第13話 会津の長州嫌い【続編】

文字数 1,145文字

 軽く流し読みしてください。

 先週『正直苦手な都道府県~会津の長州嫌い~』をアップしてから、実は消化不良感がありました。
あの館長さんが気になったのです。会津藩校日新館の館長さん。

とにかく「朝敵の汚名」を着せられた無念を晴らして、名誉回復したいという思いが色褪せずに伝わってくるんですね。150年経っているのに。

 「朝敵」とか、知ったかぶりで書いているけど、調べましたよ。
文字通り「朝廷の敵」。
あれ? どのタイミングで幕府は朝敵になったんですか? そして朝敵、賊軍の入れ替わりが目まぐるしい!
余談だけど、ネットで〈朝敵〉と入れるとサジェスト機能で〈朝敵 小室〉と出てきて笑っちゃった。

 まず「会津藩校日新館」とはなんぞや?と思い調べました。
優秀な人材を育成することが藩政を運営していく上で重要と考え、家老の田中玄宰(はるなか)の進言がきっかけで作られたという。
目を引くのは『(じゅう)(おきて)』です。

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

七とラストのパンチが効いていますね。
とにかく会津武士の鉄則は、「卑怯な振る舞いをしてはならぬ」に集約されるように感じました。

 それから会津藩には憲法『会津家訓(かきん)15カ条』というものがあります。徳川幕府に忠誠を誓う、いわば精神的支柱。それから逸脱できずに、保守的体制が悲劇を呼んだのでしょうか。

 それに比べて長州藩主の毛利敬親(たかちか)は、なんでも「そうせい」だったので、家臣達がのびのびと議論することができたという記述を観測。それが維新の力に繋がった?

 ネットの記事なので有象無象(うぞうむぞう)あるかもしれませんが、こんな記事も見かけました。

・会津攻めの主力は土佐藩と薩摩藩だった。
・長州藩が会津入りしたとき、すでに会津は籠城していた。
・戊辰戦争後、会津を統治したのは長州藩ではなかった。

え? 長州藩とばっちり? また別な因果関係があるのかな?

 調べれば調べるほどわからなくなってきました。
歴史ってその時代だけ切り取ってもダメなんですね。過去からのしがらみが連綿(れんめん)と繋がっているから、一つの結果に対して要因はたくさんありそう。

 でももし、仮にですよ、タイムスリップして白虎隊などの悲劇を起こさないようにするためには、どの時点のどこを修正すればいいのでしょうか、歴史クラスタのみなさん。


(NHK大河ドラマに『八重の桜』というドラマがあったのですね。私は未視聴でした。みなさんの方が私より遙かに戊辰戦争、そして歴史全般は詳しいと確信があります。で、冒頭の言葉になります)


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