54 呪いの起源
文字数 2,496文字
焼き菓子に合わせて用意したのは加蜜列 と陳皮 のお茶だ。目の前で王太子自ら淹れたとあってダニエルは最初のうちこそ気圧された顔をしていたが、立ち上る香気にやがて気持ちを落ち着けたらしい。元来の彼女が持っていたであろう茶目っ気を出して大いにフォルクハルトをからかった。
「これは女の人の趣味、ですね?」
「妹が二人いましてね」
ダニエルの斜 向かいに座ったフォルクハルトはぶすっとした顔で言い訳をした。「癇癪を起こした後は必ずこれだったのです」
それを聞いたダニエルは咄嗟に口を尖 らせた。「私は癇癪なんて起こしていません!」
「同じようなものです」
さっと顔を赤らめたダニエルを眺め、複雑な気分にフォルクハルトは溜息をついた。それを目敏く捉えたダニエルが言う。
「後悔しておいででは?」
「何を、ですか」
「あのまま私に手を出せばよかったのです」
「…………」
もしもあのまま本気で求めたら、自分はこの娘を手に入れることができたのだろうか。フォルクハルトは考えた。だが、それはいかなる意味での「本気」なのか。思ってフォルクハルトは首を振った。大の大人がこんな小さな子供に懸想して何が「本気」だというのか。愚かしい。
「止まった瞬間があるならば、いずれは動き出す瞬間も訪れましょう。神でさえ時の流れには逆らえないのです」
フォルクハルトは菓子を摘まんだ。「それまでは、自分の性も命も大事に取っておくべきです」
「…………」
「まったく、やめてください」
「何がです」
「私に女性を泣かせる趣味はないのです。私の発言の何が悪かったのですか。謝ります」
「…………」
ダニエルは慌てて目元を拭った。「何も」と呟き、「まったく、困りますね」と、目元で微笑んだ。
何が困るのか、フォルクハルトにはさっぱり理解ができなかった。「もう少し飲まれますか?」
「いいえ」
ダニエルは首を振った。
「それなら、お部屋までご案内しましょう」
名残惜しい気もしたが諦めの気持ちを含ませてそう言うと、ダニエルはこっくりと頷いて立ち上がった。
その時だ。
入口の横の鏡に見知らぬ女性の姿が横切り、フォルクハルトは言葉を失った。
「? どうされたのですか」
怪訝な視線を投げるダニエルを見つめ、フォルクハルトはもう一度鏡を見た。そこには部屋の壁が映されているだけだった。
いや、違う。確かに今、そこに私は女人 を見た。蕾から弾け花開いたばかりのような麗しい女人。
あれはダニエルではないのか。いや、マクシミリアン大王の妹カサンドル。剣を携え兄王に従軍したという勇ましき戦乙女 。
その時フォルクハルトの脳裏を夢の光景が過 った。
真新しい聖堂のあの中で跪 いていた、あの騎士。あれがもしもカサンドルだったのだとしたら……?
