四章 2
文字数 2,556文字
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忠実なしもべ、バールゼフに乗り、宙を飛びながら、グローリアの心は乱れていた。今もシリウスの言葉が耳から離れない。
——おまえは私の腕のなかで、私はおまえの腕のなかで死ぬ。愛しあう恋人どうしのように……。
(シリウス……)
吹きつける風が、グローリアの心をシリウスのいる岩山へちぎっていく。
今なら、まにあう。
今すぐひきかえせば、きっとシリウスはゆるしてくれる。
たとえ彼の優しさが、同じ半神でありながら、あまりにみじめなグローリアに同情したためだとしてもだ。彼のくれたあのあたたかさこそ、これまでずっと、グローリアが求めて得られなかったもの。
あなたは強い。あなたは美しい。あなたこそ、わたしのなりたかったわたし。一点の穢れもない神聖な人。
(でも、ダメ。わたしには、お兄さまがいるもの)
そうだ。兄の期待にこたえなければならない。
あの人のために、けんめいに働けば、きっといつか、兄はわかってくれる。わたしが真実、あの人を愛しているのだと。
「カルバラスへ行って。お兄さまが到着してるはず」
兄に会えば、もう止められない。シリウスを完全に裏切ることになる。
だが、グローリアはゆれる心を抑え、カルバラスへ行く道を選んだ。
シリウスは岩山をくだり、塩の砂漠をぬけるのに、最低でも二日はかかるだろう。そのあいだに片をつけないといけない。
大空を滑空するバールゼフは、純白の砂漠をみるみるよこぎる。
青い宝石のごとき青貝の森。その森にかこまれた小さな人形の城のようなウラボロス。
それらを眼下に見おろしながら、南西へむかう。
青く神秘的なアリア湖(グローリアたちの国ではルーラ湖と呼ぶ)にそって移動していく。
ペガサス信仰国の西の玄関カルバラスの湖岸には、何十隻もの軍船が停泊していた。白地に赤い鳥の紋章の旗が、風にひるがえっている。
「ユイラの旗ね。お兄さまだわ」
自分が原因で起こった暴動のどさくさにまぎれて、グローリアがぬけだしたときには、荒廃してヒドイありさまだった。しかし、わずか数日のうちにカルバラスは生気をとりもどしていた。いつものことだが、兄の統治者としての手腕は素晴らしい。
「バール。おろして。城のなかへ」
城にも、街にも、武装したユイラの兵士の姿がある。
グローリアは人目につかないよう注意して裏庭におりた。思念の声で兄を呼ぶ。
グローリアにはシリウスのような透視能力はないが、感応力を一人に集中すれば、その相手が見聞きし、感じていることを体感できる。
兄のギリアンはカルバラスの王座にすわっていた。軍師や将軍をそろえて作戦会議の最中だ。
「陛下。ウラボロスにおける先鋒につきましては、ハルゲン将軍が適任かと——」
「待て」
ギリアンはグローリアの声に気づき、軍師の提案をさえぎる。
「すぐ戻る。私を一人にしろ」
「しかし、陛下。護衛をつけませんと」
「追ってきた者は死刑だ」
追いすがる臣下をふりきり、ギリアンがかけだす。
(兄上が来る。もうすぐ会える)
薄暗い廊下を、まだ血糊のこびりついた階段をかけて、彼が来る。彼のはく革靴の音が、彼の耳を通してだけでなく、グローリア自身にも聞こえてきた。息をはずませて、裏庭へ続く裏口の扉をあける。
「グローリア!」
以前と変わらぬ兄の姿が、グローリアの胸を熱くした。
流れる黒髪。星の英知をたたえた黒い瞳。一見、涼しげだが、ときおり放つするどい眼光が、その内に秘めた激情を感じさせる。
会いたかった。ずっと我慢していた。
きっと彼はゆるしてくれる。だってもう二年も彼のために働いた。わたしの力、兄の役に立ったはず。
わたしがどんなに真剣だか、きっと兄もわかってくれた……。
「兄上!」
だが、かけよったグローリアに、いきなり王笏 がふりおろされた。
「よるなッ」
蔑みの目で、兄が見おろしている。
「兄上……」
「私に畜生の兄弟なぞいない。国王陛下と呼べ」
氷の視線に出会って、グローリアはうなだれた。
(まだ……ゆるしてくれていない)
兄の心は凍てついたまま。
ぶたれた頬のひりつく痛みが、ありありと兄の内心を伝える。
「なぜ来た。連絡はすべて文書でと申したぞ。私の前に穢れた姿を見せるなともな」
「急ぎの用が……」
違う。会いたかったのだ。
シリウスを裏切るに際し、どうしても兄に会って決意をかためておきたかった。自分の想いは兄にあると……知っておきたかった。
「では、手短に話せ」
「……宮殿に潜入しました。国王は十五、六の少年です。妹が一人。近衛隊の隊長を味方にひきいれました」
「ならば問題ない。とく去れ」
グローリアはうつむいたまま、兄の革靴に包まれた足を見つめる。
「ウラボロスには、神がいます」
「三百年前に天空に去ったというペガサス神だろう。善なる神は、もはやこの世にはいない。おまえのほんとの父も去ったではないか」
グローリアは兄の顔を見あげた。
——グローリア。父上が亡くなった。ここから出してあげよう。
——兄……上?
