第19話 「十牛図」を飾りたい
文字数 1,322文字
もし私が大富豪で、自宅の一番広いリビングルームの壁になにか飾るとしたら……。
十牛図 を飾りたい。十枚の禅画。富豪の贅 と禅画の静謐 のミスマッチ。
十牛図はなんか絵がさっぱりしていて好きなんですよね~。
禅の悟りに至る10の段階を絵と漢詩で表したもの。真の自己を“牛”に例えているといわれています。解釈に幅があるので、自分探しや、ビジネスセミナーにも使われているようですが、それは置いといて。
みなさんご存じかもしれませんが、簡単に説明します。独自解釈を含みます。
見づらいのでデフォルメ版も。
第一図:尋牛
若者が牛(自己)探しを始める。現状に疑問を持ち、俗世間から離れ修行の道に入る。
第二図:見跡
若者は牛の足跡を見つける。悟りに至るかもしれない、微かな可能性が表われかける。
第三図:見牛
やっと探し求めていた牛の尻尾を見つけた。まだ全体像は掴めないが、悟りへの道の一端が垣間見えた状態。
第四図:得牛
牛を捕らえる。しかし牛は暴れ逃げだそうとして大人しくしてくれない。煩悩(自意識)が暴走してしまう自分に、四苦八苦する修行の場面。
第五図:牧牛
牛が大人しく手綱に引かれるようになる。自己を理解することでコントロールできるようになるが、まだ綱は手放せない状態。
第六図:騎牛帰家
牛の背に乗り、楽しげに笛を吹きながら家に帰る。悟りにより自己は揺るぎなく堂々としている。自然体の自分を楽しめるようになった状態。
第七図:忘牛存人
修行から家に帰り着く。牛は小屋にいれ、庭でのんびり月を拝んでいる。意識から牛は消え、煩悩がなくなった境地。
第八図:人牛倶忘
人も牛も共に忘れる。私という主語も消え去り、そこにあるのは空。禅でいう「円相」の世界。
第九図:返本還源
川が流れ木々には花が咲いている、空の世界に自然が戻ってくる。あるがままの自然の素晴らしさにたどり着く。
第十図:入鄽垂手
恰幅のよいにこやかな老人が、里に下りてきて若者に出会う。
悟りを開いたかつての若者は、再び社会と関わる中で若者と出会い、影響を与える。そしてその若者は「第一図 尋牛」から始める。
この第七図からがいいんですよね~。もう自分にこだわらない、自分を手放しちゃっているところ。
そして第九図、自分の内面が凍りついているようなときでも、そんなことにはおかまいなく川の流れは清らかで花は瑞々しく咲いている。
川沿いでぼんやり佇んでいた、若いときのそんな感傷を思い出すのです。
これは第九図の意味から外れますね。とにかく自分がいなくても自然は美しいのです。
堂々のラスト、第十図。
かつての若者が悟りを得てなお、人里に降りてきて俗世間に関わろうとするその境地。
寺で心静かに暮らせるのに、あえて泥にまみれることを厭わないその心意気が、最高にクール。
この老人のスタンスは、「教えてあげる」じゃないんですよね。「入鄽 」は”町に来る”という意味で、「垂手 」は”手をぶらりと垂らしてなにもしない”と言う意味。ただにこにこしている。
なにもしないのに、ふれあった若者を感化していく。蒙昧 がゆえに気楽に終わるはずだった若者の人生が、難儀なものに変わるかもしれない。
けれど若者は後悔しないと思うよ。
くどいようですが、独自解釈を含みます。
十牛図はなんか絵がさっぱりしていて好きなんですよね~。
禅の悟りに至る10の段階を絵と漢詩で表したもの。真の自己を“牛”に例えているといわれています。解釈に幅があるので、自分探しや、ビジネスセミナーにも使われているようですが、それは置いといて。
みなさんご存じかもしれませんが、簡単に説明します。独自解釈を含みます。
見づらいのでデフォルメ版も。
第一図:
若者が牛(自己)探しを始める。現状に疑問を持ち、俗世間から離れ修行の道に入る。
第二図:
若者は牛の足跡を見つける。悟りに至るかもしれない、微かな可能性が表われかける。
第三図:
やっと探し求めていた牛の尻尾を見つけた。まだ全体像は掴めないが、悟りへの道の一端が垣間見えた状態。
第四図:
牛を捕らえる。しかし牛は暴れ逃げだそうとして大人しくしてくれない。煩悩(自意識)が暴走してしまう自分に、四苦八苦する修行の場面。
第五図:
牛が大人しく手綱に引かれるようになる。自己を理解することでコントロールできるようになるが、まだ綱は手放せない状態。
第六図:
牛の背に乗り、楽しげに笛を吹きながら家に帰る。悟りにより自己は揺るぎなく堂々としている。自然体の自分を楽しめるようになった状態。
第七図:
修行から家に帰り着く。牛は小屋にいれ、庭でのんびり月を拝んでいる。意識から牛は消え、煩悩がなくなった境地。
第八図:
人も牛も共に忘れる。私という主語も消え去り、そこにあるのは空。禅でいう「円相」の世界。
第九図:
川が流れ木々には花が咲いている、空の世界に自然が戻ってくる。あるがままの自然の素晴らしさにたどり着く。
第十図:
恰幅のよいにこやかな老人が、里に下りてきて若者に出会う。
悟りを開いたかつての若者は、再び社会と関わる中で若者と出会い、影響を与える。そしてその若者は「第一図 尋牛」から始める。
この第七図からがいいんですよね~。もう自分にこだわらない、自分を手放しちゃっているところ。
そして第九図、自分の内面が凍りついているようなときでも、そんなことにはおかまいなく川の流れは清らかで花は瑞々しく咲いている。
川沿いでぼんやり佇んでいた、若いときのそんな感傷を思い出すのです。
これは第九図の意味から外れますね。とにかく自分がいなくても自然は美しいのです。
堂々のラスト、第十図。
かつての若者が悟りを得てなお、人里に降りてきて俗世間に関わろうとするその境地。
寺で心静かに暮らせるのに、あえて泥にまみれることを厭わないその心意気が、最高にクール。
この老人のスタンスは、「教えてあげる」じゃないんですよね。「
なにもしないのに、ふれあった若者を感化していく。
けれど若者は後悔しないと思うよ。
くどいようですが、独自解釈を含みます。