26 世界の美

文字数 2,449文字

 今の東ガリアには力も勢いもあることは確かだ。それでも西と比較して圧倒的か、そう問われたならば、残念ながら、と答えざるをえない。まだ早いのだ。機が熟す前に起こした行動の行く末を予測するのはあまりに難しい。

 それでもできる限りの手は打つが……。

 城を出て以降、面会を求める西への(ふみ)を送る一方で考えうる限りの戦略をフォルクハルトは文字に書き留めてきた。それはもうすぐ書き終わる。エリスブルグに着き次第ウドたちに送ればもはや後顧の憂いはない。傭兵たちのことも彼らがどうにかしてくれるだろう。特にイザークのことは……と、そこまで考えが及び彼の青い瞳を思い出した、その直後のことだった。

「!」

 運命とは気紛れな貴婦人そのものだ。

 もしもこの時フォルクハルトがイザークのことを思い出さなければ、あるいはその青い瞳のことを脳裏に思い浮かべさえしなければ、もしかしたら彼がここでその視線に気付くことはなく、その先に続く未来もまた違う結末を導いたのかもしれない。

 しかしフォルクハルトは気付いてしまった。青い瞳の存在に。

 誰だ?

 そこに人がいるなどとは思ってもみなかった。しかもそれはどう見ても子供で、農民の子だろうか──?

 街道はいつしか渓谷を抜け川から外れ、遠くに山並みの(かす)む平原を視界に(とら)えるようになっていた。右は切り立った崖、左は低く平地の広がる小麦畑。問題の人影は崖の上から一行を静かに見下ろしていた。

「まさか!」

 横にいた兵士も気付いたか舌打ちをした。「見てわからないのか」

 その声をフォルクハルトは横に聞き流した。

 東ガリアの平民に対する強要は時に度を越える。騎乗の貴族とかち合えば平伏で見送ることが求められ、それをしなければ斬り捨てられても不平を言うことさえ許されない。目を合わすなどもってのほかだ。

 理不尽だ。フォルクハルトは思う。昔からそう思ってきた。

──往来での暗殺を未然に防ぐ。

 かつてはそのように機能したと理解していても納得がいかなかった。両手を地につけさせれば確かに相手の動きを封じることはできるだろう。しかしすれ違う沿道ならばまだしも、「目に見える範囲」のすべてを平伏の対象とした場合はどう考えてもその意味合いが違うのだ。

 こんなことで一体我々貴族は何を守ろうというのか。

 フォルクハルトが(いま)だに答えの導けない疑問の一つがそこにはあった。しかし、思うことがあってもこの場で議論する意味もまたなかった。貴族たちは彼の真意をまるで解さない。

 そう。いつでもそうだ、この問いかけは誰に向けても空回ると不服の気持ちを抱いて顔を(しか)めたその刹那(せつな)、風が木の葉を揺らすように心がざわめき、フォルクハルトは驚きに目を見開いた。

 今のは、(なん)だ? 何が起きた?

 前触れなく起きた心の揺れ動きに戸惑うフォルクハルトに、別の兵士がさっと近寄り耳打ちをした。

「すぐに」

 処理する、の意味を言外に含ませて発せられた短い言葉に我を取り戻し、フォルクハルトは慌てて兵士を止めに入った。

「放っておきなさい!」

 内心の動揺を表してか、氷のような棘を含んだ声になっていた。

 平生のフォルクハルトはいたって穏やかな一面だけを表に出してきた。柔らかく、当たり障りのない人間を強いて演じてきたのだ。したがって咄嗟に出たその声の冷たさに誰よりも自身が驚いたことはいうまでもない。当然周囲の動揺も大きかった。

 しくじった。

 思わずフォルクハルトは唇を噛んだ。しかし今更ここで何を取り繕ってもかえって体面が悪くなるだけとも察した。仕方なしに冷淡な無表情を装い、ゆっくりと兵士たちを見回してから言葉に威厳を込める。