——グローリア。よく生きて……かわいそうに。つらかっただろう。これからはずっと私といっしょだ。
あなたは、そう言ったのに……。
「兄上。お願い。わたしをゆるして」
グローリアは兄の足にしがみついた。ギリアンの顔が青ざめる。
「もう二度と、あなたを裏切らないから。わたし、今度こそ、あなた以外の誰ともふれあわない。もし、わたしの意思に反して、そんなことになりそうなら、舌をかんで死ぬ。だから……」
「離せ!」
「あなたを愛してるの」
兄は歯をくいしばり、グローリアをけった。王笏がグローリアの肩に、背に降ってくる。風を切るその音にまじり、獣のうなり声が聞こえた。
「おやめ! バールゼフ」
バールゼフはギリアンにとびかかる寸前でとどまる。牙をむきながら、グローリアの前に立ちふさがった。
兄は乱れた呼吸をととのえ、いくらか平静をとりもどす。
「やはり、獣は獣どうしだ」
言いすてて去っていく。
「待って! ギリアン。お願い。お願いよ!」
扉は冷たく閉ざされた。
(もうダメなの? あなたの愛は、わたしの上には帰ってこない……)
グローリアは泣きくずれた。
これは罰なのかもしれない。シリウスのくれたあたたかい愛をふみにじったことへの。
でも、もうあと戻りはできない。
忠実なしもべ、バールゼフに乗り、宙を飛びながら、グローリアの心は乱れていた。今もシリウスの言葉が耳から離れない。
——おまえは私の腕のなかで、私はおまえの腕のなかで死ぬ。愛しあう恋人どうしのように……。
(シリウス……)
吹きつける風が、グローリアの心をシリウスのいる岩山へちぎっていく。
今なら、まにあう。
今すぐひきかえせば、きっとシリウスはゆるしてくれる。
たとえ彼の優しさが、同じ半神でありながら、あまりにみじめなグローリアに同情したためだとしてもだ。彼のくれたあのあたたかさこそ、これまでずっと、グローリアが求めて得られなかったもの。
あなたは強い。あなたは美しい。あなたこそ、わたしのなりたかったわたし。一点の穢れもない神聖な人。
(でも、ダメ。わたしには、お兄さまがいるもの)
そうだ。兄の期待にこたえなければならない。
あの人のために、けんめいに働けば、きっといつか、兄はわかってくれる。わたしが真実、あの人を愛しているのだと。
「カルバラスへ行って。お兄さまが到着してるはず」
兄に会えば、もう止められない。シリウスを完全に裏切ることになる。
だが、グローリアはゆれる心を抑え、カルバラスへ行く道を選んだ。
シリウスは岩山をくだり、塩の砂漠をぬけるのに、最低でも二日はかかるだろう。そのあいだに片をつけないといけない。
大空を滑空するバールゼフは、純白の砂漠をみるみるよこぎる。
青い宝石のごとき青貝の森。その森にかこまれた小さな人形の城のようなウラボロス。
それらを眼下に見おろしながら、南西へむかう。
青く神秘的なアリア湖(グローリアたちの国ではルーラ湖と呼ぶ)にそって移動していく。
ペガサス信仰国の西の玄関カルバラスの湖岸には、何十隻もの軍船が停泊していた。白地に赤い鳥の紋章の旗が、風にひるがえっている。
「ユイラの旗ね。お兄さまだわ」
自分が原因で起こった暴動のどさくさにまぎれて、グローリアがぬけだしたときには、荒廃してヒドイありさまだった。しかし、わずか数日のうちにカルバラスは生気をとりもどしていた。いつものことだが、兄の統治者としての手腕は素晴らしい。
「バール。おろして。城のなかへ」
城にも、街にも、武装したユイラの兵士の姿がある。
グローリアは人目につかないよう注意して裏庭におりた。思念の声で兄を呼ぶ。
グローリアにはシリウスのような透視能力はないが、感応力を一人に集中すれば、その相手が見聞きし、感じていることを体感できる。
