46 野獣の心
文字数 2,451文字
このエリスブルクを現時点で支配する東ガリアは、奪い取った砦をそっくりそのままの形で使い続けていた。元来が倹約家の国民性もあり、浴室の構造も当時のままだ。
まあ、服なら部屋に戻って着替え直せばいいのだが。
そう思いながらフォルクハルトは衣服を適当に丸めて放り投げ、手早く体を洗い流すと湯の中に飛びこんだ。
立ち上る湯気を吸いこみ、大きく吐き出す。これだけで気持ちが安らぐというのだから風呂とは不思議なものだった。東ガリア人は近年稀に見る風呂好きの民族だ。
彼らが生きる山岳地帯には火山も多く、ヴァリースダのほかにも温泉の湧く地域は多い。湯に浸かることが当たり前の環境が整っていた。古来より人と人との間を円滑に埋めるには酒と女と煙が不可欠だと言われているが、風呂を愛するがゆえに東ガリア人たちはそこに風呂の文字を堂々と加えて憚 らないほどだ。昨夜のフォルクハルトが大浴場を選んだのもそうした理由からで、善良な東ガリア人というものは広く一般に、「裸の付き合いをしておけば人間関係は大概のところでどうにかなるもの」という単純で大らかな哲学の下 で生きている。
「……さて」
フォルクハルトは呼吸を整えると、天井を仰ぎながらぼんやりと思索に耽った。
国王への書簡は今夜中に何 が何 でも書き上げるとして、その後の展開はどう転んでいくのだろうか。あの国王が翻意をしない限り、そして、自分の暗殺が間に合わない場合、このままならこの手であの王弟殿下を殺すことになる。
……しかしそんなことが、私にできるのか?
「求める、か」
廃教会で聞いたあの声を思い出してフォルクハルトは頭頂部に手を置いた。そしてすぐに、気がついた。
タイスの伝令さえ途切れさせてしまえば、ダニエルを殺さずとも死んだと見做 すことはできる。そうすれば……。
──年ヲ食ワヌ子供ヲ、永遠ニ愛デルコトガ出来ルノデハ?
突然の悪魔の囁きに驚愕してフォルクハルトは身を起こした。何をばかなことを考えている!
その時だった。
浴場の入り口の扉が開く音がしてフォルクハルトは驚き振り返った。途端に飛び込んできたのは、
「……へ?」
と、間の抜けた声だ。
「は……?」
ほとんど同時にフォルクハルトも頓狂な声を出していた。
ダニエルだ。そこにいたのはダニエルだった。驚いた弾みか持っていた厚手のタオル を落とし、慌てて拾い上げようとしゃがみこみながら「いらっしゃるとは思わず、失礼しました……」と、目を伏せぼそぼそと呟いている。
誰なんだ、この子供をここに連れてきたのは!
悪態をつきかけたが堪 えた。代わりにできる限りの平静を装いフォルクハルトは言った。
「ご一緒しますか?」
「へ?」
ダニエルからはまたしても驚いたような反応が返ってきた。タオルを掴 み上げようとしたままの指が固まっている。
「あ、い、いえ、そんな……」
まったく
「ご遠慮なさいますな。男同士、裸の付き合いではありませんか」
そうして湯の中から立ち上がった。
ダニエルは何に驚いたのか、「ひっ!」と首を絞められたような声を上げて尻もちをつき、そして慌てたように拾い上げたタオルで自分の顔を隠した。どうしてそういう反応になるのか、わけがわからずフォルクハルトが湯船から出ようとその縁 に足をかけた、その時だ。
王弟の名を呼びながらタイスが浴場に姿を現し、二人の状況を瞬時に認めて立ち止まった。
どうしてこうも間が悪いのだ。
この状況はどう言い訳をしてもフォルクハルトが王弟殿下に迫っている図にしか見えない。おまけに弁明の機会さえフォルクハルトには与えられなかった。いや、ウドとの一件がなければタイスも東ガリアの王太子に対してもう少し寛大な応対をしたかもしれないので、とにもかくにもこの件での一番の悪人はウドということになるのだろう。
ともあれ、「これだから東ガリア人は!」と金切り声を上げたタイスは、フォルクハルトを侮蔑の視線で睨みつけるや声高に叫んだ。「汚らわしい!」
そして叫ぶなりダニエルの手を引くと立ち上がらせ、憤然と浴場から走り去っていった。
一人誤解されたまま取り残される形となったフォルクハルトは、整理のつかない諸々を抱えこみながらもう一度湯に浸かった。
「何 だっていうんだ!」
叫んだところでどうにもならない。ならないが叫ばずにはいられなかった。しかしタイスの態度よりも許しがたいのはダニエルのあの狼狽 えぶりだ。
「他人 の
吐き捨てた後 でしばらくし、フォルクハルトは自分の発言に驚き飛び上がった。「……今、何 だって?」
自分は今、何を思った?
