2 元王女の憂鬱

文字数 2,320文字

 すなわち世界の瞳。

 すなわち世界の吐息。

 それを、単にこの地を覆う土着の信仰と断じてしまえばその通りと言うほかはない。しかしこの信仰は崇拝すべき母のそれのごとくしぶとく根強い。

 我々は、かつて南方の海洋国家がこの地を支配した時代でさえこの信仰を捨てなかった。父なる神とその()()を信奉する彼らの(もと)で、我々はその子を産み落としたとされる聖なる女性を大樹に重ねた。

 異なる二つの信仰が融合し、母の姿はいつしか偉大なる万物の枝葉(えだは)から人の形へと変貌を遂げたが、我々が祈りを捧げる相手はこれまでもこれからも、変わることはない。

 我々は常に聖母を信仰する。

 聖母だけを信仰する。

 (のち)に国家が独立し、後に分裂し、髪や瞳の色が決定的な民族の違いを我々に突き付けたとしても、それでも我々は等しく聖母を崇拝した。それだけが、今のように千々に分裂したこの地が(まご)うことなく〈一つの地〉であることの(あかし)だった。

 ゆえに、我々は望むのだ。

 この地の統一を。

 この地は一つであるべきなのだから。

 そしてそれは我らの望みであると同時に、我らの聖母にとっても切実な願いのはずだった。違うだろうか。

 そしてそれはあと一歩のはずだった。違うであろうか。

 それなのにどうしてこのようなことになったのか。今でも私は彼女に問わずにはいられない。私は今でも問い続けている。

 彼はあなたの望みを叶える男だったはず。

 彼こそがあなたの積年の願いをこの地にもたらす者であったはず。

 そしてそれは、あと一歩だったはず。

 それなのになぜあなたは、()の者を見捨てたのか。

 ああ、聖母よ! シオよ! 我が母よ! 私の信仰はついに揺らいでしまった。果たして今の私はあなたを崇拝していると言えるであろうか。

 わからない。

 あの、美しく煌びやかな教会のことは今でも昨日のことのように思い出せる。真新しい木の香り。真新しい漆喰の輝くばかりの純白さ。そして壇上に掲げられた荘厳なる聖母の像。

 (うるわ)しき万物の母。

 美しき大樹。

 最初に相克の鳥を許し、最後には予言の猫を解き放つ世界の(いしずえ)

 私はあの教会の聖母に祈りを捧げた。毎日、(まい)()、捧げ続けた。望みが叶うならこの命など惜しくもなかった。私の命で(あがな)えるものであれば喜んで差し出した。それなのにあの新月の夜は一体、(なん)だったのか。

 祈りも空しくこの地は(いま)だ分断し、大地は人の血に飢え渇きが癒える気配もない。



── 神は時に気紛れを起こし、絡み(もつ)れし人の運命(さだめ)を見据え(たも)う。──


第一章 変調の兆し





1





 東ガリアの王宮はその日、騒然としていた。騒ぎの元凶はアウレリアだ。かつての王女が予告なく突然現れるや、平時にない不機嫌さを隠すことなく周囲に()き散らしたのだ。その名はかつて、「春の日差し」の代名詞でもあったというのに。いや、「王女」の肩書きが外れた今もなお、彼女の名は穏やかさや(たお)やかさの象徴であり続けていた。それが猛烈な勢いで機嫌を損ねているとなれば、まさに業火の夏に凍てつく冬の嵐が吹き荒れたに等しい事態だったのだ。

 いずれにしても、聖母の生き写しと評されることさえあるアウレリアのその心が掻き乱されていると知れば誰であっても一つの、そして唯一の原因に辿(たど)り着くのも難しいことではない。

