九章 1

文字数 2,394文字



 こうして、ワレスはラ・スター侯爵になった。
 おかげで、レリスは不機嫌だ。

「おれとの約束はどうなったんだ?」
「その点はちゃんと考えてる」
「それなら、いいけど……」

 祖父の葬儀や叙位式、その他もろもろで、しばらくは多忙な毎日が続く。
 ようやく、その日が来た。面倒な手続きや、やらなければならないことをすべて終えて、明日からは平穏な日々。

 夜になり、城じゅうの人間が寝静まったころ、ワレスは寝台をぬけだした。以前のように客室ではない。代々のラ・スター侯爵が使っていた部屋だ。調度の一つ一つまで、なつかしい匂いがしみこんでいる。どの引き出しに何が入っているか、迷うことなく言いあてることができた。

 ここは、おれの部屋。いくども、ここで生涯をすごした。
 でも、行かなければならない。

 ジョスリーヌとライアン叔父に手紙をしたためてある。ジュリアスが成人するまでのあいだ、後見人をたのむ内容だ。それらの手紙をデスクの上に置いた。ラ・スター侯爵の位とすべての財産を、ジュリアスにゆずる書類とともに。

(さよなら。なつかしい部屋。なつかしいラ・スターの城。もう、ここへは帰ってこないだろう)

 ワレスが寝室をぬけだすと、扉の前にレリスか待っていた。

「おれのことも置いていく気?」

 腰に両手をあててにらむので、ワレスは苦笑した。

「おまえのために出ていくのに、なぜ置いていくんだ」
「そう?」
「しかし、よくわかったな。今夜だと」
「おまえの考えなんて、お見通しだ」

 レリスはこれからワレスがしようとしていることにも気づいているようだ。

「一人で大丈夫?」
「問題ない」
「じゃあ、港で待ってる。できるだけ早く来て。でないと、おまえのことなんて、おれのほうから置いていってやるから」

 甘えたことを言ってくれるので、ワレスはレリスを抱きしめた。

「もうどこへも行かないよ」

 くちづけると、とても満ちたりた気分になる。これからはずっと、この幸福な気持ちを胸に抱いていられるのだ。
 ゆいいつ、二人の足枷になっているのは、ウィルの死だ。これも、いずれ、どうにかしたいと思っていた。シリウスの力を手に入れた今なら、できることがあるはずだ。

 二人の未来は薔薇色のはずだった。
 こんなに幸福でいいのかと思うほど。

「さあ、行ってくれ」

 レリスを見送ると、ワレスは暗い城内を一人で歩いた。目的の部屋に来ると、扉の前で室内を透かしみる。幸い、侍女などの姿はない。先代侯爵夫人は寝台で眠っていた。うなされている。

 ワレスが室内に忍びこむと、敏感に目をさまし、こちらを凝視してくる。
 ワレスのミラーアイズには夫人のほつれ髪まで視認できるのだが、彼女には闇のなかに燃える燐のような、ワレスの双眸だけが見えていることだろう。
 夫人の目に、ふいに涙があふれだした。

「……殿。わたくしを責めにいらしたのですか?」

 夫人はワレスを祖父と勘違いしているのだ。夢を見ているとでも思ったのかもしれない。ワレスは夫人の誤解を利用することにした。

「責めるのは当然ではないか? 私を殺したな」

 夫人は両手で顔を覆う。

「おゆるしください。しかたなかったのです」
「しかたないとは、身勝手な」

 すると、今度は急に食ってかかる。夫人はだいぶ情緒不安定らしい。息子のためとはいえ、夫を殺害したことは、彼女にとっても良心をさいなまれることだったのだ。

「わたくしにここまでさせたのは、あなたですよ。あなたは、ひどいかたです。わたくしという妻がありながら、あんな下々の娘とうつつをぬかし、わたくしなど、ちっとも相手にしてはくださりませんでした。ずっと……ずっと、お慕いしておりましたのに」

 ちょっと待て。まさか、そんなことで。

「それで、ジュリアスを殺そうとしたのか?」
「あの子どもがいけないのです。今ごろになって現れて。イリアスが死んで安心していたのに。何もかも過去のことになっていたのに」

 夫人の口調を聞いて、以前いだいた疑問が確信に変わった。

「イリアスを殺そうとしたな?」

 夫人の答えはハッキリしていた。

「あんな娘の子など、生まれてこなければよかったのです! イリアスも、イリアスの息子も。わたくしからあなたを奪ったあの女の血をひく者は、一人残らず消えてしまえばいい!」

「イリアスが駆け落ちしたあとも、つけ狙っていたか?」
「ええ。あなたより早く見つけるために、それはもう大変な労力を払いました。でも、イリアスを殺したのは、わたくしの手の者ではありませんわ。わたくしが見つけたときには、強盗に殺されておりました」

 強盗ではない。ワレスがやったのだ。

「信じよう。しかし、まさか……ジュリオには手を出していないな? 彼女は追われる日々に疲れはて、逃げだしただけだな?」

 夫人が黙りこんだので、ワレスはゾッとした。

「まさか……殺したのか?」
「……わたくしは悪くありません。ジュリオを見つけた者が、イリアスの居場所を聞きだそうとして、手違いで死なせてしまったのですわ。あの女が強情を張るからです」

 ああ、かわいそうな母。かわいそうな父。

 誰も悪くなかったのだ。
 母は父を裏切って逃げたわけではなかった。それどころか、人知れず殺されていた。父は帰ってこない母がそんなめにあっているなんて知るよしもなく、愛想をつかして逃げたのだと考えた。

(ひどすぎる……そんなことで壊れたのか。そんな勝手な理由で。貧しいけれど幸せだった、あの家庭)

 誰にも知られず、二十余年の短い生涯をひっそり閉じた母を思うと、やるせなかった。母は遺された父や子どもたちを思い、どれほど心残りだったろう。さみしくはなかっただろうか。苦しまずに逝けたのだろうか。

(お母さん……)

 もう細密画のそれでしか、顔も思いだせない。
 こんなはずではなかったのに。
 ワレスの苦しみも、父の絶望も、母の無念も、すべてはこの女一人から始まったこと。
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