それは晴天の霹靂を受けたような衝撃だった。
「そうだ。
フォルクハルトは再び叫んだ。
「
3
それから慌ただしく自室に戻ったフォルクハルトは、苛立ちと煩悶の中間に挟まれたような顔で湯場の後始末を命じ、ますます強くなる「逃げ出したい」という気持ちと戦いながらダニエルの部屋を訪ねて行った。
その間 も脳内では様々な葛藤が渦巻いた。
記憶を弄 れば飛び出すのはマクシミリアンのことばかりだ。確かに即位して以降のマクシミリアンの業績は華々しく、あまりに鮮烈な印象を人に与える。しかしこの男は……。
兄弟殺し。
暗黒の疑惑を常にその身に纏 ってきた。彼の上には母親の異なる五人の兄と一人の姉があり、しかも彼らが同時期に命を落としたとくれば誰であっても不審を抱くだろう。
なにしろ西ゴールの王位継承権は今も昔も変わらず純粋で厳格な年齢順なのだ。女王の存在を認めない代わりに、長子が立太子の儀に臨める保証もない東ガリアとは違う。仮に才能や素質でもって兄たちを凌 いでいたとしても、マクシミリアンが王位に就ける可能性などあるはずもなかった。それこそ
まあ、服なら部屋に戻って着替え直せばいいのだが。
そう思いながらフォルクハルトは衣服を適当に丸めて放り投げ、手早く体を洗い流すと湯の中に飛びこんだ。
立ち上る湯気を吸いこみ、大きく吐き出す。これだけで気持ちが安らぐというのだから風呂とは不思議なものだった。東ガリア人は近年稀に見る風呂好きの民族だ。
彼らが生きる山岳地帯には火山も多く、ヴァリースダのほかにも温泉の湧く地域は多い。湯に浸かることが当たり前の環境が整っていた。古来より人と人との間を円滑に埋めるには酒と女と煙が不可欠だと言われているが、風呂を愛するがゆえに東ガリア人たちはそこに風呂の文字を堂々と加えて
「……さて」
フォルクハルトは呼吸を整えると、天井を仰ぎながらぼんやりと思索に耽った。
国王への書簡は今夜中に
……しかしそんなことが、私にできるのか?
「求める、か」
廃教会で聞いたあの声を思い出してフォルクハルトは頭頂部に手を置いた。そしてすぐに、気がついた。
タイスの伝令さえ途切れさせてしまえば、ダニエルを殺さずとも死んだと
──年ヲ食ワヌ子供ヲ、永遠ニ愛デルコトガ出来ルノデハ?
突然の悪魔の囁きに驚愕してフォルクハルトは身を起こした。何をばかなことを考えている!
その時だった。
浴場の入り口の扉が開く音がしてフォルクハルトは驚き振り返った。途端に飛び込んできたのは、
「……へ?」
と、間の抜けた声だ。
「は……?」
ほとんど同時にフォルクハルトも頓狂な声を出していた。
ダニエルだ。そこにいたのはダニエルだった。驚いた弾みか持っていた厚手の
誰なんだ、この子供をここに連れてきたのは!
悪態をつきかけたが
「ご一緒しますか?」
「へ?」
ダニエルからはまたしても驚いたような反応が返ってきた。タオルを
「あ、い、いえ、そんな……」
まったく
まどろっこしい
! 苛立ちを覚えながらもフォルクハルトは例の笑顔を作った。「ご遠慮なさいますな。男同士、裸の付き合いではありませんか」
そうして湯の中から立ち上がった。
ダニエルは何に驚いたのか、「ひっ!」と首を絞められたような声を上げて尻もちをつき、そして慌てたように拾い上げたタオルで自分の顔を隠した。どうしてそういう反応になるのか、わけがわからずフォルクハルトが湯船から出ようとその
王弟の名を呼びながらタイスが浴場に姿を現し、二人の状況を瞬時に認めて立ち止まった。
どうしてこうも間が悪いのだ。
この状況はどう言い訳をしてもフォルクハルトが王弟殿下に迫っている図にしか見えない。おまけに弁明の機会さえフォルクハルトには与えられなかった。いや、ウドとの一件がなければタイスも東ガリアの王太子に対してもう少し寛大な応対をしたかもしれないので、とにもかくにもこの件での一番の悪人はウドということになるのだろう。
ともあれ、「これだから東ガリア人は!」と金切り声を上げたタイスは、フォルクハルトを侮蔑の視線で睨みつけるや声高に叫んだ。「汚らわしい!」
そして叫ぶなりダニエルの手を引くと立ち上がらせ、憤然と浴場から走り去っていった。
一人誤解されたまま取り残される形となったフォルクハルトは、整理のつかない諸々を抱えこみながらもう一度湯に浸かった。
「
叫んだところでどうにもならない。ならないが叫ばずにはいられなかった。しかしタイスの態度よりも許しがたいのはダニエルのあの
「
一物
を見たくらいでどうしてああも恥じらうのだ。女でもあるまいに!」吐き捨てた
自分は今、何を思った?
それは晴天の霹靂を受けたような衝撃だった。
「そうだ。
いないが正解なんだ
。マクシミリアンに弟など最初からいなかった
!」フォルクハルトは再び叫んだ。
「
くそ
! 最悪だ!」3
それから慌ただしく自室に戻ったフォルクハルトは、苛立ちと煩悶の中間に挟まれたような顔で湯場の後始末を命じ、ますます強くなる「逃げ出したい」という気持ちと戦いながらダニエルの部屋を訪ねて行った。
その
記憶を
兄弟殺し。
暗黒の疑惑を常にその身に
なにしろ西ゴールの王位継承権は今も昔も変わらず純粋で厳格な年齢順なのだ。女王の存在を認めない代わりに、長子が立太子の儀に臨める保証もない東ガリアとは違う。仮に才能や素質でもって兄たちを
彼ら全員が
、死なない限り
は。