47 性嗜好

文字数 2,497文字

 もちろん疑惑は所詮、疑惑だ。しかし野心のある男ならそれくらいのことをしても不思議ではないという思いがフォルクハルトの中には厳然として存在している。現に東ガリアの王がそうだ。優秀の誉れ高く順当に王位を継ぐはずだった弟が早世したからその地位を手に入れることができた。当然、即位に関しては黒い噂が飛び交ったと聞いている。

 それでもその椅子が欲しければ行動するしかない。

 それくらいのことをしなければ手に入らないのがあの椅子だ。王族に生まれたからといって決して安泰ではない。この世界の条理といってもいい。

 マクシミリアンも、きっとそうだったに違いない。

 思うと同時に、その偉大なる王に残された半身の存在を脳裏に浮かべ、

「面白くない」

 フォルクハルトは小さく吐き捨てた。

 疑念の一つが解決した反面で、もう一つの疑念は振出しに戻った。心情としてはとにかくやるせない気持ちでいっぱいだ。マクシミリアンに弟がいないことさえ証明できればダニエルが偽物で、不老の奇跡も存在しないと反論できたはずが、どうしてこんなことになってしまったのか。

 ともあれ、ダニエルのことはダニエルのことだ。これ以上この城に置いておくわけにはいくまい。たとえ今夜一晩を耐えきったとしても、明日の自分がどうなっているかの確信が今のフォルクハルトにはない。

 幻滅だ。

 フォルクハルトは自身に対して大いに幻滅していた。今やダニエルのことが欲しくて欲しくて(たま)らなかった。まさかここまで自分が欲深く獣じみた人間であったとは思いもしなかった。

 あの、昔から密かに抱いてきた恐怖は、世界の美しさに対してそれを深い部分で感じた瞬間にすべてが破滅するのでないかというあの恐怖は、この日のために抱えていたものだったのではないかとさえフォルクハルトには思われた。

 それは確かに、ダニエルは美しい。美しいが、だめだ。触れすぎてはならい。壊してしまう。壊すわけにはいかない。

 一体私に何の天罰が下ったというのかと、フォルクハルトは不機嫌な気持ちで神を恨んだ。果たして自分はどのような罪を犯し、どうしてこのように辛い責め苦を味わうはめになったのだ。冗談ではない。

 思えば思うほどに不愉快だった。

 しかし日頃の鍛錬の賜物(たまもの)か、煩悶にのたうち回るフォルクハルトの表情はいつもの通りの王太子だった。内面が腐った林檎のように崩れ落ちているなど誰に悟られようか。ともあれこの動揺は何が(なん)でも隠し通さねばと、焦りを覚えながらもフォルクハルトは落ち着けとばかりに何度も自分を叱責し、扉を叩いた。

 予想通りというべきか、部屋の外で敵意を剥きだしたタイスに応対された。が、すぐにダニエルが出てきてタイスを部屋に押し返し、すぐに謝罪の言葉を口にした。

「タイスが無礼を言いました。彼女もその、いろいろと驚いたのです。お許しください」

「別に構いません。誤解が解けるのであれば」

「もちろん!」と、慌てたようにダニエルは言った。「誤解だと言って聞かせていますので」

 言いながらおずおずとフォルクハルトを見上げ、すぐに(うつむ)いた。「そ、その……誰も使わないと聞いていたものですから」

 誰がそんなことを言った? ウドか? いや、あの男は今日ここに着いたばかりなのだ。私があそこを使わないことは知らないはずだ。

 本当に、誰がこの子供にあそこを案内したのだ。誰が。

 フォルクハルトは苛立ちを覚えながらも、それでも理性的な応対に努めようとした。どちらにしても、この子供の入浴の世話から何からまるで気に留めていなかった自分も悪かったのだ。

