51 晩餐
文字数 2,467文字
この暗がりの中には何かが潜んでいる。
そんな悍 ましい気配を感じた途端、タイスの体は凍りついたように動けなくなっていた。後を追いかけてきたウドが馬の手綱をすっと取りながら、笑った。
「ほら」
「…………」
悔しいが今はこの男に縋 らないと帰れそうもない。タイスは諦めて食事に付き合った。
最初のうちこそ警戒もし、当たり障りのないことを話していた。そう思う。出身地の話から、日々の生活から、宮中の行事から。
思った以上にウドは聞き上手で、それに話も面白かった。東ガリアの風習はタイスには興味深いものばかりで、気付けば会話は想像以上に弾んでいた。
不思議な気分だった。
タイスの中には東ガリア人に対する型通りの偏見がある。それはタイスだけではない。誰もがそうなのだ。隣人でありながら何もかもが遠くの距離にある東ガリア人に対し、西ゴール人の多くは理不尽なほど極度な偏見を抱いている。
山岳地帯で暮らす文明遅れの民族で、だからこそ東方からの襲撃に耐え切れずに国を滅ぼした。喋る言葉も粗雑なら、態度も野蛮で、粗野で、乱暴で、人の心の機微をまるで理解しない。揉め事があれば話し合いではなく力で解決しようとする。背が高く、大柄で、筋肉ばかりが発達した原始人。美しさや洗練さとはまるで対極な、見苦しく品のない人々……。
西ゴール人は判で押したように、東の人間のことを思い描いてきた。いや、むしろそういう民族でなければ困るという焦りもまた、彼らの偏見の中にはあったのだろう。
時代の変化に心がついていけないのだ。
かつて小国家が起こっては滅び去る歴史を繰り返したかつてのガリア東部は、それゆえに弱小の、西にとって取るに足らない存在のはずだった。しかし、それを覆しつつある今の東ガリア王国はこれまでの国々とは勢いがまるで違う。
下手をしたら西も飲みこまれるかもしれない。
いや、そんなはずはない。
西ゴールは東西の分裂から今に至るまで変わらず一つの国であり続けた国だ。新興の東ガリア王国ごときに負けるはずはない。西ゴール王国はこれからも、いつまでも、未来永劫世界の中心に輝き続け、時代の先端、文化の先端であり続ける。そう、思いたい。思いたいのだ。それらはおそらく、太平を謳歌し続けた反動でもあった。今の西ゴールは慢性的な閉塞感の中に閉じこもり、だからこそ古くからの偏見と幻想の中に逃げこみ現実を直視しない。
それにしてもフォルクハルト王子は、と、タイスは思った。
ダニエルの言葉に惑わされたわけではないが、一目見た瞬間タイスも唸 るしかなかった。真実あれは美の完成形だ。西ゴールで好まれる流行りの美しさとは違うが、目を引く力強さと端正さが彼には備わっている。確かに駆け引きの巧みさはダニエルの方が上だったが、しかしフォルクハルトには、ダニエルに翻弄されながらも一歩引いたところで冷静に状況を俯瞰しているような思慮深さがあった。それに、何 というか、女であれば惹かれずにはいられないような影を彼は背負っている。はっきりとそれが何かとまでは言えず、だからこそどうにも気になってしまう魅力のある影だ。ダニエルがそこに夢中になったとしても無理はない。
食事が無事に済んでいればいいのだが。
タイスは憂い顔で溜息を零 した。
自分の方の食事は、どう判断しても無事では済まなかった。そう思うと憂鬱に拍車がかかる。
この男はダニエルのことを聞き出したかった。それだけだ。
と、そう思うほどにタイスの口角は下がっていった。ウドの目的はそれだけだった。そうでなければ、話がダニエルのことに及んだ瞬間にああも饒舌だった口を閉ざすものか。しかしその素っ気ない態度に主人を思うタイスはつい
特に
もう用済みだから一人で帰れとでも言われたらどうしたらいいのか、半ば本気で不安を覚えたタイスではあったが、ウドは約束を違 えず夜道を共にしてくれていた。
その程度には紳士だということだ。実際に女の扱いも心得ている。遊ばれていることがわかっていても、それでもその気遣いには心が動かされというのだから、笑ってしまう。
皮肉な気持ちが溢れてタイスは泣き出したくなった。
一方のウドはタイスの背中を見つめながら、重苦しい気分を持て余していた。
その符号をどうしたらいいのか、流石 の彼にもわからなかったのだ。
仮にダニエル・ド・ワロキエが本物であるとして、そして、伝説が本当であるとして、そのようにすべてを肯定的に受け入れた瞬間に、思いもかけず
神の奇跡は、本当にあるのか。それともこれは識女の企みなのか。
人の力で生きるしかないこの時世に、今や人外の何が人の営みに干渉できるというのだ。ありえない。ダニエルの伝説を盲目的に信じ、フォルクハルトの言葉でついにそれを疑ったというのに、結局はまたその存在を受け入れるしかないのかと思うほどに不愉快だった。
風か……。
不意にイザークの言葉を思い出してウドは溜息をついた。あの男には初めから見えていたとでもいうのだろうか、この事態が。
懐に入れたままの小袋のことを思うと、より一層憂鬱に気が沈んだ。こちらも
