第2話 年下の男と易経の『坎為水』という卦

文字数 1,103文字

 年下の男とつき合っていたことがあります。

名を『ホクロ』とします。ホクロからの依頼で絶対内緒の社内恋愛。
そんな風に、出だしから私が負けていた恋愛でした。

 ある日、ホクロは言いました。
「チワワさんからデートに誘われた。今度の土曜日」

 チワワというのはホクロと同年代のとてもキュートな女の子です。
ダメだと言ったら嫌われるでしょう。チワワとホクロが意気投合(いきとうごう)したら、私は恋人を解雇(かいこ)されるんだろうな。
どういう反応があとあと有効なのかわからず、とりあえず私は黙りました。
でも帰りのバスの中で、(みじ)めな気持ちになったのは覚えています。夜の窓ガラスに映る、自分の顔を見たくなかった。

 部屋に帰ってきてから、そのとき読んでいた易占いの本を広げました。『易経(えききょう)』をわかりやすくかみ(くだ)いた本です。気を(まぎ)らわしたくて。

 易経とは、
天、沢、火、雷、風、水、山、地
この8つの要素の2つを上下に組み合わせ、64()に変化させたものです。
その中に『坎為水(かんいすい)』と言う()がありました。

 『坎為水』は上も水、下も水、水が2つ重なっているありさま。四大難卦の1つ。
激流(げきりゅう)(うず)に飲み込まれそうになっている危険な状態です。
昔ならば、水商売に身を落とし堅気(かたぎ)になろうとしてもかなわず、流転の人生をたどる女性によく出た卦、と言う説明書きがありました。

占いをしていたわけではなく、本を開いて「卦」を順番に(なが)めていって、
「ああ、私、今、これだな」と思いました。


 目の前を黒い濁流(だくりゅう)が流れている。
これは嫉妬だ。チワワは私とホクロが仲がいいことを知った上で誘っている。ホクロも私を舐めきっている。
でも私は分が悪い、下手に動いてはダメなのだ。下手に動いては底の見えない濁流に呑み込まれてしまうから。
私は目の前で、水嵩(みずかさ)を増したまま果てしなく流れる黒い水をじっと(なが)めて、やり過ごしました。


 それから私は、やるせない感情に(とら)われそうになると、黒い濁流をイメージするようになりました。
渡ってはダメ、今動くと危険。(あせ)る気持ちを抑え、水が引くのをじっと待つのです。
状況は、いつか変わるから。


 易占いの本は好きです。人生の四季が循環(じゅんかん)して、一つのストーリーになっているのです。
夏の後には秋が、そして冬が来る。冬を耐えれば雪解(ゆきど)け水。
だから私は好調なときほど慎重になったし、低調なときはそんなものだと思うようになりました。



 数年後、状況が変わり、私からホクロに別れを告げました。
別れ話はけっこうこじれました。
「じゃあ生まれ変わったら一緒になろう」
と言われて、なかなかケリのつかない別れ話に疲れていた私は、
「うん」
と答えてしまったことを、今でもたまに思い出して(にが)い気持ちになります。

 嘘ついたなって。


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