38 敗北

文字数 2,401文字

 封蝋に刻印されていたのはワロキエ家の紋章だ。

「私が開けても?」

 問えば「いいえ」と、すぐにダニエルは首を振った。「それは、実に私的な書簡です」

「あなたが書いたもの?」

「いいえ」と、再びダニエルは否定した。「それは、我が国王の手によるものです」

「……これを?」どうしろと?

 戸惑うフォルクハルトに向けてダニエルは言った。

「貴国の国王陛下にお取り次ぎいただきたいのです。これから私が申し上げる話と一緒に」

「…………」

 その一瞬の沈黙で、部屋に入る前に感じた悪い予感が再びフォルクハルトの心を撫でた。

 しかし話を切り上げる隙はどこにもない。

(うかが)いましょうか」

 覚悟を決めてそう声を掛け、フォルクハルトは卓上で手を組んだ。「申し上げます」と答えた一方のダニエルは天板の下に手を隠す。指先に表れる感情の揺れ動きを悟らせるつもりはないらしい。

 それから(おもむろ)に、ダニエルは口を開いた。

「あの砦を明け渡すつもりは今後もありません。ロルトワルヌの一切は未来に渡って西ゴールのものであると主張します」

「…………」

 対するフォルクハルトは何の反応も示さなかった。相手がこれまで通りの主張を繰り返してくるのは予想の範疇だ。

「この(たび)の貴国の要求は実に理不尽で、あまりにも過分」

 それでもフォルクハルトは反応しなかった。

「こちらに非があることは以前から認めているのです。我々が身柄を預かったままの罪人ならいつでも引き渡す用意があります。貴国の法で気の済むように裁いていただければ結構です。逃亡中の罪人の身柄も確保が出来次第お渡しすると約束します。被害に遭った市民への補償もこちらで負担します。本来、保障はそれで充分のはずではありませんか」

 そこまで言いきると、ダニエルは一度口を(つぐ)んでフォルクハルトの瞳を覗きこんできた。それでもフォルクハルトは、しばらくの無言を貫いた。

 内容の妥当性を否定するつもりはもちろんない。しかしそれで済まなかった結果がこれではないか。

 そして今では解決のための努力さえ無意味になった。仮にフォルクハルトがこの場で「それで手を打ちましょうか」と前向きな姿勢を示したところで、数日後には状況が呆気なく覆されているだろう。それがわかっているからこそ、

「……ずいぶんと普通、ですね」

 意地が悪いかと思ったが、フォルクハルトは相手の主張を突っぱねた。

 従来通りの主張を繰り返すだけなら誰でもできる。わざわざ

が出向いて西ゴール王の書簡を持参したからには、彼らは十中八九次の一手を用意しているはずだった。それを聞いてみたいという好奇心も働いていた。

「事件は実に凄惨なもので、我々にとって実に屈辱的なものでした」と、フォルクハルトは語った。「国家に対する侮辱も(はなは)だしく、市民に与えた恐怖もまた計り知れない」

 したがって慣例的、一般的な保障だけでは我々は安心できないのです。

「誠意を示していただけないことには」と、フォルクハルトは続けた。「あなた方がヴァリースダから撤退することは市民に対する誠意であり、ロルトワルヌ全土を放棄することは東ガリアに対する誠意になると我々は考えています」

 おわかりですよね? と、フォルクハルトは正面の青い瞳を直視した。「それともあなたは私に、それとは別の誠意を示してくださるのですか?」

 ダニエルの視線は揺れ動き、「誠意、ですか」と小さく呟くや、吐き捨てた。「誠意など、そのように抽象的なもの、どのような形であれ示せるはずがありません」

「…………」

 それは次の手など用意していないという合図なのか。期待が外れたことに落胆し、フォルクハルトは目の前に置いた封筒に右手を添えた。「では、交渉にもなりません」

 そしてそれを突き返そうとした瞬間、「しかし」と、慌てたようにダニエルは言葉を継いだ。「我々には土地よりも価値あるものを差し出す用意があります。それを誠意と受け取るかどうかは、あなた方次第です」

「それはどのような?」

 問うとダニエルの視線は不敵なものに変わった。「秘密です」

「…………」

「ここで決められることは限られています」好戦的な視線がフォルクハルトを(とら)えた。「このままではどちらかが宣戦布告をすることになるでしょう。話し合いが平行線のまま硬直した今、ロルトワルヌを狙うあなた方こそが侵略者です。もはやこの場でいくら交渉したところで(なん)の意味も持ちはしない」

 違いますか? と、ダニエルは言った。「本来、補償の交渉はしかるべき場所でしかるべき者たちが行うものです。現実として私たちは戦争を望んではいませんし、終始変わらず平和的解決を模索しています。しかしここまで状況が(こじ)れた今となっては交渉の場に座れる者も限られ、つまりはその資格を持つ者はそれぞれの国家君主だけしか残されていないと私は思うのです」

 もっとも? と、言いながらダニエルは(わら)った。「東ガリアは最初から交渉など望んでいなかったのかもしれません」

「果たして挑発しているのはどちらでしょうかね?」表情に変化も付けずフォルクハルトは言い返した。「最後の一言は実に余計です。そちらがお望みであれば、こちらはいつでも受ける用意があるのです」

「……どうも私は口が悪くて」と、ダニエルはすぐに笑みを消して(うつむ)いた。

 その様子を見ながらフォルクハルトは眉を(ひそ)め、周囲に聞こえぬ程度の(うな)り声を上げた。ころころと態度を変えるせいでダニエルの真意がまるで見えてこない。

 困惑するフォルクハルトの前では、「わかっています」と、ダニエルが殊勝な態度で話を続けた。

「こちらの立場が弱いことは重々承知しています。どうぞ国王陛下に話を取り次いでください。お願いします」

 王太子のあなた様だから、お願いするのです。「せめてその書簡をお読みいただきたいのです」

「…………」

 懇願を受けた形になったフォルクハルトは押し黙ったまま封筒に視線を落とし、思案した。
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登場人物紹介

フォルクハルト・フォン・ツアミューレン

 東ガリア王国の王太子。王都にはほとんど寄り付かずに戦場を駆け巡る日々を過ごしている。

 とにもかくにも死にたがりで、周囲をやきもきとさせている。

ダニエル・ド・ワロキエ

 西ゴール王国の王弟。呪われた王弟として東西ガリア中にその名が知れ渡っている。

ウド・ジークムント・フォン・オーレンドルフ:

 オーレンドルフ家長男。色を好みすぎて実家からは勘当されている。

 フォルクハルトの右腕を自称しているが当のフォルクハルトには煙たがられており、願わくば消えてくれと思われている。

イザーク:

 傭兵団〈灰猫〉の団長

タイス

 ダニエルの付き人。

王后

 東ガリア国王の第一夫人。アウレリアの実母。フォルクハルト、およびその妹2人の養母。

 政治に口を出すことはないが、その権威は国王を凌ぐとも噂されている。

 フォルクハルトとアウレリアとの間にわだかまる王位継承問題については、これまで一度も自身の立場や意見を公式にも非公式にも表明したことはない。それゆえに様々な波紋を王宮内に投げかけ、憶測が飛び交う原因となっている。

アウレリア:

 東ガリア王国の第一王女、グレーデン公爵夫人、フォルクハルトの異母姉。

 グレーデン公爵との間に子がないため、年の離れた弟のフォルクハルトを我が子のように溺愛している。

グレーデン公:

 アウレリアの夫。フォルクハルトの義理の兄。

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