36 死に神
文字数 2,456文字
「これでも王立翰林院 が編纂したガリア史なら片端から読み尽くしたと自負しているつもりだが……」
不貞腐れながら記憶を探る時の癖で視線を上に向け、すぐに首を振った。「マクシミリアン大王に弟がいたという記述はどこにもなかったはずだ」
あのマクシミリアンだぞ?
「偉大過ぎるゆえに艶聞の隅々まで驚くほど詳細に伝え残された人物じゃないか」
「……しかし」と、ウドは反論した。「王弟殿下は兄王に従軍し、そこで聖母の加護を受けて西ゴールの守り神となるのです」
「それならば必ずやガリア史に記述があるはずだ、何 らかの」
「偉大な大王の弟など、太陽に霞 む昼の月のようなものでは……?」
そこまで言い返したウドは、何かに思い当ったような表情で目を見開いた。「そうです。そうでした。私はそういう芝居を見たんじゃないですかね?」
「……芝居?」
怪訝な表情を返すフォルクハルトに、
「いつ、どこで、までは思い出せませんが」と、ウドは頷 いた。「確かにそのはずです。芝居です」
「私は覚えがない」
「言われてみると、近頃はその演目が上映された話を聞きませんね」やはり世代差では?
からかうように笑うウドを横目で流し、フォルクハルトは歩き出した。「芝居ならばこそ、史実を騙 ることもある」
「それは確かに芝居の特性上、魅せるための脚色をかなりの程度で入れることは否めませんが……」考えこむように顔を顰 め、ウドはフォルクハルトを見た。「偽物だと?」
「何が?」
「ダニエル王弟殿下です」
「…………」
フォルクハルトは再び立ち止まった。「伝聞を鵜呑みにすることの危険性なら承知しているつもりだ」
「調べますか?」
言われてフォルクハルトは素直に頷いた。「しかし、何をもって証拠とするか……」
「難しいところですな」と、ウドは答えた。「王弟を名乗る者が西ゴールの使者としてこの城を訪ねているのです。あれが本物であれ偽物であれ、西ゴールが伝説を持ち出した事実は変わらないわけですよ」
「国家包 みで画策されては敵 わないか」
フォルクハルトは唸 り、しかしすぐに思いつきを口にした。「系図はどうだ? 付け焼き刃に使者を仕立て上げた程度なら、系図までは改編できていないと思うが?」
「確かにそうですね」ウドは頷いた。「調べてみましょう」
その答えに満足の首肯を返すと、ウドから視線を外したフォルクハルトは正面を見た。ウドもそれに倣 うが、こちらは押し黙ったままのフォルクハルトとは違う反応を示して言った。
「本当にあの子供が変装してあなた様の前に現れたというなら、その意図もまた、気になるところです」
問わず語りに呈された疑念に応えるように、フォルクハルトは溜息をついた。ウドの発言が自分自身の懸念を代弁したにすぎないことはわかっている。次は目の前にある扉を開けるだけだというのに、その気力がどうしても湧かないのもそのせいだった。
「気が重いな」
呟 くと、その声を拾ってウドが言った。「珍しいですな」
「何が?」言い返すとウドは柔らかく笑った。「こういった場で弱音を吐かれるのは初めて聞いた気がして」
「…………」
胃の腑をさすりながらフォルクハルトは首を振った。「正体が何 であれ、相手は子供だぞ?」
「子供など相手にしたこともない」と、フォルクハルトは不安をそのまま言葉に出した。
西ゴールの王族というだけではない。永遠を生きる伝説であり、幼い子供でもある存在。これからそんな得体の知れない相手に会おうというのだから、気が重くなるのも無理はなかった。
それに見れば見るほど、扉の隙間から不吉な気配が浸み出しているように思えてならないのだ。踏みこめば取り返しのつかない事態になるのではと、面会に臨む前から怖気付く自分がここにいた。
「しかし中身の方はどうでありましょうかな?」
ウドはそんな王子の気持ちに気楽な調子で寄り添った。「本当に数百年を生きているのであれば、思考の方は老いて古臭くなっているかもしれません」
「……なるほど」
フォルクハルトは苦笑し、頷いた。「そうかもしれない」
言われると一瞬でも気分が和らぐから不思議なものだった。そして決意と諦念の織り交ざった気持ちを抱えてついに扉を開かせた。その時だ。
「……違います。タイス、もう少し向こうですって!」
その不意打ちの光景にフォルクハルトは思わず立ち竦 んだ。
客人二人は窓に貼りつき、遠くを指差しながらわいわいと話しこんでいる。緊張も緩む長閑 な光景だった。
何をしているのか!
叫びそうになったところを辛うじて堪 える。不機嫌を呈して咳払った。その音に驚いたのか、最初にダニエルが飛び跳ね窓から身を引いた。タイスは決まり悪げに唇を噛み、フォルクハルトに向けて形式通りの礼をした。
「何か?」
返礼もそこそこに問いかけると、窓を背にしたままダニエルは目を輝かせ、「遠くに。鹿だと思うのですが小型であまり見たことのない形で……」と、急くように答えながら両手を頭の上に乗せた。「こう、角が短く丸い耳をしていて」
「それは鹿ではなく羚 でしょう」
話を遮 り素っ気なく答え、フォルクハルトは着席した。実にくだらないことをと内心では思ったが、流石 にそこまで口にするのは憚 られる。
「羚? あれが?」と、ダニエルは立ち尽くしたまま目を丸くした。
ふわりと揺れる金色の髪に心の動揺を覚えたが、それでもどうにか耐えきった。「この辺りの固有種だそうです。興味があるならこの城にある剥製でもご覧に入れますが?」
もちろん、社交辞令のつもりで言ったのだ。
しかし「お手数でなければ」と、笑顔のダニエルは図々しかった。予想外の反応にフォルクハルトは一瞬言葉を失い、後ろに控えたウドの気配で我を取り戻して笑顔を作った。
「後 でご案内しましょう」
それから無言で向けた掌の意図に気付いたか、ダニエルは慌てて席に着いた。初手から混乱させられたフォルクハルトもようやく落ち着きを取り戻し、ダニエルを正視した。
不貞腐れながら記憶を探る時の癖で視線を上に向け、すぐに首を振った。「マクシミリアン大王に弟がいたという記述はどこにもなかったはずだ」
あのマクシミリアンだぞ?
