34 伝説の来訪
文字数 2,374文字
もしかしたら本当はあの夜、フォルクハルトは聖母像に安らかな死を祈ったのかもしれない。しかし結果はこの通りで、朝になってウドに発見され、今も不甲斐なく生きている。
「求める、か」
一体何を求めれば……と思った時、小麦畑で出会った子供の澄んだ瞳を思い出し、瞬時にフォルクハルトの心は沸騰した。驚いて咄嗟に壁を叩く。痺れるような手の痛みに現実を認識するやすぐに両手で顔を覆った。あの瞳が、欲しい。
「そんな、ばかな……!」
あの子供を手に入れたい。自分だけのものにしたい。誰の目にも触れぬ場所に閉じこめ、あの瞳を死ぬまで愛でていたい。そして最後には思う存分壊してみたい。
これは本当に私の感情なのか?
思うほどにますます欲望が溢 れかえった。己 の内に潜むその見苦しさに反吐 が出そうだ。
一体、そんなものを求めて自分はどうしようというのか。しかも相手は見ず知らずの子供だ。まさか探し出して拐 かそうとでも言い出す気なのか。
その先には破滅の予感しかないとフォルクハルトは思った。望んだことでも他人を巻きこむのはただの愚行だ。落ち着け!
気持ちを律するように深い息を吐き出して窓の外を眺めれば、日差しは先刻と変わらず大地を明るく照らし出していた。こうなってはもう、やはり、馬しかない。
ここなら厩 の者もフォルクハルトを止めはしまいと思ったのだ。ウドが置き土産にしたあの命令はここでは何 の効果も持ちはしない。
そうだ。馬しかない。
思い立ったフォルクハルトはすぐに行動を起こすことにした。
「まったく、それにしても私の側 を離れたウドの命令があんなにも効果的とは思わなかったな」
愚痴を零 すと先日のやり取りを思い出して苦々しい気分になった。もとからウドの言うことなど聞く気もなかったフォルクハルトだ。しかし彼が城を出た後で何度か馬を出そうとし、
──駄目です太子。お一人では!
その度 に必死の形相を浮かべる当番に足止めをされていた。しかも、
──私はあなた様から罰を受けるより、あの方の怒りに触れる方が怖いのです!
と、そこまで言われてしまってはフォルクハルトも怒 るを通り越して呆 れるしかない。一体全体あの男の何がそこまで人を恐れさせるというのか。おまけに他 の者たちは畏 まるばかりでフォルクハルトの駆歩 に付き合おうとはしないし、フォルクハルトとしてもウド以外の人間とは気疲れするので気晴らしが気晴らしにならない矛盾が起こる。そうなると必然的に、ウドの思惑通りに城に引き籠もるしかなかったのだが、しかし、腹立たしい。
もっともその元凶は今この場におらず、今頃は王都の喧騒に埋もれているはずだ。簡易的な式と国王への拝謁が終われば一族は揃 ってオーレンドルフ家の領地に戻る。そうすればしばらくはその土地から出られまい。領民に対する本格的な披露の儀がそこから始まるからだ。
一、二週間で済むはずはない。一か月は土地に縛られる。役割の一切を失ったとはいえ、生まれ育った土地に戻ればそれなりにやることもあるだろう。知己との再会、あるいうは恋の再燃。本人は隠しているつもりだろうが、どうやらウドには領内に嗤 った。様 を見ろと有頂天になった。ところが、
「どちらに行かれるのですかな?」
背後からその声を聞いた途端にさっと血の気が引き、凍りつくはめになった。高揚した気分もそこまでだったのだ。
まさか、そんなはずはない!
気持ちで強く否定しても現実は反転しなかった。それでも祈る気持ちで声の聞こえた方向を振り返ったが、期待も虚 しく声の主 ──ウドはやはり、そこにいた。
途端に言葉にならない絶望と過去の発言とが声を揃 えてフォルクハルトを嘲 笑 う。
──勝手に挙兵して死地に赴くような愚挙はしないから。
いや、ここは死地でもないし、まだ挙兵もしていない。嘘はついていない。
ぐだぐだと言い訳を考え始めた愚かしさに
「なぜ?」
「その問いの意図は?」
意地の悪い返しにフォルクハルトは押し黙って大きく目を見開いた。腕を組んで壁に寄り掛かっていたウドはそれを見ながらにやりと笑う。
「いけませんな。私を置いて行ってしまわれるとは」
「ここに来ていいなどと、許可を出した覚えはない」
「ええ、もちろん」と、ウドは壁から離れてフォルクハルトに近付き、胸に手を当て形ばかりの礼をした。「勝手に追いかけてまいりました、太子。私の留守中に出かけてしまうとはつれないですね」
「…………」
返す言葉もなく黙って睨 みつけるだけのフォルクハルトに正面から向き合い、ウドは困ったように肩を竦 めた。
「フォルクハルト様、あなた様がもう少し自分を大切にしない限りは、私はどこまでもあなた様に付き纏 うと言ったはずですが?」
「迷惑だ」むっと言い返した後で、フォルクハルトは吐き捨てた。「気持ち悪い!」
しかし「お節介は私の性分でしてね」と、ウドは引き下がらなかった。
いつも通りの光景だ。
ウドは決してフォルクハルトを恐れないし、憎らしいほどに太々 しい。
「それに……」と、挙句にはフォルクハルトを見つめてからかうことまでやってのける。「私だけではないですか?」
「何が」
不貞腐れた態度でフォルクハルトが問い返すと、ウドは冗談なのか本気なのか曖昧な表情を作って言った。
「あなた様が素の自分でいられる相手は、私だけではないですか?」
瞬間的にフォルクハルトは握り拳 をウドに向けていた。しかしウドはその拳をあっさりと受け止め、勝ち誇ったように笑った。「ほら!」
「…………」
力では勝てないのもまたいつもの通りだった。フォルクハルトはウドの手を振り払ってふんと鼻を鳴らした。
「求める、か」
一体何を求めれば……と思った時、小麦畑で出会った子供の澄んだ瞳を思い出し、瞬時にフォルクハルトの心は沸騰した。驚いて咄嗟に壁を叩く。痺れるような手の痛みに現実を認識するやすぐに両手で顔を覆った。あの瞳が、欲しい。
「そんな、ばかな……!」
あの子供を手に入れたい。自分だけのものにしたい。誰の目にも触れぬ場所に閉じこめ、あの瞳を死ぬまで愛でていたい。そして最後には思う存分壊してみたい。
これは本当に私の感情なのか?
