八章 3
文字数 2,171文字
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ラ・スター家の領地は皇都から北。ルーラ湖をはさんで対岸だ。かつてのペガサス信仰地域。ウラボロスのあった場所だ。
そう思って見るせいか、風景はなつかしい。皇都から一刻半をかけて、ラ・スターの城が見えてくると、その感慨はいよいよ強まる。
(あの崖だ。グローリアと出会った場所。朝焼けのなかで踊っていた。とびおりたグローリアを夢中で抱きとめた。以前より波や風雨に浸食されてはいるが……)
その崖の上に城はあった。
さすがは大貴族の領内の居城だ。優雅な尖塔が空へ伸びる姿は、今まさに飛びたとうとする天馬である。
(このとめどなくあふれる、なつかしさ。やはり、ここが故郷なのだな。おれの始まりの地)
船が港に入るあいだ、いにしえの記憶がさまざまに去来した。シリウスの夢では思いだされなかった日常の細かなことも。
ユイラ王にのぞむ争いの戦勝の宴では、十二騎士が輪になって、かがり火をかこんだ。グローリアのために競って歌を捧げた。
シリウスの声は甘すぎると、よく仲間たちにからかわれた。石頭のくせに、その歌声はズルイだろうと、がさつな巨人のエピアルテースや、マーマン族のサウザンドウェーブが、やいやい言ったものだ。水棲に適した神は、概して歌うのは苦手だった。
そういえば、水蛇のキャスケイドも人前で歌ったことはなかった。彼の声はひどく、しわがれていたから。
(ハイドラの声は、キャスケイドそのものだな。蛇には声帯がないからか)
ハイドラのことを思いだすと、懐古的な気分はふっとんだ。
(あいつはなぜ、グローリアの魂を持つレリスに背いたのだろう? グローリアへの執心は、ほかの誰より強かったのに)
何か理由があるはずだ。
あるいは魔神にあやつられているのか。
そんなことを考えるうちに、城門前についた。
ワレスは入城のさい、用心深く帽子を目深 にかぶり、顔を隠した。城内では帽子はぬいだが、かわりに、ふたかかえもある大きな花束を顔の前にかかげて人目をさける。侯爵に会うまでは、黒幕が誰にしろ、ジャマされるわけにはいかない。
二階へ続く階段の踊り場を見あげて、ジョスリーヌが感嘆の声を出した。
ワレスも見た。
そこにかかる男の肖像は、まるでワレスの姿をそのまま写したように相似していた。髪の色も、青い瞳の特殊なきらめきまで、上手に表現されている。
「これは、どなたの肖像かしら」
案内の召使いに、ジョスリーヌがたずねると、
「侯爵さまの若かりしころのお姿と聞いております」
「ほんとに……」と言ったあと、ジョスリーヌが言葉につまったのは、きっと、ほんとにラ・スター家の人間だったのねと言いたかったからだろう。
言葉にしては、「ほんとに麗しい殿方だったのね」と、ごまかしていたが。
「近隣一の美男子でいらしたということでございます」
「そうでしょうね」
肖像を見たせいで、いよいよ祖父に会うのだという実感がわいてきた。
ワレスたちは、ついに侯爵の寝室の前に立った。
「ラ・ベル侯爵さまをおつれいたしました」
「うむ。なかへお通しいたしなさい」
年のせいで、少しかすれた声。
目の前で扉がひらかれ、明るい光が廊下にまでこぼれてきた。正面の窓から、さんさんと陽光がさし、眼下にひろがるルーラ湖を輝かせている。
その窓のそばに寝台があった。そこに、ラ・スター侯爵がいた。背にクッションをあてて半身を起こしている。逆光になって、顔はよく見えない。
ちょうど、そのときだ。
にわかに階下がさわがしくなる。
「伯母上! リモンダ伯母上!」
リモンダ——たしか、侯爵夫人の名だ。
「これはこれは、オービエンス男爵さま。急なお越しでございますな」
「伯母上はどこだ? 急ぎの用なのだ。早く答えろ」
使用人と言い争う男の声が、ワレスたちのところまで届く。
どうやら、敵のおでましらしい。御者から連絡が行き、大急ぎで首謀者に知らせに来たのだ。ほんとにタッチの差だった。
(黒幕は侯爵夫人か。なるほど)
自分の息子を侯爵にするため、正妻が裏で策を弄した。愛人の子になど爵位を渡すまいというプライドと怨恨からだろう。
(だが、これ以上、おまえの思いどおりにはさせない)
ワレスはジョスリーヌのあとについて、侯爵の寝室へ入った。老いたラ・スター侯爵のおもてが、光のなかで見わけられるようになった。しわだらけで髪も白くなっていたが、よこ顔にはまだ若き日の面影がある。
ジュリアスがワレスのすぎし日の分身なら、侯爵はワレスの来たる日のそれだ。
「ラ・ベル侯爵。なつかしいかたの、とつぜんの訪問ですな。いったい、どういう風の吹きまわしですかな」
「あなたがご病気だと聞いたものだから。いけませんこと?」
「いけないことがあるだろうか。ほう、これはまた、あなたのおばあさまによく似てこられましたな。お美しい」
「嬉しいことを言ってくださいますこと。おばあさまはその昔、宮廷一の美女と名高かったそうですわね」
「それはもう花のように麗しい美女でしたよ。あなたのようにね」
「お世辞でなければよろしいのですけど。花といえば、お見舞いに持ってまいりましたわ。きっと、侯爵のお気に召すでしょう」
