12 雨の宿
文字数 2,375文字
「しかして
この時、イザークはとうに見抜いていた。ウドの不在には意味がある。これから起こるその瞬間にウドが立ち会っていては始まるものも始まらない。だからこそあの男は王太子の側 から遠ざけられたのだ。そしてイザーク自身も何かを感じたからこそ、敢 えてウドが城を離れることに口を挟まなかった。
この膠着した現状を打破するものが必要だ。
ヴァリースダは可能性の宝庫だとイザークは確信している。あそこでは何かが変わる。とてつもない勢いで世界が動くことになる。
そう、いよいよだ。
イザークは高まる気持ちを置き去りに、無言のまま踵 を返して兵舎へと戻っていった。
2
王都まであと数駅という距離にある宿場町は、生憎の天候にも関わらず往来する人々で騒がしく、ごった返していた。夜通し走った馬車に揺られて辿 り着いた者、これから次の目的地へと向かおうとしている者、それらを相手に商売を始める数々の露店。夜明けと同時に始まった人の営みで町がますます活気付く……そんな賑わいとは対照的に、大通りから一本奥まった路地の片隅では、息を潜 めるようにひっそりと数軒の宿屋が佇 んでいた。その一つでは、
「それはどういうことなんだ!」
ウドが男に問いを返して顔を顰 めていた。「なんでそんな、ばかな話になっている!」
泥濘 を厭 って宿を出るか出ないかと逡巡していたところに突然の来訪を受けてのこれだ。軒下に吊るした目印が初めて意味を成した瞬間ではあったのだが、それによって唐突にもたらされた知らせの意味はまるで理解できず、ウドは男の外套を見つめながら微 かな呻 き声を上げた。来訪者の肩から流れ落ちる水滴のせいで床は水浸しで、雨に特有のじっとりと纏 わりつくような臭いも漂 い不快感を余計に刺激する。
これだから雨は好きじゃない。ウドは空に八つ当たりをしながらも問いかけた。
「こんなくだらないことをここまで拗 らせておいて、国王は今更その始末を息子に押し付けようってのか?」
しかしそれでも、相手は無言で肯 くことしかしなかった。ウドは両腕を組みながら壁に寄りかかり、小さく唸 って窓の外を見上げた。厚い雲が憎らしい。
しかしこれは一体、どういうことなんだ。
真っ先に思いついたのは罠の可能性だった。いや、改めて考え直しても罠にしか見えない。内容に反してなかなか解決しない事件だとは以前から不思議に思っていたが、まさか、こういうことだったとは。
「……だからって、事が急すぎる」
誰に言うともなく呟 けば、前に控える男はまたしても無言で首を動かした。ウドは奥歯を噛みしめ、徐 に組んでいた腕を解 いた。そのまま直立して壁から体を引き剥 がし、乱暴に引き寄せた椅子にどっかりと座りこむ。急ぎ思慮を巡らした。どうするべきか。
吐く息はそのまま溜息に変わった。
「つまり? どういうことだ?」
ヴァリースダの件はずっと膠着したままで、その一番の理由なら誰の目にも明らかだ。
東ガリアの国王は幼稚な無理難題を西ゴールに吹っ掛け続けている。交渉は拗 れに拗れて纏 まるものも纏まらない。しかも国王の態度がなぜかくも頑 なであるのか、誰にも明瞭な答えを導き出せないとくれば解決の糸口など探しようもない。
それがここに至 ってこれほどの速さで動き出したとあれば、これはもう絶対に、
「罠だ……」
両手で顔を覆いながらウドは舌打ちをした。フォルクハルトを貶 めようと急いだに違いなかった。こちらに対策を練らすだけの時間を与えないために、急いだのだ。
なんという腹立たしさか。人知れずウドは憤慨した。
宮廷のやり口はいつでも汚く卑怯だ。安全な場所から盤上に広げた陣形を悠然と俯瞰し、一人では身動きの取れない駒を思うがままに転がしては堕ちゆく様を眺めて嘲笑 う。それが彼らの常套だ。
「それで?」と、ウドは顔を上げ、男を見つめた。「その使者はいつ発った?」
「かれこれ五日は前になります」
「それなら今日か明日にも、王太子の手に指令が届くというわけか……」
今頃は国王からの文 を読んでいる頃かもしれない。ウドは「それで?」と、今度は自分に向けて問いかけた。状況を把握した
「罠であってもなくても、西ゴールを巻きこんでいる以上は内々で事を片付けるなんてことはできない」
ならばこの焦燥はただの杞憂なのか。
ウドは唸りながら考えた。
