第52話 『比良坂工場の蔓薔薇』には実話が入っている

文字数 1,464文字

 もう十年以上前の話。職場に派遣社員がやってきた。
眼鏡の若い女の子。清純で穏やかな雰囲気、それが第一印象。
 仮に藤さんとする。

 藤さんは、一緒に仕事をするようになっても最初の印象は変わらなかった。
ずるいところが無い。いつもにこやかで真面目な仕事ぶり。
どうしてこんなに性格がいいんだろう、首をかしげるくらい。

 少し気になったのは携帯電話を二つ持っていたこと。
「すごいね、芸能人みたい」と私がちゃちゃを入れると、藤さんは曖昧に笑った。

 少しすると、藤さんは他の女性社員から仕事を押し付けられるようなった。
あいつら(女性社員)は虫も殺さぬ顔をして、つるむと黒く変容する習性がある。タチが悪い。
私は目配りし、藤さんを(かば)った。だって藤さんはずるくないから。当然のこと。

 私と藤さんは年が離れていたけど、食堂でよく他愛のないお喋りをした。



 強い結婚願望のある三十代独身男性の、あの人はなんて名だったかな、松くんでいいや、松くんは藤さんをとても気に入っていた。

 藤さんが松くんのいる業務室に入ってくると、松くんは仕事の手を止め顔を上げ、藤さんをはっきりと目で追うのだ。
藤さんを露骨に凝視する松くんを目視した私は、「また今日も見てる」とほくそ笑み、そんな私(既婚済)を目で追う別の独身男性(変人)も居て、その変人をライバル視しているこれまた別の独身男性(神経質)が私と変人の距離を監視していて、出世頭のお局女性がそれらを俯瞰していた。

 なぜそれを知っているのかというと、お局が半笑いで教えてくれるからだ。
あの頃の職場は視線が交差しまくっていて妙だった。
パワハラも横行して怒声が飛び交い、今考えるとみんなどうかしていた。


 当時私には、仕事以外で苦手なことがあった。
お喋りな食堂のおばさんにつかまると、なかなか解放してもらえないことだった。(今はもう食堂は無い)

 この人の話は自慢や陰口ばかりでつまらなかった。
この人の名前ははっきり覚えている。でも杉(仮)さんでいいや。
「ちょっと忙しくて」と引きつり笑いで、杉さんの話を切り上げる私。


 ある日杉さんは、私の足を止めるため隠し玉を出した。

「ここだけの話、藤さんいるだろ、富士山を信仰するちょっと変わった宗教の幹部クラスなんだよ、見かけによらず、すごいんだから」

「朝、富士山の方向に向かって拝むんだってよ」

「私、勧誘されたよ。あとは派遣の梅(仮)さんと清掃の竹(仮)さんも」

「断ったけどね」

「中学の頃いじめられて不登校になって、その宗教に救われたんだって」

「佐久田さんのことは勧誘しないって。嫌われたくないからって言っていたよ」


 ああ、あの性格の穏やかさは信仰があるからなのか。
携帯はプライベート用と宗教活動用なのか。さすがだな。
私は納得した。


 そしてその時の気持ち。
うまく言えないけど、藤さんと仲良くしていた自分が試されるような。
藤さんは捨て身なのに、自分は傷つかない安全地帯にいる後ろめたさのような。


 杉さんは「ここだけの話」を数人にして、藤さんの宗教の噂は瞬く間に広まった。
藤さんを好きな松くんは、飲みの席で「藤さんと結婚できるならその宗教に入ってもいい」と冗談抜きで語っていたという。
 冗談抜きの話は面白い。

 けれども藤さんは最後まで松くんを勧誘しなかった。
松くんは仕事はそつなくこなすし悪い人じゃないし、なにより藤さんにぞっこんだったから私としてはお勧めだったけど、誰でも彼でも勧誘すればいいというわけではなかったようだ。そりゃそうか。


 藤さんは二年くらいいた。


(藤さんはこんなイメージです)





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