神だ。シリウスさまと同じ……」
「誰だ。娼婦などと言ったのは」
しかし、どういうわけだろうか。
豪奢に着飾った花嫁は、たしかに神のごとく麗しい。それでいて見る者の胸をチリチリと炙 るような妙な感覚をあたえる。
それはこの世でもっとも高貴な女でありながら、もっとも下賤な女でもあった。神殿の聖女に見える次の瞬間には、路地裏で男の手をひく化粧の濃い売春婦に見える。
左大臣も右大臣も、貴公子も、騎士も、男はみんな、自分の胸にわきおこる低俗な衝動に、自身の理性を疑った。
異様な熱を秘めた静寂のなか、クリュメルはグローリアを従え、王座にかける。
「本日このときより、この女を私の妃に迎える。みな、礼をもってつくすように」
クリュメルはグローリアの頭に冠を載せた。
けれど、拍手は起こらなかった。廷臣たちはそれどころではない葛藤に苦しんでいたからだ。
グローリアがクリュメルのとなりの王妃の座につく。
その瞬間だった。そば近く仕える騎士が、無意識のように手を伸ばし、グローリアのドレスのすそをつかんだ。彼はあわてて手を離したが、それが合図になった。
そのあとは目を覆うような狂乱の宴だ。
その場にいたすべての男が押しよせ、彼女を玉座からひきずりおろす。花嫁衣装はひきちぎられ、宙に舞った。順番を争い、殺しあいが始まる。正気の者など誰もいない。
(同じ……あのときも……)
冷たい大理石の床の上で、グローリアの心は過去にむかう。
あの、とりかえしのつかない日——
だまされて、さらわれたと知ったときには、すべてが遅かった。幼いグローリアは、人を信じることの愚かさを身をもって知る。
あのとき、無垢なグローリアは死んだのだ。
恐怖と苦痛のなかで、グローリアは知った。自分に何が足りなかったのか。
男たちの体から、あたたかいものが流れこみ、全身に水のようにしみわたった。
開花したグローリアの魔力は、父が探しだすまでの半月、小さな港町に狂乱と血みどろの争奪戦をもたらした。
彼を見つけたときの父のおもては悲痛にゆがんでいた。
「グローリア……おまえはもう、生きていてはいけない」
どうして? ぼくが悪いことしたの? ぼくの何が悪かったの? 教えて。父さま。
やっと自分に足りなかったものがわかり、これでずっと生きていけると喜んだのも、つかのま、父によってさらに暗い地獄へ堕とされた。
深い闇。
あれからずっと、さ迷ってる。
一度は兄が救いだしてくれたが、やはり、ダメなのだ。
どうやっても、この呪われた生から逃れることはできない。
(わたしはさ迷う。闇のなか……)
男たちが飽くことなく、のしかかってくる。奪いあい、殺しあう。
「もっと殺しあえばいいんだわ。人間なんて、みんな死んでしまえばいい!」
グローリアの笑い声に、ひときわするどい男の号令がかさなる。
「かかれッ!」
リアックとその部下だ。血迷っていた男たちは、ろくに抵抗することなく殺された。広間は死体の山だ。白大理石の床も血で真紅に染まる。
リアックは乱暴にグローリアを抱きあげ、王妃の座につきとばした。
そのまま、きびすを返し、広間のすみでうずくまるクリュメルのもとへ、リアックは走る。
自分を助けにきたと勘違いしたのだろう。手を伸ばすクリュメルの首が、その瞬間に飛んだ。
ウラボロス最後の正統な王の、わずか十五年の生涯の幕引きだった。
リアックは少年王の首を高くかかげる。
「これで満足か!」
「ええ。満足よ」
グローリアは微笑み、手招きした。
「リアック。来て。あなたが新たなウラボロス王よ」
広間には生きて反論する者は、誰もいなかった。
ウラボロスの街を見おろす王宮の尖塔から、鐘が鳴り響く。祝いの鐘だ。王族の婚儀か、王子、王女の誕生のときにしか鳴らされない。
街の民はむろん、廷臣たちも時ならぬ祝祭の予告におどろき、広間にかけつけた。
「何事ですか? 左大臣。あの鐘は?」
「わしも知らぬ。誰のイタズラだ?」
「左大臣、卿、あれはイタズラではありません。どうやら、クリュメルさまの指示らしいのです」
「陛下が? なんのためにだ? 陛下も妹君も未婚であらせられる。お子が生まれるわけもなかろうし、婚儀にしても急すぎる」
そこへ、右大臣がやってきた。
