六章 2

文字数 2,739文字



 神話の時代に迷いこんだような西海の島々をめぐり、もうじき故国というところで、ふたたび難破。ユイラの敵国ブラゴールに漂着してしまい、砂漠の民に追われた。

 このとき、ぐうぜん通りかかったハシェドに助けられた。ハシェドは森林警備隊を辞め、実家のブラゴール貿易を手伝っていた。

 ようやく砦時代の鬱屈した思いを告げることができた。それは、すでにハシェドへの気持ちが過去のものになっているという証でもある。やっと、青いリボンを渡すことができた。

 ハシェドに送られて、ようやくヴァグラにたどりついた。海をへだててむかいに位置する、ユイラの友好国、六海州の一州だ。

 また、ヴァグラは魔の森からの旅仲間だったジューダの故郷でもあった。エスパンの港でレリスと別れた彼と再会した。ジューダたちの船は嵐に見舞われることなく、順調だったため、ワレスたちよりずいぶん早く帰国していたのだ。
 ジューダは念願の自分の船を買い、船主になっていた。彼の船でユイラまで送ってもらえることになった。

 出立の前夜。漁り火の輝く海を見ながら、レリスと海岸を歩いた。

「ワレス。ユイラに帰ったら、おまえ、どうするんだ?」
「そうだな。一度は砦へ報告に帰らなければな。海路を使ってもいいが、国境ぞいを移動するのは危険が多い。いったん内陸へむかい、陸路を行くほうがいい。土地勘があるから、いったん、皇都へ行こうと思う」

「ユイラに帰ったら、おれの街へ来てくれるって、前に約束したろう? あれはもう反古(ほご)なのか?」
「今のおれには断言できない。運命がそう望むなら」

「じゃあ、皇都までは、おれも行くよ」
「おまえは一日も早く、故郷で待つ妹に会いたいんじゃないのか?」
「そうだけど……」

 レリスは急に泣きだして、接吻を迫ってくる。

「おまえと別れるなんて、イヤだ」

 燃えたつ情熱を抑え、ワレスはしがみつくレリスを引き離す。

「安心しろ。おれの心は、とっくにおまえのものだ」
「嘘つき。おまえはいつも口さきばっかり」

 ワレスを飲みこむ深淵のように、夜闇に染まる漆黒の瞳を涙にぬらす、レリス。抱きしめないでいるのは、たいへんな労苦を要した。

 こんなふうに駄々をこねるときの彼は、ほんとにグローリアにそっくりだ。
 やはり、魂は一つ。
 ワレスが惹かれてやまないのは、あの退廃の魂ということか。

(なぜ、おれとおまえは同じあやまちばかり、くりかえしてしまうのだろう?)

 かつて、おまえのために、おれは、おれを神とあがめる民を殺し、国を滅ぼした。
 おまえと自国の民、どちらをとるかで迷ったんだ。そしてまた、今生でも……。

「嘘じゃない。おれの心は、おまえのもの。でも、ダメなんだ。レリス」
「どうして?」

 ああ、もう、ウィルのことなんていいじゃないか。子ども一人死なせてしまったことが、なんだっていうんだ。愛しい人をこんなに泣かせて、どっちが罪深いというんだ?

 思うが、しかし、それをしてしまえば、ワレスは自分が人間をすてることになると知っていた。これは、ワレスに残る最後の良心だ。こえてはならない一線。

 一人でさ迷っていた少年時代。何人も殺した。しかし、それはすべて、ワレスの尊厳を守るためだ。

 彼らは幼いワレスをだまし、人買いに売ろうとした。力づくで組みふせ、犯した。あるいは飢えをまぬがれるために自分を売ったワレスに、終わったあとになって金を持っていないと嘘をついた。ふところに金貨を山ほど持っていたのに。

 ワレスは誇り高い少年だった。誇りを持ち続けて生きるためには、自分に人間以下の仕打ちをする彼らに、自らの手で復讐するしかなかった。
 法も他人も自分を守ってくれない。ならば、自分で守るしかない。だから、そうした。

 けれど、ウィルは違う。
 ウィルはただワレスを愛しただけだ。絶対に死なせてはいけない人だった。


 ——ワレサ。僕は君が好きだよ。どうしたら、信じてくれる?


 ふいに、ルーシサスの言葉が浮かんだ。

 悲痛な体験をかさね、十五のときには、すっかり他人を信用しなくなっていたワレス。

 保護してくれた伯爵の一人息子ルーシサスに、激しく嫉妬した。ワレスが地べたを這いずり、泥水を飲んでいたとき、彼は何不自由なくあたたかな寝具にくるまり、両親の愛をあびるほど受け、豪華な食事を満喫していた。その歴然たる差が、ワレスにルーシサスを憎ませた。

 おれとあいつの何が違う?
 同じ人間じゃないのか?
 違う。同じじゃない。おれは宿なしの孤児。あいつは貴族。あいつは神に選ばれた。

 ルーシサスを穢すことは、神を穢すことだった。

 ワレスはルーシサスを虐げ、束縛し、飴と鞭で逃げられないようにした。貴族の息子を奴隷にするのは心地よかった。これまで、つねに傷つけられ、損なわれ、いびつにゆがんでしまったワレスの誇りをなでさするためには、これ以上ない妙薬だった。

 それだけのはずだった。
 ルーシサスがあの言葉を言いだすまでは。

「ワレサ。君が好きだよ」
「……何を言ってるんだ?」
「君を愛してるよ。どこへも行かないで。学校を卒業しても、ずっとここにいたらいい」
「そんなの、信じられると思うか? おれが今まで、おまえにしてきたこと、忘れたわけじゃないだろう?」

 天使のように無垢な瞳のルーシサス。同い年のはずなのに、病弱で華奢な少女のよう。
 このか細い腕で、ワレスのすべて包みこもうとしている。今ここで、「おれをゆるしてくれ。ほんとはおれもずっと、おまえを愛していた」と言えば、きっと、ルーシサスは「うん」と言う。

 でも、ワレスのなかに蔓延(はびこ)猜疑(さいぎ)の種子は、深く根づいていた。

「嘘だ」
「嘘じゃない。僕はずっと君を好きだった。君に束縛されるなら、僕は幸せだよ」
「信じない」
「どうしたら、信じてくれる?」

 ああ、そして、あの——

「おまえが……死ねば」

 ルーシサスは死んだ。
 ワレスへの愛に殉じて。

 ウィルはワレスにとって、ルーシサスへの贖罪(しょくざい)だった。
 女の子みたいな病弱なウィルに、ルーシサスの面影をかさねていた。ウィルが笑ってくれれば、ルーシサスが笑うようで、救われる気がした。死なせてはいけなかったのだ。

「だめなんだよ。レリス。おれと、おまえで、ウィルを殺した」

 レリスはショックを隠せない。しかし、どこかで予期していたかのようでもあった。

「……それでもいい。だから、恋人になれないんだって、おまえが言うなら、おれもおまえにはふれない。おまえがどこへも行かないなら……そばにいてくれるなら、それでいい」

 このときほど、抱きしめたい衝動をこらえるのに苦労したことはなかった。

 今度こそ、ほんとに二人の心は結ばれたと信じた。これもまた幻想で、すぐにも裏切られるかもしれないと、自身に言い聞かせながら。
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