この件は西ゴールこそ早急 に終息させたいと思っているはずだ。交渉相手がフォルクハルトに代わったと知れば、再び打開のための動きを見せてくるに違いなかった。放っておけば時間が勝手に解決を導いてくることさえ考えられる。
下手に動くべきではない。
自分がそう考えたように、フォルクハルトも同じ結論に落ち着くだろうとウドは思った。あの王太子は充分に賢く、大局を見極め取るべき最善の行動を選べるだけの才覚は持っている。
戦場において常勝の名を縦 にできるのもその才能のおかげだ。問題のありすぎる素行とは裏腹に、フォルクハルトは誰が評しても最高の指揮官だった。
「……まあ、仮にあの
ここに……。
最後まで言いきらずにウドは呻 いた。「ここに?」
目の前の男の視線がウドを哀れむものに変わり、ウドは不愉快な表情で男を睨 みつけ口を尖 らせた。
「だからこそのお目付け役?」
「あなた様のことです」
「ああ……私だな」途端に声が嘆き節に変わった。「そんな私は今、どこに?」
「王都に近いことは間違いありません」
生真面目に答える男に歯を向け、ウドは再び思考を回転させた。そしてそもそも結婚式の招待状なんてものが届かなければと考えた時、冷水を浴びせられたかのように血の気が引いた。
あのお坊ちゃん
は、どう出るか」この時、イザークはとうに見抜いていた。ウドの不在には意味がある。これから起こるその瞬間にウドが立ち会っていては始まるものも始まらない。だからこそあの男は王太子の
この膠着した現状を打破するものが必要だ。
ヴァリースダは可能性の宝庫だとイザークは確信している。あそこでは何かが変わる。とてつもない勢いで世界が動くことになる。
そう、いよいよだ。
イザークは高まる気持ちを置き去りに、無言のまま
2
王都まであと数駅という距離にある宿場町は、生憎の天候にも関わらず往来する人々で騒がしく、ごった返していた。夜通し走った馬車に揺られて
「それはどういうことなんだ!」
ウドが男に問いを返して顔を
これだから雨は好きじゃない。ウドは空に八つ当たりをしながらも問いかけた。
「こんなくだらないことをここまで
しかしそれでも、相手は無言で
しかしこれは一体、どういうことなんだ。
真っ先に思いついたのは罠の可能性だった。いや、改めて考え直しても罠にしか見えない。内容に反してなかなか解決しない事件だとは以前から不思議に思っていたが、まさか、こういうことだったとは。
「……だからって、事が急すぎる」
誰に言うともなく
吐く息はそのまま溜息に変わった。
「つまり? どういうことだ?」
ヴァリースダの件はずっと膠着したままで、その一番の理由なら誰の目にも明らかだ。
東ガリアの国王は幼稚な無理難題を西ゴールに吹っ掛け続けている。交渉は
それがここに
「罠だ……」
両手で顔を覆いながらウドは舌打ちをした。フォルクハルトを
なんという腹立たしさか。人知れずウドは憤慨した。
宮廷のやり口はいつでも汚く卑怯だ。安全な場所から盤上に広げた陣形を悠然と俯瞰し、一人では身動きの取れない駒を思うがままに転がしては堕ちゆく様を眺めて
「それで?」と、ウドは顔を上げ、男を見つめた。「その使者はいつ発った?」
「かれこれ五日は前になります」
「それなら今日か明日にも、王太子の手に指令が届くというわけか……」
今頃は国王からの
あのお坊ちゃんは
どう動くつもりだ?「罠であってもなくても、西ゴールを巻きこんでいる以上は内々で事を片付けるなんてことはできない」
ならばこの焦燥はただの杞憂なのか。
ウドは唸りながら考えた。
この件は西ゴールこそ
下手に動くべきではない。
自分がそう考えたように、フォルクハルトも同じ結論に落ち着くだろうとウドは思った。あの王太子は充分に賢く、大局を見極め取るべき最善の行動を選べるだけの才覚は持っている。
戦場において常勝の名を
「……まあ、仮にあの
死にたがり
の王子様がよからぬ衝動に突き動かされたとしてもだ」と、ウドは気楽な調子で呟いた。「だからこそのお目付け役がここに……」ここに……。
最後まで言いきらずにウドは
目の前の男の視線がウドを哀れむものに変わり、ウドは不愉快な表情で男を
「だからこそのお目付け役?」
「あなた様のことです」
「ああ……私だな」途端に声が嘆き節に変わった。「そんな私は今、どこに?」
「王都に近いことは間違いありません」
生真面目に答える男に歯を向け、ウドは再び思考を回転させた。そしてそもそも結婚式の招待状なんてものが届かなければと考えた時、冷水を浴びせられたかのように血の気が引いた。