「左大臣。陛下がご乱心あそばされた。なんと、昨日、いずこよりか、おつれになった娼婦を妃にするのだとのたまわれ、本日これより婚礼をとりおこなわれるそうだ」
「なんと!」
続々集まる廷臣たちは、ことの重大さに右往左往した。
そこへ王の入場を告げる華やかなファンファーレ。ひざを折って迎える廷臣は一様に絶句した。
昨日まで薔薇色に輝いていた少年王の痛ましい変わりよう。
そして、そのとなりを歩く花嫁のなんという神々しいまでの美しさ。
ウラボロスの民は知っている。その女と同じ美を持つ者を。その美が人ならぬ者の血の証であることを。
「あれは、神だ。シリウスさまと同じ……」
「誰だ。娼婦などと言ったのは」
しかし、どういうわけだろうか。
豪奢に着飾った花嫁は、たしかに神のごとく麗しい。それでいて見る者の胸をチリチリと
それはこの世でもっとも高貴な女でありながら、もっとも下賤な女でもあった。神殿の聖女に見える次の瞬間には、路地裏で男の手をひく化粧の濃い売春婦に見える。
左大臣も右大臣も、貴公子も、騎士も、男はみんな、自分の胸にわきおこる低俗な衝動に、自身の理性を疑った。
異様な熱を秘めた静寂のなか、クリュメルはグローリアを従え、王座にかける。
「本日このときより、この女を私の妃に迎える。みな、礼をもってつくすように」
クリュメルはグローリアの頭に冠を載せた。
けれど、拍手は起こらなかった。廷臣たちはそれどころではない葛藤に苦しんでいたからだ。
グローリアがクリュメルのとなりの王妃の座につく。
その瞬間だった。そば近く仕える騎士が、無意識のように手を伸ばし、グローリアのドレスのすそをつかんだ。彼はあわてて手を離したが、それが合図になった。
そのあとは目を覆うような狂乱の宴だ。
その場にいたすべての男が押しよせ、彼女を玉座からひきずりおろす。花嫁衣装はひきちぎられ、宙に舞った。順番を争い、殺しあいが始まる。正気の者など誰もいない。
(同じ……あのときも……)
冷たい大理石の床の上で、グローリアの心は過去にむかう。
あの、とりかえしのつかない日——
だまされて、さらわれたと知ったときには、すべてが遅かった。幼いグローリアは、人を信じることの愚かさを身をもって知る。
あのとき、無垢なグローリアは死んだのだ。
恐怖と苦痛のなかで、グローリアは知った。自分に何が足りなかったのか。
男たちの体から、あたたかいものが流れこみ、全身に水のようにしみわたった。
開花したグローリアの魔力は、父が探しだすまでの半月、小さな港町に狂乱と血みどろの争奪戦をもたらした。
彼を見つけたときの父のおもては悲痛にゆがんでいた。
「グローリア……おまえはもう、生きていてはいけない」
どうして? ぼくが悪いことしたの? ぼくの何が悪かったの? 教えて。父さま。
やっと自分に足りなかったものがわかり、これでずっと生きていけると喜んだのも、つかのま、父によってさらに暗い地獄へ堕とされた。
深い闇。
あれからずっと、さ迷ってる。
一度は兄が救いだしてくれたが、やはり、ダメなのだ。
どうやっても、この呪われた生から逃れることはできない。
(わたしはさ迷う。闇のなか……)
男たちが飽くことなく、のしかかってくる。奪いあい、殺しあう。
「もっと殺しあえばいいんだわ。人間なんて、みんな死んでしまえばいい!」
グローリアの笑い声に、ひときわするどい男の号令がかさなる。
「かかれッ!」
リアックとその部下だ。血迷っていた男たちは、ろくに抵抗することなく殺された。広間は死体の山だ。白大理石の床も血で真紅に染まる。
リアックは乱暴にグローリアを抱きあげ、王妃の座につきとばした。
そのまま、きびすを返し、広間のすみでうずくまるクリュメルのもとへ、リアックは走る。
自分を助けにきたと勘違いしたのだろう。手を伸ばすクリュメルの首が、その瞬間に飛んだ。
ウラボロス最後の正統な王の、わずか十五年の生涯の幕引きだった。
リアックは少年王の首を高くかかげる。
「これで満足か!」
「ええ。満足よ」
グローリアは微笑み、手招きした。
「リアック。来て。あなたが新たなウラボロス王よ」
広間には生きて反論する者は、誰もいなかった。