第36話 東日本大震災と小学生新聞

文字数 1,521文字

 今週、東京出張がありました。


 お楽しみは新幹線の中での駅弁。東北福興(ふっこう)弁当をいただきました。
おかずがちょこちょこ何種類もあるのが好きなのです。
青森県「帆立生姜味噌煮」、秋田県「ハタハタの甘辛米麹和え」、山形県「芋煮風炊き合わせ」などなど、どれも美味しかったです。

 東日本大震災から今年で11年。
今でも思い出すことがあります。


 震災当時、息子は小学5年生でした。
母が中学受験をしたらどうかと口にして、息子もややその気になっているようでした。

 中学受験といったら、筆記試験の他に面接、作文。そのためには新聞を読んだ方がいい、というのは受験あるある。
受験は別にしても、社会情勢をなんとなくでも感じておくことは大切だなと思った私は、「小学生新聞」をとることにしました。
(結局中学受験はしませんでした。一時期そういうムードになっただけ。笑)

「小学生新聞をとるから、サッとでいいから見てね~受験にも役立つから~」
息子に言いました。息子は、
「んー、多分読まないよ」
「そうか。じゃあお母さんが読むよ。気が向いたときに読んでよ」

 宣言通り、息子は小学生新聞を読みませんでした。パズルや謎解きはやっていたかな。
宣言通り、私が読みました。字は大きめで全部ふりがながあるし、わかりやすいのです。
「お母さんが賢くなっちゃうよ~」「また今日も1つ、賢くなってしまった」と呟きながら。


 そして半年後、2011年3月11日14時46分、東日本大震災発生。

 小学生新聞の一面に、写真と記事が載りました。
小学生新聞はわかりやすさが命。わかりやすさが生々しくて、涙が浮かぶ。

 少し経つと、被災した小学生たちの手記が掲載されるようになりました。
記憶がおぼろなのですが、今でも覚えている手記が2つあります。


 お父さんとお母さんと避難しているとき、じいちゃんの車が反対方向へ走って行くのが見えた。じいちゃん、なにやっているんだ。俺は心配でドキドキした。そしてじいちゃんは戻ってこなかった。じいちゃん、なんですぐに避難してくれなかったんだよ。


 僕が母さんと車で避難するとき、父さんは後からすぐ行くと言った。そしてそれっきり会えなくなった。父さん、なぜあのとき一緒に逃げてくれなかったんだ。
僕があのとき、むりやりにでも引っ張って連れていけばよかったんだ。


 私の怪しい記憶力を頼りに書き起こしたので、50%も再現できていません。元の手記はもっともっと()きだしの迫力がありました。じいちゃんも父さんも、仕事場が気になったり大事なものを取りに戻ったのかもしれません。
ああ、スティグマ(傷跡)がこの子達に刻まれた。この子達は今後、これを背負っていくんだ。

 このときは息子と一緒に小学生新聞を読みました。

 
**********


 去年2021年10月に福島県浪江町の請戸(うけど)小学校が、震災遺構(しんさいいこう)として公開されました。
震災遺構とは、震災が原因で倒壊した建物を、次世代へ向けて、震災が起きたという記録、教訓のために保存しておくというものです。

 避難のために、全国に散らばった請戸小学校出身者が校舎に集まり、当時の思いを語るというドキュメンタリーを見ました。
その中の1人、震災で両親を亡くした女性(23才)の言葉、

「お父さん(の遺骨)を1日でも早く見つけて、お母さんと一緒の墓に入れてあげたい。それが私の夢です」

 その女性の気持ちの落としどころがそれなのかもしれない。人生と震災が深く結びついてしまっているが故に。
けど、亡くなった親がそれを聞いたら、
「その気持ちだけで十分嬉しいよ。もう探さなくていいからね。もうこっちの心配なんかしないでいいからね。夢は自分のことを叶えなさい」
そう言うんじゃないかと……ふと思う。




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