「偉大過ぎるゆえに艶聞の隅々まで驚くほど詳細に伝え残された人物じゃないか」
「……しかし」と、ウドは反論した。「王弟殿下は兄王に従軍し、そこで聖母の加護を受けて西ゴールの守り神となるのです」
「それならば必ずやガリア史に記述があるはずだ、
「偉大な大王の弟など、太陽に
そこまで言い返したウドは、何かに思い当ったような表情で目を見開いた。「そうです。そうでした。私はそういう芝居を見たんじゃないですかね?」
「……芝居?」
怪訝な表情を返すフォルクハルトに、
「いつ、どこで、までは思い出せませんが」と、ウドは
「私は覚えがない」
「言われてみると、近頃はその演目が上映された話を聞きませんね」やはり世代差では?
からかうように笑うウドを横目で流し、フォルクハルトは歩き出した。「芝居ならばこそ、史実を
「それは確かに芝居の特性上、魅せるための脚色をかなりの程度で入れることは否めませんが……」考えこむように顔を
「何が?」
「ダニエル王弟殿下です」
「…………」
フォルクハルトは再び立ち止まった。「伝聞を鵜呑みにすることの危険性なら承知しているつもりだ」
「調べますか?」
言われてフォルクハルトは素直に頷いた。「しかし、何をもって証拠とするか……」
「難しいところですな」と、ウドは答えた。「王弟を名乗る者が西ゴールの使者としてこの城を訪ねているのです。あれが本物であれ偽物であれ、西ゴールが伝説を持ち出した事実は変わらないわけですよ」
「国家
フォルクハルトは
「確かにそうですね」ウドは頷いた。「調べてみましょう」
その答えに満足の首肯を返すと、ウドから視線を外したフォルクハルトは正面を見た。ウドもそれに
「本当にあの子供が変装してあなた様の前に現れたというなら、その意図もまた、気になるところです」
問わず語りに呈された疑念に応えるように、フォルクハルトは溜息をついた。ウドの発言が自分自身の懸念を代弁したにすぎないことはわかっている。次は目の前にある扉を開けるだけだというのに、その気力がどうしても湧かないのもそのせいだった。
「気が重いな」
「何が?」言い返すとウドは柔らかく笑った。「こういった場で弱音を吐かれるのは初めて聞いた気がして」
「…………」
胃の腑をさすりながらフォルクハルトは首を振った。「正体が
王弟
を名乗る西ゴールの使者。それも普通
からは程遠く、あまりに異質な経歴を持つ。「子供など相手にしたこともない」と、フォルクハルトは不安をそのまま言葉に出した。
西ゴールの王族というだけではない。永遠を生きる伝説であり、幼い子供でもある存在。これからそんな得体の知れない相手に会おうというのだから、気が重くなるのも無理はなかった。
それに見れば見るほど、扉の隙間から不吉な気配が浸み出しているように思えてならないのだ。踏みこめば取り返しのつかない事態になるのではと、面会に臨む前から怖気付く自分がここにいた。
「しかし中身の方はどうでありましょうかな?」
ウドはそんな王子の気持ちに気楽な調子で寄り添った。「本当に数百年を生きているのであれば、思考の方は老いて古臭くなっているかもしれません」
「……なるほど」
フォルクハルトは苦笑し、頷いた。「そうかもしれない」
言われると一瞬でも気分が和らぐから不思議なものだった。そして決意と諦念の織り交ざった気持ちを抱えてついに扉を開かせた。その時だ。
「……違います。タイス、もう少し向こうですって!」
その不意打ちの光景にフォルクハルトは思わず立ち
客人二人は窓に貼りつき、遠くを指差しながらわいわいと話しこんでいる。緊張も緩む
何をしているのか!
叫びそうになったところを辛うじて
「何か?」
返礼もそこそこに問いかけると、窓を背にしたままダニエルは目を輝かせ、「遠くに。鹿だと思うのですが小型であまり見たことのない形で……」と、急くように答えながら両手を頭の上に乗せた。「こう、角が短く丸い耳をしていて」
「それは鹿ではなく
話を
「羚? あれが?」と、ダニエルは立ち尽くしたまま目を丸くした。
ふわりと揺れる金色の髪に心の動揺を覚えたが、それでもどうにか耐えきった。「この辺りの固有種だそうです。興味があるならこの城にある剥製でもご覧に入れますが?」
もちろん、社交辞令のつもりで言ったのだ。
しかし「お手数でなければ」と、笑顔のダニエルは図々しかった。予想外の反応にフォルクハルトは一瞬言葉を失い、後ろに控えたウドの気配で我を取り戻して笑顔を作った。
「
それから無言で向けた掌の意図に気付いたか、ダニエルは慌てて席に着いた。初手から混乱させられたフォルクハルトもようやく落ち着きを取り戻し、ダニエルを正視した。