兄のギリアンはカルバラスの王座にすわっていた。軍師や将軍をそろえて作戦会議の最中だ。
「陛下。ウラボロスにおける先鋒につきましては、ハルゲン将軍が適任かと——」
「待て」
ギリアンはグローリアの声に気づき、軍師の提案をさえぎる。
「すぐ戻る。私を一人にしろ」
「しかし、陛下。護衛をつけませんと」
「追ってきた者は死刑だ」
追いすがる臣下をふりきり、ギリアンがかけだす。
(兄上が来る。もうすぐ会える)
薄暗い廊下を、まだ血糊のこびりついた階段をかけて、彼が来る。彼のはく革靴の音が、彼の耳を通してだけでなく、グローリア自身にも聞こえてきた。息をはずませて、裏庭へ続く裏口の扉をあける。
「グローリア!」
以前と変わらぬ兄の姿が、グローリアの胸を熱くした。
流れる黒髪。星の英知をたたえた黒い瞳。一見、涼しげだが、ときおり放つするどい眼光が、その内に秘めた激情を感じさせる。
会いたかった。ずっと我慢していた。
きっと彼はゆるしてくれる。だってもう二年も彼のために働いた。わたしの力、兄の役に立ったはず。
わたしがどんなに真剣だか、きっと兄もわかってくれた……。
「兄上!」
だが、かけよったグローリアに、いきなり
「よるなッ」
蔑みの目で、兄が見おろしている。
「兄上……」
「私に畜生の兄弟なぞいない。国王陛下と呼べ」
氷の視線に出会って、グローリアはうなだれた。
(まだ……ゆるしてくれていない)
兄の心は凍てついたまま。
ぶたれた頬のひりつく痛みが、ありありと兄の内心を伝える。
「なぜ来た。連絡はすべて文書でと申したぞ。私の前に穢れた姿を見せるなともな」
「急ぎの用が……」
違う。会いたかったのだ。
シリウスを裏切るに際し、どうしても兄に会って決意をかためておきたかった。自分の想いは兄にあると……知っておきたかった。
「では、手短に話せ」
「……宮殿に潜入しました。国王は十五、六の少年です。妹が一人。近衛隊の隊長を味方にひきいれました」
「ならば問題ない。とく去れ」
グローリアはうつむいたまま、兄の革靴に包まれた足を見つめる。
「ウラボロスには、神がいます」
「三百年前に天空に去ったというペガサス神だろう。善なる神は、もはやこの世にはいない。おまえのほんとの父も去ったではないか」
グローリアは兄の顔を見あげた。
——グローリア。父上が亡くなった。ここから出してあげよう。
——兄……上?
——グローリア。よく生きて……かわいそうに。つらかっただろう。これからはずっと私といっしょだ。
あなたは、そう言ったのに……。
「兄上。お願い。わたしをゆるして」
グローリアは兄の足にしがみついた。ギリアンの顔が青ざめる。
「もう二度と、あなたを裏切らないから。わたし、今度こそ、あなた以外の誰ともふれあわない。もし、わたしの意思に反して、そんなことになりそうなら、舌をかんで死ぬ。だから……」
「離せ!」
「あなたを愛してるの」
兄は歯をくいしばり、グローリアをけった。王笏がグローリアの肩に、背に降ってくる。風を切るその音にまじり、獣のうなり声が聞こえた。
「おやめ! バールゼフ」
バールゼフはギリアンにとびかかる寸前でとどまる。牙をむきながら、グローリアの前に立ちふさがった。
兄は乱れた呼吸をととのえ、いくらか平静をとりもどす。
「やはり、獣は獣どうしだ」
言いすてて去っていく。
「待って! ギリアン。お願い。お願いよ!」
扉は冷たく閉ざされた。
(もうダメなの? あなたの愛は、わたしの上には帰ってこない……)
グローリアは泣きくずれた。
これは罰なのかもしれない。シリウスのくれたあたたかい愛をふみにじったことへの。
でも、もうあと戻りはできない。