8 新月
文字数 2,416文字
対するウドはしかつめ顔を崩さず、わざとらしいまでに素っ気なかった。「二 月実家でのんびりと命の洗濯をして過ごすのも、案外悪くないかもしれませんな?」
「用件はそれだけか?」
フォルクハルトは舌打ちをして、この悪魔の化身を部屋から追い出した。
3
新月の帳 が北の大地を覆い隠し、夏のうすら寒さが忍ぶように西ゴールの離宮を包み始めていた。例年であれば国王一家とその主人 として長年にわたり客 をもてなす役を担ってきたダニエルは暇を持て余し、いつにない退屈な毎日を過ごしていた。
いや、退屈なのは大変結構なことではないか。ダニエルは自分に言い聞かせた。
中央の人々は煌 びやかすぎる。簡素さと静かさと平穏を好むダニエルに彼らの姿は見るだけで眩 しい。苦痛でさえある。しかも彼らが来れば
……と、そこまで考えたダニエルはふと、自らを誤魔化そうとしているその態度に気が付き自嘲した。
結局は、そういうことなのだ。例外が起これば得てして物事は良からぬ方向へと転がり落ちている。
とはいえまさか、こんなことが起こるとは。
頬杖を突いたまま溜息を一つ零 し、ダニエルはそのまま視線を下げて机の上に固定した。色も大きさも異なる二枚の紙切れが主 の性格を反映するようにきっちりと端を揃えて並べられている。それを見つめる当のダニエルはといえば、今日という日を呪えばすべてが元通りに戻るのだろうかとまたしても無意味なことを考え、その愚かな考えに眉根を寄せた。
王族たちが今年に限って避暑に来ない間 も惜しんで王都へ引き返したばかりなのだ。
まずいことになっていると、ダニエルは頭を抱えた。
国内の不穏に、国外の緊張。
どの角度から眺めてもそれぞれ異なる情報を記 した二枚の紙は合わせ鏡そのものだ。その中に潜む真意はこちらで紐解かねばなるまいが、しかし荷が重い。……と、そんなことをつらつらと考えていた時だった。タイスが夕餉の膳を携えてやって来たのに気が付き、はっと顔を上げたダニエルは慌てて指の背で眉間の皺を揉みほぐした。あまりの事態にタイスとの約束をすっかりと忘れていた。
──今宵は二人で語り明かしましょう。
退屈さにかこつけて、そんな提案を昼にしてあったのだ。
夏至を過ぎて最初に訪れる新月の夜は特別で、親しい者たちとしめやかに時を過ごすものと西ゴールではされている。共に過ごした者たちの絆を未来にわたって約束するという言い伝えがあるからだ。国王一家がこの北の大地に、選りすぐりの
避暑とは建前でしかなく、物事には常に裏がある。
「今日は西国の葡萄酒が手に入ったそうですわ! 近頃はあちらも内戦が激しく心配していましたが……」
何も知らず嬉々として部屋に入ってきたタイスは、ダニエルの様子に気付くとすぐに表情を凍らせ立ち止まった。それを見たダニエルの方も蜂に刺された気分に沈む。
タイスはいつもそうなのだ。巧い具合に空気を読む。
普段であればその気配りを好ましく思うダニエルだったが、今回に限っては彼女のその勘の良さを苦々しいと感じ、そんなことを思う我儘な自分にも幻滅した。
気の置けない相手という意味では、今のダニエルにはタイスしかない。それなのに……。
「何か、あったのですか?」
「早く食卓を整えてください」
しかしダニエルの返事は素っ気なかった。
姿勢は先刻から変わらず机に肘を乗せ、頬杖を突き、内心の憂鬱はそのまま表情になっている。
ダニエルは少しでも気を紛らわそうとほんの僅 かに首を傾 げて窓の外を見た。それでも気持ちは鉛玉のように重く、卓上の紙面に縫い付けられ剥 がれなくなってしまったのかと思うほどだ。それぞれの紙面に綴 られた内容は今や一字一句、空 でも唱えることができるまでになっていた。
やれやれ、どうにも面倒なことになった。
そう思うと目の前のタイスの存在を再び忘れ、ダニエルの思考はそのまま思索の海へと沈んでいった。複雑な笑いが貼りついた幼い顔には大人びた憂いが滲み、明かりの揺らめきの中にその陰を静かに落としゆく。
その姿を見た者は誰であれ、それが男であっても女であっても、ダニエルを評するためには惜しみなく「美しい」という言葉を濫用してきたものだ。青い瞳は宝石のように輝き、艶めく巻き毛は金糸のように滑らかで、白皙の顔は非の打ちどころなく整っている。何よりも小さな体格と相俟 ってか、その身に纏 う空気そのものが驚くほど儚 い。ダニエルのそうしたあやふやな存在感はこれまでに何度も、人を耐え難いほどの欲情に駆り立ててきた。
