30 后と妃
文字数 2,368文字
それを聞くとダニエルは振り返り、意味深な笑いを浮かべて口を開けた。
「目が、合いました」
「なんですって⁈」
そんな恰好で目など合わせたら、即座に斬り捨てられても文句は言えない。
「ええ、そうですとも」
タイスの気持ちを察したように、ダニエルは正面に向き直りながら応えた。「しかし彼は私を斬りませんでした」
「…………」
その意味するところを理解してタイスは戦慄した。「一体、ダニエル様……?」
しかし、馬を走らせたダニエルはタイスの疑念には答えなかった。
「見 惚 れてしまうなんてこともあるものですね。西ゴールの宮殿に招けばご婦人たちは彼を放ってはおかないでしょう。なかなかに優美なものです」
「何を暢気なことを仰 いますか」
タイスは唸 った。「もしも〈死神〉がその鎌を振るったら、私は今頃ダニエル様の死体を拾っていたかもしれないというのに」
「……その通りですね」
事もなくダニエルは肯定した。「あなたが私の死体を拾う可能性は高かった」それでもよかったとダニエルは続けた。
王弟の死体をエリスブルグに一つ転がしておくだけで、あるいはすべてが丸く収まったことでしょう。
「……でも仕方ありません。次の手を考えましょう」
「おやめくださいダニエル様!」
タイスは泣きそうな気持ちを押し殺し、強いて強気の声を出してダニエルを叱った。「ダニエル様が死ぬなら私も後を追いかけます!」
「…………」
あまりにタイスの宣言が予想外だったのだろう。ダニエルは目を見開いた。「それはなりません!」
「そう思うなら」と、タイス口を尖 らせた。「そのように命を捨てに行くことをしないでください」
「…………」
「いいですか、ダニエル様。今回の件にどのような事情があるかは私にはわかりません。しかし、ダニエル様が死ぬなら私は必ず後を追いかけます。ですか……」
「私があなたをどれほど大事にしているか!」
唐突にダニエルは叫んだ。タイスも負けじと言い返した。
「しかしダニエル様は私を殺すのです!」
「ああタイス! あなたという人は!」場の空気を和らげるようダニエルは朗らかに笑った。「では、私はあなたを殺さぬよう、自らも振る舞わねばというわけですね?」
「もちろんその通りです」
タイスの即答を受けてダニエルはしばらく口を噤んだ。馬に揺られながらその気まずい空気にタイスが喘 ぎかけた時、ようやくにして沈黙を破ったダニエルが小さな言葉を零 しながら苦笑した。
「次の手は、ある」
「……どのような?」
「私を斬らなかった〈死神〉であれば使える手かもしれません。実はここに来る前に国王から一つ文 を預かったのですが、どうやらそれが役に立ちそうです」
「…………」
「そうと決まれは先手必勝ですよ、タイス!」
青い瞳が悪戯 を思い出した子供のように元気を取り戻し、輝いた。またしても。タイスは思わず呆 れ、そして再び唸り声を上げた。
一体この人は何を考えているのだ。悪いことにならなければいいが。
しかしタイスは湧き上がった不安を無理に飲みこんだ。信じるしかないと思ったのだ。自分のためにもダニエルが無茶をすることはないはずだ、と。
もちろんそんな保証などどこにもない。タイスはわかっているようでわかっていなかった。そしてタイスがこの時抱えた不安はそれほどの間 を置くことなく悪い方向に的中し、大きく強く、歴史を揺り動かすことになる。
第四章手札 を隠して
1
グレーデン公の目下の悩みは、ここ数日のアウレリアの気分に斑 があることでも、離宮に引きこもり快楽に明け暮れる国王がどうやらすでに耄碌しているらしいことでも、その原因を作った愛妾が毒婦で手の施しようがないことでも、悲しいかな、そのいずれでもない。
いや、あの毒婦のことは……と、嘆息を一つ漏らしながらグレーデン公は駒 を一つ動かし、眉間の皺 を軽く指で揉んだ。あれは見方を変えれば実に哀れなものだ。国王の寵愛を一身に受け、権力を私物化し、未来の国王を産み落とすという大業を成してもなお、周囲からは形式的に王妃 と呼ばれるだけで心から尊ばれたことがない。それもこれも外側ばかりで中身が空虚すぎるせいだとグレーデン公は常々思ってきた。
出自だけが問題ならばもう少し敬われてもいいはずなのだ。
対する王后 の立ち居振る舞いを見ていればわかる。彼女は見た目こそ東ガリア人だが、その一族は西ゴール貴族の流れを汲み、しかも今では海上貿易で財を成す商家の一つにすぎない家柄だ。そんな出自であっても王后は確かに王后だった。心から慕われようが、心の底では疎 まれ憎まれようが、あらゆる感情の渦巻くその中心で毅然と胸を反らせて立って見せる彼女こそが紛 うことなき我らが女王 のあるべき姿だ。……しかし、