思うほどにますます欲望が
一体、そんなものを求めて自分はどうしようというのか。しかも相手は見ず知らずの子供だ。まさか探し出して
その先には破滅の予感しかないとフォルクハルトは思った。望んだことでも他人を巻きこむのはただの愚行だ。落ち着け!
気持ちを律するように深い息を吐き出して窓の外を眺めれば、日差しは先刻と変わらず大地を明るく照らし出していた。こうなってはもう、やはり、馬しかない。
ここなら
そうだ。馬しかない。
思い立ったフォルクハルトはすぐに行動を起こすことにした。
「まったく、それにしても私の
愚痴を
──駄目です太子。お一人では!
その
──私はあなた様から罰を受けるより、あの方の怒りに触れる方が怖いのです!
と、そこまで言われてしまってはフォルクハルトも
もっともその元凶は今この場におらず、今頃は王都の喧騒に埋もれているはずだ。簡易的な式と国王への拝謁が終われば一族は
一、二週間で済むはずはない。一か月は土地に縛られる。役割の一切を失ったとはいえ、生まれ育った土地に戻ればそれなりにやることもあるだろう。知己との再会、あるいうは恋の再燃。本人は隠しているつもりだろうが、どうやらウドには領内に
遊びではなく
心底惚れぬいた相手があり、そして今でも思慕している様子なのだ。だからきっと、ウドは戻らない。もはや誰が自分を止められようかとフォルクハルトは「どちらに行かれるのですかな?」
背後からその声を聞いた途端にさっと血の気が引き、凍りつくはめになった。高揚した気分もそこまでだったのだ。
まさか、そんなはずはない!
気持ちで強く否定しても現実は反転しなかった。それでも祈る気持ちで声の聞こえた方向を振り返ったが、期待も
途端に言葉にならない絶望と過去の発言とが声を
──勝手に挙兵して死地に赴くような愚挙はしないから。
いや、ここは死地でもないし、まだ挙兵もしていない。嘘はついていない。
ぐだぐだと言い訳を考え始めた愚かしさに
はた
と気付いて思考を振り払い、「なぜ?」
「その問いの意図は?」
意地の悪い返しにフォルクハルトは押し黙って大きく目を見開いた。腕を組んで壁に寄り掛かっていたウドはそれを見ながらにやりと笑う。
「いけませんな。私を置いて行ってしまわれるとは」
「ここに来ていいなどと、許可を出した覚えはない」
「ええ、もちろん」と、ウドは壁から離れてフォルクハルトに近付き、胸に手を当て形ばかりの礼をした。「勝手に追いかけてまいりました、太子。私の留守中に出かけてしまうとはつれないですね」
「…………」
返す言葉もなく黙って
「フォルクハルト様、あなた様がもう少し自分を大切にしない限りは、私はどこまでもあなた様に付き
「迷惑だ」むっと言い返した後で、フォルクハルトは吐き捨てた。「気持ち悪い!」
しかし「お節介は私の性分でしてね」と、ウドは引き下がらなかった。
いつも通りの光景だ。
ウドは決してフォルクハルトを恐れないし、憎らしいほどに
「それに……」と、挙句にはフォルクハルトを見つめてからかうことまでやってのける。「私だけではないですか?」
「何が」
不貞腐れた態度でフォルクハルトが問い返すと、ウドは冗談なのか本気なのか曖昧な表情を作って言った。
「あなた様が素の自分でいられる相手は、私だけではないですか?」
瞬間的にフォルクハルトは握り
「…………」
力では勝てないのもまたいつもの通りだった。フォルクハルトはウドの手を振り払ってふんと鼻を鳴らした。