庇護欲、あるいは征服欲、はたや破壊欲。
存在そのものが呪われた時から、ダニエルのその身は人の内に燻 ぶる欲望を顕現させる道具になった。しかしながらダニエルを真に庇護し、あるいは征服し、破壊の域にまで到達した者はまだ現れない。永遠に出現しないのではとダニエル自身は思っていた。それでいいとも思うが、それでいいのかとの煩悶もある。未踏の世界で待ち構えるものがダニエルにとって現状より好ましいものかどうか、誰にも確かなことはわからない。
呪いは所詮、呪いだ。神の示しとは違う。だからもう、こんな戯 れは早々に終わらせなければ……と、そこまでダニエルの思考が飛んだ時だった。
「用件はそれだけか?」
フォルクハルトは舌打ちをして、この悪魔の化身を部屋から追い出した。
3
新月の
お気に入り
が揃って夏の涼を楽しむこの避暑地に、この夏は訪ねる人の影さえ見当たらない。そのため城のいや、退屈なのは大変結構なことではないか。ダニエルは自分に言い聞かせた。
中央の人々は
必ずあれが起こる
のだ。あれのせいで
例年なら身も心も磨り減ったまま満月を迎えるのだと思えば、彼らが来ないこの夏はそれだけで余りあるほど喜ばしい事態と納得するべきだ。……と、そこまで考えたダニエルはふと、自らを誤魔化そうとしているその態度に気が付き自嘲した。
結局は、そういうことなのだ。例外が起これば得てして物事は良からぬ方向へと転がり落ちている。
とはいえまさか、こんなことが起こるとは。
頬杖を突いたまま溜息を一つ
王族たちが今年に限って避暑に来ない
本当の理由を
告げる秘密の知らせの方が遅れて届いた。その数刻前には公式の使者が訪れて、もっと別の、さらにいえばもっと逼迫した状況をダニエルに告げるだけ告げ、休むまずいことになっていると、ダニエルは頭を抱えた。
国内の不穏に、国外の緊張。
どの角度から眺めてもそれぞれ異なる情報を
──今宵は二人で語り明かしましょう。
退屈さにかこつけて、そんな提案を昼にしてあったのだ。
夏至を過ぎて最初に訪れる新月の夜は特別で、親しい者たちとしめやかに時を過ごすものと西ゴールではされている。共に過ごした者たちの絆を未来にわたって約束するという言い伝えがあるからだ。国王一家がこの北の大地に、選りすぐりの
お気に入り
を伴ってやってくるのもそのためだ。そして満月の前夜までをこの地で過ごし、明くる朝には喧噪という名の日常へと戻っていく。そのすべてを
、忘れ去ったまま
。避暑とは建前でしかなく、物事には常に裏がある。
「今日は西国の葡萄酒が手に入ったそうですわ! 近頃はあちらも内戦が激しく心配していましたが……」
何も知らず嬉々として部屋に入ってきたタイスは、ダニエルの様子に気付くとすぐに表情を凍らせ立ち止まった。それを見たダニエルの方も蜂に刺された気分に沈む。
タイスはいつもそうなのだ。巧い具合に空気を読む。
普段であればその気配りを好ましく思うダニエルだったが、今回に限っては彼女のその勘の良さを苦々しいと感じ、そんなことを思う我儘な自分にも幻滅した。
気の置けない相手という意味では、今のダニエルにはタイスしかない。それなのに……。
「何か、あったのですか?」
「早く食卓を整えてください」
しかしダニエルの返事は素っ気なかった。
姿勢は先刻から変わらず机に肘を乗せ、頬杖を突き、内心の憂鬱はそのまま表情になっている。
ダニエルは少しでも気を紛らわそうとほんの
やれやれ、どうにも面倒なことになった。
そう思うと目の前のタイスの存在を再び忘れ、ダニエルの思考はそのまま思索の海へと沈んでいった。複雑な笑いが貼りついた幼い顔には大人びた憂いが滲み、明かりの揺らめきの中にその陰を静かに落としゆく。
その姿を見た者は誰であれ、それが男であっても女であっても、ダニエルを評するためには惜しみなく「美しい」という言葉を濫用してきたものだ。青い瞳は宝石のように輝き、艶めく巻き毛は金糸のように滑らかで、白皙の顔は非の打ちどころなく整っている。何よりも小さな体格と
庇護欲、あるいは征服欲、はたや破壊欲。
存在そのものが呪われた時から、ダニエルのその身は人の内に
呪いは所詮、呪いだ。神の示しとは違う。だからもう、こんな