 すなわち王太子フォルクハルトに関わる何かが、起きた。

 以前にもアウレリアはフォルクハルトのために温厚さの仮面を脱ぎ捨てたことがあり、だから今回もそういうことだろうと彼女の姿を見た者はすぐに察した。そしてこの緊迫には王后陛下が一枚()んでいる、というのも人々の目には自明なことだった。王宮内は過去のアウレリアが異母弟の処遇を巡って実の母親を糾弾して以来、先の見えない不穏な霧に包まれたような重苦しさを人々に感じさせてきたものだ。

 その空気が晴れる気配はない。

 疑惑を受けながらも一切の釈明をしない王后に、勢いで怒りをぶつけたアウレリアもまたその真意が理解できずに煩悶としてきた。そこに突然持ち上がったのが、これだ。

 なぜここに(いた)って唐突にフォルクハルトの名が挙がったのか。それはどこまで本気なのか。そもそも事態がこれほどまでに(こじ)れたのは国王その人のせいではないか。それなのに……。

 アウレリアの胸中は混乱の最中(さなか)にあった。

 この国の君主は厄介事のすべてを息子に押し付け、その失敗を漫然と待っているのではないかとアウレリアには思えてならなかった。彼にはフォルクハルトが戦死するか、(なん)らかの失態を犯して処罰される日が来るのを本気で願っている節がある。

 とにかく、まずは噂の真偽を確かめることだ。母なら知っている。

 そう考えたアウレリアは、ほとんど衝動的な焦りに押されて行動を起こしたのだ。

 (わたくし)には理由がある。大丈夫。訪ねるだけの理由はあるわ。

 そう何度も自分に言い聞かせ、アウレリアは回廊を突き進んでいた。

 このようにアウレリアが言い訳を(ひね)り出さねばならないほど、彼女が王宮に近付くことを王后は(いと)う。降嫁して身分の下がった者が頻繁に王宮に出入りできるなどと思ってはならぬと、かねてより王后はそう娘に言い聞かせてきた。もちろんその考えに対してことさら逆らう意思がアウレリアにあったわけではない。けれどもフォルクハルトのことは特別ではないか。彼はいずれ即位し、この国の頂点に立つ未来を背負っている。

 そして本来ならまだ、私の世話が必要な時期だった。

 アウレリアは今でもその考えに固執していた。彼女がフォルクハルトのことに関してだけはグレーデン公爵夫人の肩書を飛び越え、王女としての身分を前面に振りかざしてきたのもそのためだ。

 実際のところ不可解なのはこの国の()(きた)りの方だとも、アウレリアは思ってきた。
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登場人物紹介

フォルクハルト・フォン・ツアミューレン

 東ガリア王国の王太子。王都にはほとんど寄り付かずに戦場を駆け巡る日々を過ごしている。

 とにもかくにも死にたがりで、周囲をやきもきとさせている。

ダニエル・ド・ワロキエ

 西ゴール王国の王弟。呪われた王弟として東西ガリア中にその名が知れ渡っている。

ウド・ジークムント・フォン・オーレンドルフ:

 オーレンドルフ家長男。色を好みすぎて実家からは勘当されている。

 フォルクハルトの右腕を自称しているが当のフォルクハルトには煙たがられており、願わくば消えてくれと思われている。

イザーク:

 傭兵団〈灰猫〉の団長

タイス

 ダニエルの付き人。

王后

 東ガリア国王の第一夫人。アウレリアの実母。フォルクハルト、およびその妹2人の養母。

 政治に口を出すことはないが、その権威は国王を凌ぐとも噂されている。

 フォルクハルトとアウレリアとの間にわだかまる王位継承問題については、これまで一度も自身の立場や意見を公式にも非公式にも表明したことはない。それゆえに様々な波紋を王宮内に投げかけ、憶測が飛び交う原因となっている。

アウレリア:

 東ガリア王国の第一王女、グレーデン公爵夫人、フォルクハルトの異母姉。

 グレーデン公爵との間に子がないため、年の離れた弟のフォルクハルトを我が子のように溺愛している。

グレーデン公:

 アウレリアの夫。フォルクハルトの義理の兄。

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