ジョスリーヌがそう言ったので、ラ・スター侯爵の目が、ワレスに流れた。ワレスが顔の前から花束をさげると、侯爵は息をのんだ。
「イリアス! イリアスか?」
ラ・スター家の領地は皇都から北。ルーラ湖をはさんで対岸だ。かつてのペガサス信仰地域。ウラボロスのあった場所だ。
そう思って見るせいか、風景はなつかしい。皇都から一刻半をかけて、ラ・スターの城が見えてくると、その感慨はいよいよ強まる。
(あの崖だ。グローリアと出会った場所。朝焼けのなかで踊っていた。とびおりたグローリアを夢中で抱きとめた。以前より波や風雨に浸食されてはいるが……)
その崖の上に城はあった。
さすがは大貴族の領内の居城だ。優雅な尖塔が空へ伸びる姿は、今まさに飛びたとうとする天馬である。
(このとめどなくあふれる、なつかしさ。やはり、ここが故郷なのだな。おれの始まりの地)
船が港に入るあいだ、いにしえの記憶がさまざまに去来した。シリウスの夢では思いだされなかった日常の細かなことも。
ユイラ王にのぞむ争いの戦勝の宴では、十二騎士が輪になって、かがり火をかこんだ。グローリアのために競って歌を捧げた。
シリウスの声は甘すぎると、よく仲間たちにからかわれた。石頭のくせに、その歌声はズルイだろうと、がさつな巨人のエピアルテースや、マーマン族のサウザンドウェーブが、やいやい言ったものだ。水棲に適した神は、概して歌うのは苦手だった。
そういえば、水蛇のキャスケイドも人前で歌ったことはなかった。彼の声はひどく、しわがれていたから。
(ハイドラの声は、キャスケイドそのものだな。蛇には声帯がないからか)
ハイドラのことを思いだすと、懐古的な気分はふっとんだ。
(あいつはなぜ、グローリアの魂を持つレリスに背いたのだろう? グローリアへの執心は、ほかの誰より強かったのに)
何か理由があるはずだ。
あるいは魔神にあやつられているのか。
そんなことを考えるうちに、城門前についた。
ワレスは入城のさい、用心深く帽子を
二階へ続く階段の踊り場を見あげて、ジョスリーヌが感嘆の声を出した。
ワレスも見た。
そこにかかる男の肖像は、まるでワレスの姿をそのまま写したように相似していた。髪の色も、青い瞳の特殊なきらめきまで、上手に表現されている。
「これは、どなたの肖像かしら」
案内の召使いに、ジョスリーヌがたずねると、
「侯爵さまの若かりしころのお姿と聞いております」
「ほんとに……」と言ったあと、ジョスリーヌが言葉につまったのは、きっと、ほんとにラ・スター家の人間だったのねと言いたかったからだろう。
言葉にしては、「ほんとに麗しい殿方だったのね」と、ごまかしていたが。
「近隣一の美男子でいらしたということでございます」
「そうでしょうね」
肖像を見たせいで、いよいよ祖父に会うのだという実感がわいてきた。
ワレスたちは、ついに侯爵の寝室の前に立った。
「ラ・ベル侯爵さまをおつれいたしました」
「うむ。なかへお通しいたしなさい」
年のせいで、少しかすれた声。
目の前で扉がひらかれ、明るい光が廊下にまでこぼれてきた。正面の窓から、さんさんと陽光がさし、眼下にひろがるルーラ湖を輝かせている。
その窓のそばに寝台があった。そこに、ラ・スター侯爵がいた。背にクッションをあてて半身を起こしている。逆光になって、顔はよく見えない。
ちょうど、そのときだ。
にわかに階下がさわがしくなる。
「伯母上! リモンダ伯母上!」
リモンダ——たしか、侯爵夫人の名だ。
「これはこれは、オービエンス男爵さま。急なお越しでございますな」
「伯母上はどこだ? 急ぎの用なのだ。早く答えろ」
使用人と言い争う男の声が、ワレスたちのところまで届く。
どうやら、敵のおでましらしい。御者から連絡が行き、大急ぎで首謀者に知らせに来たのだ。ほんとにタッチの差だった。
(黒幕は侯爵夫人か。なるほど)
自分の息子を侯爵にするため、正妻が裏で策を弄した。愛人の子になど爵位を渡すまいというプライドと怨恨からだろう。
(だが、これ以上、おまえの思いどおりにはさせない)
ワレスはジョスリーヌのあとについて、侯爵の寝室へ入った。老いたラ・スター侯爵のおもてが、光のなかで見わけられるようになった。しわだらけで髪も白くなっていたが、よこ顔にはまだ若き日の面影がある。
ジュリアスがワレスのすぎし日の分身なら、侯爵はワレスの来たる日のそれだ。
「ラ・ベル侯爵。なつかしいかたの、とつぜんの訪問ですな。いったい、どういう風の吹きまわしですかな」
「あなたがご病気だと聞いたものだから。いけませんこと?」
「いけないことがあるだろうか。ほう、これはまた、あなたのおばあさまによく似てこられましたな。お美しい」
「嬉しいことを言ってくださいますこと。おばあさまはその昔、宮廷一の美女と名高かったそうですわね」
「それはもう花のように麗しい美女でしたよ。あなたのようにね」
「お世辞でなければよろしいのですけど。花といえば、お見舞いに持ってまいりましたわ。きっと、侯爵のお気に召すでしょう」
ジョスリーヌがそう言ったので、ラ・スター侯爵の目が、ワレスに流れた。ワレスが顔の前から花束をさげると、侯爵は息をのんだ。
「イリアス! イリアスか?」