「まさかあの崖を登るつもりなのですか?」

「足場はありますから登れないこともありません」

「それまであの子供が大人しく待っているとでも?」

「追いかけます」

「大事の前です」

「しかし!」

「些末なことです!」

 しかし喋っているうちに気が高ぶり、自分でも信じられないほどに激しく厳しい声が出てしまった。

 一体どうしてしまったのだ。

 フォルクハルトは戦慄した。

 その一方で叱責を受けた兵士は無言の()を置き、それから不平顔を浮かべるも黙諾して後方へと下がっていった。それを見て密かに安堵の吐息を漏らしたフォルクハルトだが、この一連のやり取りでささくれ立った自身の気持ちには制御がかけられず、

 見逃したところで何がある?

 心の裏で唾棄した瞬間、長年にわたって溜めこんだ鬱憤が激しく水面下で()ぜた。

 何もない。あるはずがない。

 私たちはそれをただ見せつけたいのだ。権力に威を借る者の(おご)りをもってこの手にある狂気の化身を、それがただの幻覚でしかないということさえ理解できぬまま。

 人とは、なんと愚かな生き物か。

 この身に(まと)った服と地位を()ぎ取った(のち)、果たしてそこには何が残るのだ。ただ生まれ、死にゆくだけの肉体のほかに何一つ残らないというのに、その周りを他者よりも華美に着飾るだけで人は何かを勘違いする。それだけで周囲を見下せる位置へと一段登ったつもりになる。傲慢だ。

「礼儀をわきまえない愚民が!」

 背後から非難の声が聞こえ、フォルクハルトは眉根を寄せた。どうやら随行者たちには別の不満が伝染していたらしかった。

 しかしそれはそれで、困るのだ。

 そしてこのような負の感情を積極的に掻き消すことがいかに難しいかをフォルクハルトは承知していた。ならば今はただ、黙って耐えるだけか……。丹田に力を込めて顔を引き締めると、周囲はその様子を察して息を飲んだ。

 やがて王子の頑固な態度に諦めが付いたのか、周囲も徐々に冷静さを取り戻していった。不平も不満もすべてが快調な蹄の音に飲みこまれ、穏やかに霧散して消えていく。

 しばらくしてその場の空気が落ち着いたことを感じ取ると、ようやくフォルクハルトは気持ちを緩めて長い息を吐き出した。それからもう一度、深い理由もなく崖の上に一瞥を向け、すぐに反対側の小麦畑を見つめてから──息を飲んだ。

 いや、違和感があったのだ。
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登場人物紹介

フォルクハルト・フォン・ツアミューレン

 東ガリア王国の王太子。王都にはほとんど寄り付かずに戦場を駆け巡る日々を過ごしている。

 とにもかくにも死にたがりで、周囲をやきもきとさせている。

ダニエル・ド・ワロキエ

 西ゴール王国の王弟。呪われた王弟として東西ガリア中にその名が知れ渡っている。

ウド・ジークムント・フォン・オーレンドルフ:

 オーレンドルフ家長男。色を好みすぎて実家からは勘当されている。

 フォルクハルトの右腕を自称しているが当のフォルクハルトには煙たがられており、願わくば消えてくれと思われている。

イザーク:

 傭兵団〈灰猫〉の団長

タイス

 ダニエルの付き人。

王后

 東ガリア国王の第一夫人。アウレリアの実母。フォルクハルト、およびその妹2人の養母。

 政治に口を出すことはないが、その権威は国王を凌ぐとも噂されている。

 フォルクハルトとアウレリアとの間にわだかまる王位継承問題については、これまで一度も自身の立場や意見を公式にも非公式にも表明したことはない。それゆえに様々な波紋を王宮内に投げかけ、憶測が飛び交う原因となっている。

アウレリア:

 東ガリア王国の第一王女、グレーデン公爵夫人、フォルクハルトの異母姉。

 グレーデン公爵との間に子がないため、年の離れた弟のフォルクハルトを我が子のように溺愛している。

グレーデン公:

 アウレリアの夫。フォルクハルトの義理の兄。

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