フォルクハルトの背筋を冷や汗が流れ落ちた。確かにあそこはかつて西ゴールの前線だった。マクシミリアン大王が病に倒れたとされる場所にも近い。だが、まさか……。
「呪いのことを、訊いても?」
言うとすぐにダニエルは青 褪 めた。「訊いてはいけません。不幸になります」
それから何を考えたのか躊躇 いの表情を見せたダニエルは、意を決したような硬い表情をフォルクハルトに向けた。
「気をつけるべきはあなたです。命を狙われています。その首に価値があるのは私だけではありません」
何を急にと思い、フォルクハルトは素っ気なく言った。「命なら、狙われ慣れています」
「……殺伐とした話ですね」
ダニエルは悲しそうに目を伏せた。「なぜ、そうも長く戦場を渡り歩いていらっしゃるのですか」
「そこが私の居場所なのです」フォルクハルトの顔には困惑が浮かんだ。「あなたが言ったのです、私を〈死神〉と」
「…………」
すでにダニエルの部屋の前だった。扉に手をかけたダニエルは、「〈死神〉様」と、少し茶化すようで、それでいて泣きそうな顔でフォルクハルトの顔を見上げた。「自分を大切にしていないのはどちらなのですか」
フォルクハルトは答えられなかった。
「あなたの妻となれる人は幸せなはずです」と、ダニエルは続けた。
「…………」
「私ではないことが、この上なく残念です」
おやすみなさい。そう言い残して扉は閉まった。
──私ではないことが、この上なく残念です。
どういう意味なのだ。
フォルクハルトは煩悶してしばらくその場に立ち尽くした。しかし、扉に答えが書いてあるわけでも、待っていればその答えが浮かび上がってくるわけでもない。やがて深い溜息ひとつで踏ん切りをつけると、そのまま静かにその場を離れた。
自室の前ではウドがにやにやと笑いながらフォルクハルトを待っていた。
「からかいに来たのか?」
これ見よがしに嘆息を漏らすと、
「そう怒りなさるな」
ウドは言って強引に部屋の中に入ってきた。
「タイスから聞いたのです」
「……何を?」
「呪いのことです」
「⁉」
「どうやら代々あの殿下のお守りをするお付きは、その秘密も引き継いでいるようでしてね」
「そんなもの、どうやって聞き出した」
ウドは勝ち誇ったように笑った。まったく、この男は!
「興味が出てきましたな?」と、ウドが確認するように問う。「聞きますか?」
フォルクハルトは頷いた。「聞きたい」
ウドはにやりと笑い、話し始めた。
3
西ゴール、ワロキエ朝。
ガリア帝国時代からその血脈を絶やすことなく連綿と続いてきたこの国とて、常に国土や政治が安泰であったわけではない。
帝国の分裂初期の混乱もしかり、東ガリアの混迷期にもその余波を受けて国土の多くを失った。特にガリア連合王国を滅ぼした騎馬民族との戦争では結果的に何の実入りもなく、防衛線とは得てしてそういうものだが支出続きで財政的な打撃に長らく苦しんだともいわれている。その後も借財は膨らみ続けたようだ。
この財政の立て直しに本気で挑んだのがかのマクシミリアンだ。殖 やす、奪うという両輪を回して彼は走り続け、国庫を潤すことに躍起になった。
殖やすの例は産業の振興だ。今の西ゴールが持つ文化や技術の多くがこの時代に芽吹いているのも、大王が心血を注いで優秀な人間を各国から呼び集めて丁重に保護したからにほかならない。
「これは女の人の趣味、ですね?」
「妹が二人いましてね」
ダニエルの
それを聞いたダニエルは咄嗟に口を
「同じようなものです」
さっと顔を赤らめたダニエルを眺め、複雑な気分にフォルクハルトは溜息をついた。それを目敏く捉えたダニエルが言う。
「後悔しておいででは?」
「何を、ですか」
「あのまま私に手を出せばよかったのです」
「…………」
もしもあのまま本気で求めたら、自分はこの娘を手に入れることができたのだろうか。フォルクハルトは考えた。だが、それはいかなる意味での「本気」なのか。思ってフォルクハルトは首を振った。大の大人がこんな小さな子供に懸想して何が「本気」だというのか。愚かしい。
「止まった瞬間があるならば、いずれは動き出す瞬間も訪れましょう。神でさえ時の流れには逆らえないのです」
フォルクハルトは菓子を摘まんだ。「それまでは、自分の性も命も大事に取っておくべきです」
