八章 5
文字数 2,214文字
「見よ。リモンダ」
侯爵は厳しい声で、そんな妻に言い放つ。
「この
「お待ちください。それでは、ライアンは……ライアンはどうなるのです? ライアンもあなたの息子ですよ」
「ライアンには
戸口にくずれる侯爵夫人は、完全に敗北者に見えた。だが、ワレスをにらむ目には燃えるような憎悪がある。まだ彼女はあきらめていない。ここでワレスとジュリアスが死ねば、彼女の息子にも爵位を継ぐチャンスがめぐってくる。
(ネイラはうまくやったろうか? さっきから妙にイヤな予感がする)
これまでにも何度か、こんな経験があった。
シリウスの血の証、時間軸を持つワレスだから、自分の未来に重大な変事が起こるとき、無意識にそれを見て、虫の知らせのように感知する。とくに砦で毎日が死の危険とのとなりあわせだったころ、ひんぱんに感じた。
誰かの身に危険が迫っている。
ワレスか? 侯爵か? ジュリアスか?
(おれを見て、奥方は憎悪をつのらせた。このまま終わりにはしないはずだ。おれも、ジュリアスも殺そうというなら、さっきの報告にきた男爵が、折り返し皇都に帰るだろう。ジュリアスの身が危ない)
だが、なぜか、祖父のことも気になる。まさか、奥方が長年つれそった侯爵にまで手をかけるとは思えないのだが……。
(どうする? ワレス。おまえはまた選択をあやまるのか?)
考えあぐねている時間はなかった。
奥方はきびすを返すと、そのまま去っていった。あの男爵に命令をくだしに行く気だ。
(じいさんと、ジュリアス。おれがどっちにより重い責任があるかと言えば、それはもちろん、ジュリアスだ)
ワレスは心を決めた。
「侯爵。じつは私には息子がいるのです。ジュリアスという名で十三になります。私の目を受け継ぎました。ぜひ、あなたに会っていただきたい。皇都に迎えに行くことをゆるしてくださいますか?」
侯爵は少年のように目を輝かせた。
「おお、今日はなんという日だ。イリアスの息子が帰ってきてくれたばかりか、その子までいたとは。会いたい。すぐつれてきてくれ。そなたらが帰ってくるまでに、譲位の準備を整えておこう」
嬉々として側近を呼ぶ侯爵と別れ、ワレスは皇都へ急いだ。船上で、ジュリアスを手放すことを、さんざんジョスリーヌにごねられたが、ワレスの気分はそれどころではない。
勘は的中していた。
ネイラはうまくやった。しかし、運に恵まれていなかった。ネイラが御者のあとをつけ、つきとめた敵のアジトには、オービエンス男爵の手下がいるだけで、肝心の人質はいなかった。
「アジトはデッドたちに見張らせている。オービエンス男爵の屋敷はジューダたちが。ネイラが手下を尾行して、そっちも見つけてくれたんだ。だが、その屋敷にも、ジュリアスらしき少年はいない。コーネリアのあの特技で、屋根裏から地下室まで調べてくれたから、まちがいない」
ジューダの妻コーネリアは、もと軽業者だ。縄ぬけ、綱渡りもお手のもの。これまでも何度も諜報に役立ってくれた。彼女の調べなら確実だ。
レリスの報告を聞いて、ワレスは暗然とした。オービエンス男爵のほかにも、侯爵夫人の手先がいるのだろうか?
「わかった。おれは脅迫状の指定場所へ行く」
「待て。ワレス。どう考えても、これはおまえを誘いだすための罠だ。そんなことをしても、ジュリアスは帰ってこないぞ」
「そんなことはわかってる。だが、何もしないよりはマシだ。こっちだって、黙って殺されてやる気はないからな。襲ってきたやつを捕まえ、ジュリアスの居場所を白状させれば——」
いや、ダメだ。それでは、まにあわない。
さっきから刻々と、あのイヤな予感が強くなる。
そのとき、ふと思いだした。
昨日話した、ユークリッド。彼は明らかに、ワレスがラ・スター家の一員であることを知っていた。ミラーアイズを持ち、彼の祖父に瓜二つであることを。
それでいて、ワレスに何も告げずに逃げ帰ったのだ。あの態度はおかしい。
(おれが現れると父の立場が悪くなるからか? いや、それだけじゃない。脅迫状が届いたタイミングを考えれば、彼の口からオービエンス男爵か、そのまわりの者に、おれの存在が知れたことになる。ジュリアスは子どもだから、容貌が祖父に似ているかどうかまではわからない。ただ祖父の目に似た双眸の持ちぬしとして話題になるが、おれの場合は顔が侯爵の肖像そのものだ。ただの話の種にする内容じゃないな。おれやジュリアスを消そうとする企みに気づいていて、加担しているとしか思えない)
ユークリッドの父ライアンが、この計画に一役買っているのかどうかまでは断言できない。が、ユークリッド自身が何かを知っているのは明白だ。
「ジョスリーヌ。ユークリッドはふだん、どこにいる? ラ・スターの城か?」
「皇都の屋敷よ。ライアンが侯爵と不仲なのよ。跡目の問題のせいだとは知らなかったけど」
「なるほど。ライアン叔父上は皇都暮らしか。おれをその屋敷の正門から入らせてくれないか? ジョス」
「……いいわ。わたくしの価値は、ラ・ベル侯爵ってことですものね。ジュリアスのためなら、船で往復して疲労しきった体を酷使するわよ」
「ありがとう」