その①

文字数 2,449文字

 時刻は八時二十二分。朝のホームルームまであと八分といったところ。しかし東雲(しののめ)綹羅(りゅうら)はまだ席に着けていなかった。

「ヤバいヤバいぜ! 遅刻するぅ~!」

 今日の朝、寝坊した。だから今走って高校に向かっている。最寄りの駅に降りた段階でこの時刻なのだ。後は彼がどれほど素早く走れるかにかかっている。
 そんな切羽詰まった状況であるというのに、綹羅は呑気に、

「さあ、ランナー東雲選手は最終コーナーを曲がった! 後は直線だ、間に合うか、どうかー! もう校門が見えてくる、今にも閉まりそうだ! 間に合うか間に合うか……間に合ったー!」

 まるで自分がスポーツ選手であるかのような実況をしている。そしてギリギリ、校門をくぐって昇降口で靴を履き替え、教室に直行する。

「ふう!」

 先生はまだ来ていない。汗をタオルで拭き取りながら綹羅は席に着いた。

「あ、おはよう!」

 隣の席の最上(もがみ)(たまき)が、彼の登場に気づいて声をかける。

「お、おはような! 今日は危なかったぜ…。でも何とかセーフだ!」

 そう返し、本日の時間割を確かめると教科書を机の中に入れ、準備を済ませる。

「今日は化学の小テスト、ないらしいよ」
「本当に? そりゃあ良かったぜ! あんな問題やってられないからな~」

 彼は結構呑気だ。成績はそこまでよろしくないはずなのに。だが逆にその能天気さが、彼の魅力だろうか。緊張しないで物事に取り組むことができるのは、重宝する才能だ。だから二月にあった高校受験も乗り切ることができたのだ。

「おい、環」

 教室の前の方から、小和田(こわだ)泰三(たいぞう)が環に話しかけてくる。

「例のプリントだ。こんな簡単な問題、いつでも解けるようにしておけ」

 そう言って、A四のレポート用紙を彼女の机の上に置いた。

「ありがとうね!」

 感謝の言葉を聞かないで、泰三はさっさと自分の席に戻ってしまう。その態度には冷たさを感じずにはいられない。だが、環はそれでも彼と接することをやめない。二人は幼馴染なのだ。

「最上さん、俺にも見せてくれよ」

 綹羅はそれに飛びついた。話せれば話題は何でも良かったのだが、ちょうど目の前にいい感じの大材があるのだ。

「いいよ。でも私が写してからでいい?」
「ああ! いつでもいいぜ」

 いつもの楽観的な態度で環に接する。ちょっとしつこいぐらいだ。それには立派なわけがある。

 綹羅は環のことが好きなのだ。だから隣の席になった時には嬉しかったし、いつも何かしら話をしようと努力する。幸いにも、誰にもバレていない恋心。だから冷やかしをくらうことはないが、協力してくれる人もいない。
 だが、その想いを邪魔する存在がいる。それはさっき環の目の前に現れた、泰三。幼馴染だからだろう、入学当初から二人はよく話していた。態度には出さなかったが綹羅は、それが気に食わないのだ。しかも泰三の冷たい態度に環は何一つ文句を言わない。そのことが、余計な邪推を彼にさせる。

(もしかして、二人はいい感じなのか…?)

 そうであっては欲しくない。だが、入学して三か月が過ぎ、気づけば夏休みは目の前。にもかかわらず、綹羅は一歩が踏み出せない。どうしても泰三の存在が、時には大きな壁に、時には深い落とし穴となってしまう。


 この日は化学の小テストがない代わりに、実験があった。化学室に向かうと、先生が決めた班分けに従う。綹羅は環と同じ班にはなれず、代わりに泰三が彼女の隣にいた。

「ようし、今日の実験は…」

 同じ班となった水穴(すいけつ)勇宇(ゆう)が教科書をパラパラとめくりながら、実験器具の準備をする。真面目な彼は積極的に実験に取り組む。

「おい綹羅、それ取ってくれ」
「おう!」

 だが、こんな状況でも心を隠して接することができるのが綹羅だ。不満の一つも表さない顔で、実験の手伝いをする。

「美織、真面目にやってくれよ! そうじゃないと成功しないかもしれないんだぞ? そうしたら、成績が悪くなるかもしれないじゃないか…」

 青砲(せいほう)美織(みおり)は勇宇に言われても、何も答えない。彼女は口数が少なく、綹羅とは別の意味で何を考えているのかわからない人物。

「もういい! 果叶が取ってくれ!」
「わかりました」

 黒牙(こくが)果叶(かかな)は積極さこそ勇宇に負けるが、根は彼と同じくらい真面目な生徒だ。それに綹羅も加わって実験を進める。美織はただ見ているだけだ。

 こうして実験している間にも綹羅は、チラリと環の方を見てしまう。彼女は泰三の横で、笑顔で実験しているのだ。心の中で悔しさがどうしても生まれてしまう。

「これ、もうちょっと分量足しますか?」
「そうだな。少なすぎると反応が全然見えない」

 実験は難なく進み、すぐに終わった。あまり貢献できなかった綹羅は、せめてと言って後片付けは自分でやると名乗り出た。

「悪いな、綹羅。俺は班の結果を先生に報告してくる。間違ってたらやり直しかもしれないから、戻って来るまで待って…」

 勇宇の心配は実現しない。何故なら勝手に美織が先生に結果を教えてしまっていたから。彼女の持つプリントには、『成功!』とスタンプが押されている。

「おいいぃいい、勝手に行くなよ! せめて一言断れ!」
「……別にいいじゃない」

 そう言うと美織は、片付けを始めた。

「あ、俺も手伝うぜ!」

 綹羅も器具を洗い、元の棚に戻す。その時泰三と出くわした。

「よ、泰三!」

 恋のライバルとは口が裂けても言わない。察せられないように自然に接するのみだ。けれども、

「綹羅…。放課後、ちょっと屋上に来い」

 と言われた。

「ええ? 何でだよ?」

 その問いかけに泰三は答えない。

「何か悪いことでもしたか、俺…? う~ん、思い当たることがないな…」
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