逆風ならいつでもこの身に吹き荒れてきたものだが……。
夏の夜風に揺れる草原の影に視線を落とし、ウドは背筋に寒いものを感じて首を振った。
そんな
「ほら」
「…………」
悔しいが今はこの男に
最初のうちこそ警戒もし、当たり障りのないことを話していた。そう思う。出身地の話から、日々の生活から、宮中の行事から。
思った以上にウドは聞き上手で、それに話も面白かった。東ガリアの風習はタイスには興味深いものばかりで、気付けば会話は想像以上に弾んでいた。
不思議な気分だった。
タイスの中には東ガリア人に対する型通りの偏見がある。それはタイスだけではない。誰もがそうなのだ。隣人でありながら何もかもが遠くの距離にある東ガリア人に対し、西ゴール人の多くは理不尽なほど極度な偏見を抱いている。
山岳地帯で暮らす文明遅れの民族で、だからこそ東方からの襲撃に耐え切れずに国を滅ぼした。喋る言葉も粗雑なら、態度も野蛮で、粗野で、乱暴で、人の心の機微をまるで理解しない。揉め事があれば話し合いではなく力で解決しようとする。背が高く、大柄で、筋肉ばかりが発達した原始人。美しさや洗練さとはまるで対極な、見苦しく品のない人々……。
西ゴール人は判で押したように、東の人間のことを思い描いてきた。いや、むしろそういう民族でなければ困るという焦りもまた、彼らの偏見の中にはあったのだろう。
時代の変化に心がついていけないのだ。
かつて小国家が起こっては滅び去る歴史を繰り返したかつてのガリア東部は、それゆえに弱小の、西にとって取るに足らない存在のはずだった。しかし、それを覆しつつある今の東ガリア王国はこれまでの国々とは勢いがまるで違う。
下手をしたら西も飲みこまれるかもしれない。
いや、そんなはずはない。
西ゴールは東西の分裂から今に至るまで変わらず一つの国であり続けた国だ。新興の東ガリア王国ごときに負けるはずはない。西ゴール王国はこれからも、いつまでも、未来永劫世界の中心に輝き続け、時代の先端、文化の先端であり続ける。そう、思いたい。思いたいのだ。それらはおそらく、太平を謳歌し続けた反動でもあった。今の西ゴールは慢性的な閉塞感の中に閉じこもり、だからこそ古くからの偏見と幻想の中に逃げこみ現実を直視しない。
それにしてもフォルクハルト王子は、と、タイスは思った。
ダニエルの言葉に惑わされたわけではないが、一目見た瞬間タイスも
食事が無事に済んでいればいいのだが。
タイスは憂い顔で溜息を
自分の方の食事は、どう判断しても無事では済まなかった。そう思うと憂鬱に拍車がかかる。
この男はダニエルのことを聞き出したかった。それだけだ。
と、そう思うほどにタイスの口角は下がっていった。ウドの目的はそれだけだった。そうでなければ、話がダニエルのことに及んだ瞬間にああも饒舌だった口を閉ざすものか。しかしその素っ気ない態度に主人を思うタイスはつい
むき
になり、ダニエルの魅力や彼女が置かれた境遇について熱く、懇々と語ってしまったのだ。余計なことを喋りすぎたと気付いたのは、話が尽きて沈黙が訪れた時だった。特に
あの教会
のことは余計だった。ダニエルの未来を変えるであろう条件のことも
。それを知ったからといってウドにも、たとえあのフォルクハルトであったとしても、ダニエルのことをどうすることもできはしまいとはタイスもわかってはいるのだが。ダニエルが心から西ゴールを愛している
ことをタイスは知っている。しかしダニエルの秘密が広く知れ渡ることは避けるべきことだった。もう用済みだから一人で帰れとでも言われたらどうしたらいいのか、半ば本気で不安を覚えたタイスではあったが、ウドは約束を
その程度には紳士だということだ。実際に女の扱いも心得ている。遊ばれていることがわかっていても、それでもその気遣いには心が動かされというのだから、笑ってしまう。
皮肉な気持ちが溢れてタイスは泣き出したくなった。
一方のウドはタイスの背中を見つめながら、重苦しい気分を持て余していた。
その符号をどうしたらいいのか、
仮にダニエル・ド・ワロキエが本物であるとして、そして、伝説が本当であるとして、そのようにすべてを肯定的に受け入れた瞬間に、思いもかけず
あの教会
が忌まわしく浮かび上がってくる。神の奇跡は、本当にあるのか。それともこれは識女の企みなのか。
人の力で生きるしかないこの時世に、今や人外の何が人の営みに干渉できるというのだ。ありえない。ダニエルの伝説を盲目的に信じ、フォルクハルトの言葉でついにそれを疑ったというのに、結局はまたその存在を受け入れるしかないのかと思うほどに不愉快だった。
風か……。
不意にイザークの言葉を思い出してウドは溜息をついた。あの男には初めから見えていたとでもいうのだろうか、この事態が。
懐に入れたままの小袋のことを思うと、より一層憂鬱に気が沈んだ。こちらも
最後の符号
を待つだけだが、そこで待ち構えているものが何かはウドにもわからない。逆風ならいつでもこの身に吹き荒れてきたものだが……。
夏の夜風に揺れる草原の影に視線を落とし、ウドは背筋に寒いものを感じて首を振った。