それでもあの王后は偉大すぎる。
苦笑しながらグレーデン公は盤 上の駒を指で弾き飛ばした。
王后陛下は国王のご婦人 をお気に召してはいない。誰が見てもそうとわかる。しかし言葉にも行動にも、これまでの彼女から明確な嫌悪が外に向けて示されたことはない。それどころかフォルクハルトの実母という、ただそれだけの理由でその存在を公認する節さえ彼女は匂わせる。
とはいえ、あの王后の真意など誰が理解できようか。西の民族は常に手札 を隠して誰にもその手の内を見せることはない。だからこそ王后の謎の行動はいつでも様々な憶測を呼び周囲を混乱させるのだ。
なぜフォルクハルトとその二人の妹を引き受けたのか、なぜフォルクハルトにあのような教育を施したのか、そしてどうしてこうも呆気なくフォルクハルトを突き放したのか。
それら一つ一つはどう見ても矛盾した行動だ。彼女の本心がフォルクハルトの死を望んでいるのかどうかも判然としない。グレーデン公としても複雑な心境に、心穏やかではいられない日々が続いていることは否定しきれなかった。
「目が、合いました」
「なんですって⁈」
そんな恰好で目など合わせたら、即座に斬り捨てられても文句は言えない。
「ええ、そうですとも」
タイスの気持ちを察したように、ダニエルは正面に向き直りながら応えた。「しかし彼は私を斬りませんでした」
「…………」
その意味するところを理解してタイスは戦慄した。「一体、ダニエル様……?」
しかし、馬を走らせたダニエルはタイスの疑念には答えなかった。
「
「何を暢気なことを
タイスは
「……その通りですね」
事もなくダニエルは肯定した。「あなたが私の死体を拾う可能性は高かった」それでもよかったとダニエルは続けた。
王弟の死体をエリスブルグに一つ転がしておくだけで、あるいはすべてが丸く収まったことでしょう。
「……でも仕方ありません。次の手を考えましょう」
「おやめくださいダニエル様!」
タイスは泣きそうな気持ちを押し殺し、強いて強気の声を出してダニエルを叱った。「ダニエル様が死ぬなら私も後を追いかけます!」
「…………」
あまりにタイスの宣言が予想外だったのだろう。ダニエルは目を見開いた。「それはなりません!」
「そう思うなら」と、タイス口を
「…………」
「いいですか、ダニエル様。今回の件にどのような事情があるかは私にはわかりません。しかし、ダニエル様が死ぬなら私は必ず後を追いかけます。ですか……」
「私があなたをどれほど大事にしているか!」
唐突にダニエルは叫んだ。タイスも負けじと言い返した。
「しかしダニエル様は私を殺すのです!」
「ああタイス! あなたという人は!」場の空気を和らげるようダニエルは朗らかに笑った。「では、私はあなたを殺さぬよう、自らも振る舞わねばというわけですね?」
「もちろんその通りです」
タイスの即答を受けてダニエルはしばらく口を噤んだ。馬に揺られながらその気まずい空気にタイスが
「次の手は、ある」
「……どのような?」
「私を斬らなかった〈死神〉であれば使える手かもしれません。実はここに来る前に国王から一つ
「…………」
「そうと決まれは先手必勝ですよ、タイス!」
青い瞳が
一体この人は何を考えているのだ。悪いことにならなければいいが。
しかしタイスは湧き上がった不安を無理に飲みこんだ。信じるしかないと思ったのだ。自分のためにもダニエルが無茶をすることはないはずだ、と。
もちろんそんな保証などどこにもない。タイスはわかっているようでわかっていなかった。そしてタイスがこの時抱えた不安はそれほどの
第四章
1
グレーデン公の目下の悩みは、ここ数日のアウレリアの気分に
いや、あの毒婦のことは……と、嘆息を一つ漏らしながらグレーデン公は
出自だけが問題ならばもう少し敬われてもいいはずなのだ。
対する
それでもあの王后は偉大すぎる。
苦笑しながらグレーデン公は
王后陛下は
とはいえ、あの王后の真意など誰が理解できようか。西の民族は常に
なぜフォルクハルトとその二人の妹を引き受けたのか、なぜフォルクハルトにあのような教育を施したのか、そしてどうしてこうも呆気なくフォルクハルトを突き放したのか。
それら一つ一つはどう見ても矛盾した行動だ。彼女の本心がフォルクハルトの死を望んでいるのかどうかも判然としない。グレーデン公としても複雑な心境に、心穏やかではいられない日々が続いていることは否定しきれなかった。