「私の方も配慮に欠けておりました。反省しています」

「その必要はありません。本来あそこは、あなた様専用の浴場なのだそうですね……」

 そう言いながら視線を彷徨わせるダニエルの姿に、心の裏で野獣の本能が鎌首をもたげようとした。フォルクハルトはその衝動を懸命に押し殺し、言った。

、男の薄汚れた垢に(まみ)れた湯に浸からせるわけにはいきませんので、湯を抜いて洗って、もう一度湯を張り直させました。今後私はあそこを使いません。どうぞ好きな時間、好きなだけ、お使いください」

 言えばさっとダニエルは(あお)()めた。「どこで、お気付きになったのですか」

「あそこまであからさまな態度を取られて気付かぬと思いますか」フォルクハルトは強いて素っ気なさを装った。「それに、西ゴール人はダニエルの名をどちらにも使います。その時点で気付くべきだったかもしれません」

 男性であればダニエル、女性であればダニエラとするのが東ガリア流だが、西ゴール人の使うダニエルをその(おん)だけで男と断定するのは難しい。思い返せばダニエルの(てい)()をフォルクハルトはまだ見ていない。いや、綴字など最初からなかったのかもしれない。

「そもそも系図にダニエルの名はありません。そこにあるのは兄王に付き従い、自ら剣を取り、最後まで献身的に尽くした戦乙女(ワルキューレ)の名前です。あなたが本当にその女性だとしても、まさか、ここまで幼い容姿をしているとは思えませんがね」

 一気にそこまで言うと、ダニエルの顔はますます蒼白になった。

「しかし、今はその名のことは、私は忘れたいと思います」

 フォルクハルトは言った。

「正直に言えば、私はあなたが本物であることも、呪いだか奇跡だかによって老いぬ肉体を得たことも疑わしいと思っています。今なお疑っています」本物であってくれては困るという思いも気持ちの片隅にある。「しかしどちらにしても」と、冷静さと不機嫌さの中間にいるような表情でフォルクハルトは吐き捨てた。「どちららであっても結構です。少なくとも今のあなたは西ゴールの立てた正式な使者なので」

「どちらであっても、結構、ですか……?」

 ダニエルは声を震わせながらフォルクハルトを見上げた。「私を女と知ってもどうでもいいと、あなた様はそう(おっしゃ)る、わけですね?」

「それを知った私に、ではどうしろと言うのです」破裂しそうになる感情を懸命に蹴り飛ばしてフォルクハルトは答えた。「(ひざまず)いて今からその手に接吻でもしましょうか? (かしず)いてあれやこれやと世話をして差しあげれば満足ですか?」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

フォルクハルト・フォン・ツアミューレン

 東ガリア王国の王太子。王都にはほとんど寄り付かずに戦場を駆け巡る日々を過ごしている。

 とにもかくにも死にたがりで、周囲をやきもきとさせている。

ダニエル・ド・ワロキエ

 西ゴール王国の王弟。呪われた王弟として東西ガリア中にその名が知れ渡っている。

ウド・ジークムント・フォン・オーレンドルフ:

 オーレンドルフ家長男。色を好みすぎて実家からは勘当されている。

 フォルクハルトの右腕を自称しているが当のフォルクハルトには煙たがられており、願わくば消えてくれと思われている。

イザーク:

 傭兵団〈灰猫〉の団長

タイス

 ダニエルの付き人。

王后

 東ガリア国王の第一夫人。アウレリアの実母。フォルクハルト、およびその妹2人の養母。

 政治に口を出すことはないが、その権威は国王を凌ぐとも噂されている。

 フォルクハルトとアウレリアとの間にわだかまる王位継承問題については、これまで一度も自身の立場や意見を公式にも非公式にも表明したことはない。それゆえに様々な波紋を王宮内に投げかけ、憶測が飛び交う原因となっている。

アウレリア:

 東ガリア王国の第一王女、グレーデン公爵夫人、フォルクハルトの異母姉。

 グレーデン公爵との間に子がないため、年の離れた弟のフォルクハルトを我が子のように溺愛している。

グレーデン公:

 アウレリアの夫。フォルクハルトの義理の兄。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み