13 ウドの不満
文字数 2,285文字
まさかあれも、罠だったのか?
「ばかな、私があの字を見間違うはずはない」
とにかく憎らしい筆跡なのだ。見忘れるはずも見間違うはずも、あるわけがない。しかしそれなら、これは単に間が悪かっただけのことなのか。
「ふざけやがって!」
儘 ならぬ状況を前にウドは悪口 を吐き捨てた。
しかもこうなってくると、そもそもどうしてあの王子はこうも死にたがりなのかという根本的な問題がウドの身に跳ね返る。正直勘弁してほしかった。ここ数年のウドの苦労のほぼすべてがあの王子の生きる気の無さに端を発しているのだから煩わしい。
それはもう初めて会った時から、最悪だった。記憶の抽斗 には思い起こすほどに長息しか出てこないほど嫌な思い出ばかりが詰まっている。
あの頃のフォルクハルトは、敵意に満ちた気迫を隠すことなく周囲に抜き放っていたものだ。そのくせそれはまるで手負いの野良猫が近寄る影のすべてに威嚇をするように頼りない有り様で、誰のことも信じず、誰にも心を開かず、闇よりも深い絶望を剥き出しにして、そうでありながら何かをすっかりと諦めたように達観した風体で彼は人生のすべてを舐めきっていた。
──王太子を死なせてはならんぞ。
最初にウドが受けた密命はフォルクハルトの護衛だった。そんな指令は蹴り飛ばしておくべきだったと今でもウドは後悔している。あの当時、ウドはまだフォルクハルトの生死に何 の興味も持ち合わせてはなかったのだ。
「なんで、あの王子様には死んでもらった方がいいのではありませんか?」
そのため、納得いかない気持ちをそのままにウドは言い返した。「そうすれば残るは三人の王女だけ。力関係がはっきりして物事はうまい具合に均衡するってもんでしょうよ」
もちろん、生意気を言った自覚はある。それでも、
「いや、そうではないから、ややこしいのだがな」
相手の苦笑を伴う否定には「どのように?」と、強いて問い返していた。しかしその直後だ。「あの王子の存在によって今の王宮が奇妙で絶妙な緊張状態にあるのがわからないのか?」と、素っ気ない返事をもらってウドは面食らうことになった。
「あの青年が死ねば、それまで水面下で燻 ぶっていたものが一気に表層に噴き出し国家の土台を揺さぶることになる。王太子の死はかえって不均衡を招く」
──だから絶対に、彼を死なせるな。
この場合における権力関係の均衡、不均衡はただの方便でしかない。ウドはわかっていたが続けて問い質 すことはしなかった。王宮や離宮を中心に広がる権謀術数の世界は深淵の闇で、ウドのような中途半端な人間が迂闊に覗きこんだら命を落としかねないほどに、深い。
どちらにしてもフォルクハルトの死を望む者もあれば、望まない者もいる。東ガリアにとって今や彼の存在そのものが目を覆いたくなるほどの腫れ物となっていることも否定はできない。
ウドはそれを理解していたからこそ、この案件に近寄りたくもなかったのだ。だから巻きこまれてしまったという不貞腐れた気持ちでフォルクハルトに対峙した。結果──。
手に負えない!
率直にそう思った。
先陣を切って敵陣に乗りこんでしまう無鉄砲な王太子をどうやって御 せというのだ。どうして首輪を嵌 めて宮殿に繋 ぎ、これまでそうしてきたように温室の中で飼い殺しておかなかったのかと、そう思うほどにウドは本気で己 の仕事を悲観した。確かにこれでは、このままでは、遅かれ早かれフォルクハルトは戦場で身を滅ぼすだろう。唐突に自分を送りこんだ
これだけの無謀をしているにも関わらず、フォルクハルトは指揮官として誰からも慕われ尊敬されていた。正直ウドには不思議でならなかった。彼に纏 わる〈狐 と 狼 〉の噂ならウドも当然のように知っていたが、しかし頭の回転の速さと人望とは分けて考えるべきことだ。ウドは何度も首を傾 げてフォルクハルトの様子を窺 うことになった。
温室育ちゆえの人の良さが幸いしているのかと最初はそう思った。しかしどうやらそれだけでもないらしい。
なによりもフォルクハルトの周りは傭兵の質が高いのだ。
血筋の明らかな貴族たちで構成される正規軍とは異なり、金で雇われる傭兵には身分も素行も怪しい者たちで溢 れているのがこの世の定説 だ。しかしながら強権的な徴兵制度のまだ整わないこの時代に、戦場において誰よりも働き、誰よりも役に立ってきたのがこの傭兵という存在なのである。昨今では長引く戦乱の影響を受けてか、食い扶持に困った農家の三男、四男などの受け皿にもなってきた。