「…………」
「まったく、やめてください」
「何がです」
「私に女性を泣かせる趣味はないのです。私の発言の何が悪かったのですか。謝ります」
「…………」
ダニエルは慌てて目元を拭った。「何も」と呟き、「まったく、困りますね」と、目元で微笑んだ。
何が困るのか、フォルクハルトにはさっぱり理解ができなかった。「もう少し飲まれますか?」
「いいえ」
ダニエルは首を振った。
「それなら、お部屋までご案内しましょう」
名残惜しい気もしたが諦めの気持ちを含ませてそう言うと、ダニエルはこっくりと頷いて立ち上がった。
その時だ。
入口の横の鏡に見知らぬ女性の姿が横切り、フォルクハルトは言葉を失った。
「? どうされたのですか」
怪訝な視線を投げるダニエルを見つめ、フォルクハルトはもう一度鏡を見た。そこには部屋の壁が映されているだけだった。
いや、違う。確かに今、そこに私は
あれはダニエルではないのか。いや、マクシミリアン大王の妹カサンドル。剣を携え兄王に従軍したという勇ましき
その時フォルクハルトの脳裏を夢の光景が
真新しい聖堂のあの中で
フォルクハルトの背筋を冷や汗が流れ落ちた。確かにあそこはかつて西ゴールの前線だった。マクシミリアン大王が病に倒れたとされる場所にも近い。だが、まさか……。
「呪いのことを、訊いても?」
言うとすぐにダニエルは
それから何を考えたのか
「気をつけるべきはあなたです。命を狙われています。その首に価値があるのは私だけではありません」
何を急にと思い、フォルクハルトは素っ気なく言った。「命なら、狙われ慣れています」
「……殺伐とした話ですね」
ダニエルは悲しそうに目を伏せた。「なぜ、そうも長く戦場を渡り歩いていらっしゃるのですか」
「そこが私の居場所なのです」フォルクハルトの顔には困惑が浮かんだ。「あなたが言ったのです、私を〈死神〉と」
「…………」
すでにダニエルの部屋の前だった。扉に手をかけたダニエルは、「〈死神〉様」と、少し茶化すようで、それでいて泣きそうな顔でフォルクハルトの顔を見上げた。「自分を大切にしていないのはどちらなのですか」
フォルクハルトは答えられなかった。
「あなたの妻となれる人は幸せなはずです」と、ダニエルは続けた。
「…………」
「私ではないことが、この上なく残念です」
おやすみなさい。そう言い残して扉は閉まった。
──私ではないことが、この上なく残念です。
どういう意味なのだ。
フォルクハルトは煩悶してしばらくその場に立ち尽くした。しかし、扉に答えが書いてあるわけでも、待っていればその答えが浮かび上がってくるわけでもない。やがて深い溜息ひとつで踏ん切りをつけると、そのまま静かにその場を離れた。
自室の前ではウドがにやにやと笑いながらフォルクハルトを待っていた。
「からかいに来たのか?」
これ見よがしに嘆息を漏らすと、
「そう怒りなさるな」
ウドは言って強引に部屋の中に入ってきた。
「タイスから聞いたのです」
「……何を?」
「呪いのことです」
「⁉」
「どうやら代々あの殿下のお守りをするお付きは、その秘密も引き継いでいるようでしてね」
「そんなもの、どうやって聞き出した」
ウドは勝ち誇ったように笑った。まったく、この男は!
「興味が出てきましたな?」と、ウドが確認するように問う。「聞きますか?」
フォルクハルトは頷いた。「聞きたい」
ウドはにやりと笑い、話し始めた。
3
西ゴール、ワロキエ朝。
ガリア帝国時代からその血脈を絶やすことなく連綿と続いてきたこの国とて、常に国土や政治が安泰であったわけではない。
帝国の分裂初期の混乱もしかり、東ガリアの混迷期にもその余波を受けて国土の多くを失った。特にガリア連合王国を滅ぼした騎馬民族との戦争では結果的に何の実入りもなく、防衛線とは得てしてそういうものだが支出続きで財政的な打撃に長らく苦しんだともいわれている。その後も借財は膨らみ続けたようだ。
この財政の立て直しに本気で挑んだのがかのマクシミリアンだ。
殖やすの例は産業の振興だ。今の西ゴールが持つ文化や技術の多くがこの時代に芽吹いているのも、大王が心血を注いで優秀な人間を各国から呼び集めて丁重に保護したからにほかならない。