しかし金でのみ繋がり、金のために働く彼らには忠義という概念が薄い。だからこそ自軍の不利と見るや否や一目散に戦場から逃亡してしまうのも傭兵の一つの特徴で、彼らの遁走が勝敗を決するほど大きな影響を戦況に与えたことも数知れない。
つまりは捨て駒であることも否定はできないが、かといって無下な扱いもできず、どのように統率すべきか常に頭を悩ませる諸刃の存在、それこそが傭兵を傭兵たらしめてきた、ともいえるのだろう。
それがまあ、ここまでよく纏 まったものだ。
ウドは思う。フォルクハルトの指揮下にある傭兵たちはよく働くし、統制されていて、遁走者も少ない。今となっては〈灰 猫 〉のイザークなどはフォルクハルトの片腕と呼べるほどの働きぶりだ。いや、ガリア最古にしてガリア最大の傭兵集団〈灰猫〉を率いるイザークがフォルクハルトに背を向けない、それ自体が他の傭兵たちの信頼に繋がっている向きさえあるようで……ウドにとってその点だけは、未 だに癪だったが。
「ばかな、私があの字を見間違うはずはない」
とにかく憎らしい筆跡なのだ。見忘れるはずも見間違うはずも、あるわけがない。しかしそれなら、これは単に間が悪かっただけのことなのか。
「ふざけやがって!」
しかもこうなってくると、そもそもどうしてあの王子はこうも死にたがりなのかという根本的な問題がウドの身に跳ね返る。正直勘弁してほしかった。ここ数年のウドの苦労のほぼすべてがあの王子の生きる気の無さに端を発しているのだから煩わしい。
それはもう初めて会った時から、最悪だった。記憶の
あの頃のフォルクハルトは、敵意に満ちた気迫を隠すことなく周囲に抜き放っていたものだ。そのくせそれはまるで手負いの野良猫が近寄る影のすべてに威嚇をするように頼りない有り様で、誰のことも信じず、誰にも心を開かず、闇よりも深い絶望を剥き出しにして、そうでありながら何かをすっかりと諦めたように達観した風体で彼は人生のすべてを舐めきっていた。
──王太子を死なせてはならんぞ。
最初にウドが受けた密命はフォルクハルトの護衛だった。そんな指令は蹴り飛ばしておくべきだったと今でもウドは後悔している。あの当時、ウドはまだフォルクハルトの生死に
「なんで、あの王子様には死んでもらった方がいいのではありませんか?」
そのため、納得いかない気持ちをそのままにウドは言い返した。「そうすれば残るは三人の王女だけ。力関係がはっきりして物事はうまい具合に均衡するってもんでしょうよ」
もちろん、生意気を言った自覚はある。それでも、
「いや、そうではないから、ややこしいのだがな」
相手の苦笑を伴う否定には「どのように?」と、強いて問い返していた。しかしその直後だ。「あの王子の存在によって今の王宮が奇妙で絶妙な緊張状態にあるのがわからないのか?」と、素っ気ない返事をもらってウドは面食らうことになった。
「あの青年が死ねば、それまで水面下で
──だから絶対に、彼を死なせるな。
この場合における権力関係の均衡、不均衡はただの方便でしかない。ウドはわかっていたが続けて問い
どちらにしてもフォルクハルトの死を望む者もあれば、望まない者もいる。東ガリアにとって今や彼の存在そのものが目を覆いたくなるほどの腫れ物となっていることも否定はできない。
ウドはそれを理解していたからこそ、この案件に近寄りたくもなかったのだ。だから巻きこまれてしまったという不貞腐れた気持ちでフォルクハルトに対峙した。結果──。
手に負えない!
率直にそう思った。
先陣を切って敵陣に乗りこんでしまう無鉄砲な王太子をどうやって
彼ら
の意図がウドにも理解できた瞬間だった。……とはいえ、なのだ。これだけの無謀をしているにも関わらず、フォルクハルトは指揮官として誰からも慕われ尊敬されていた。正直ウドには不思議でならなかった。彼に
温室育ちゆえの人の良さが幸いしているのかと最初はそう思った。しかしどうやらそれだけでもないらしい。
なによりもフォルクハルトの周りは傭兵の質が高いのだ。
血筋の明らかな貴族たちで構成される正規軍とは異なり、金で雇われる傭兵には身分も素行も怪しい者たちで
しかし金でのみ繋がり、金のために働く彼らには忠義という概念が薄い。だからこそ自軍の不利と見るや否や一目散に戦場から逃亡してしまうのも傭兵の一つの特徴で、彼らの遁走が勝敗を決するほど大きな影響を戦況に与えたことも数知れない。
つまりは捨て駒であることも否定はできないが、かといって無下な扱いもできず、どのように統率すべきか常に頭を悩ませる諸刃の存在、それこそが傭兵を傭兵たらしめてきた、ともいえるのだろう。
それがまあ、ここまでよく
ウドは思う。フォルクハルトの指揮下にある傭兵たちはよく働くし、統制されていて、遁走者も少ない。今となっては〈