29 想定外

文字数 2,412文字

 しかしその直後だった、ダニエルが行方を(くら)ませたのは。店の前に立ったタイスがふと振り返った時にはすでにその可憐な姿は忽然と消えていた。タイスは一瞬だけ驚き、それが過ぎ去るや大いに焦り狼狽(うろた)えた。ダニエルの好奇心が

強いことをしかと承知しているつもりのタイスだったが、いくらなんでもこの状況はあまりに予想外だった。

 何か目新しい物でも見つけてそちらへ行ってしまったのか。タイスは急ぎ道を戻り路地を回ってもみた。しかしどれほど探し回ってもダニエルの姿はどこにもない。

 これはまずいと、タイスはますます慌てた。もはや自分の手に負えない、城に戻って応援を呼ばねばとその足をロルトワルヌ砦に向けた、その時だ。

──〈死神(ラ・モール)〉もそろそろ、雨降らし竜の小麦畑を通る頃でしょうね?

 砦を出る前に(ささや)かれたダニエルの一言を唐突に思い出し、タイスは立ち(すく)んだ。

 思い起こせば数日前、小麦畑からヴァリースダの町中までの距離や、実際に小麦畑を見に行ったことがあるのかどうか、そしてその際どうやってエリスブルグに入ったのかなど、まるで世間話をするかのような気軽さでダニエルは城主と語らっていたのではなかったか。

 雨降らし竜。あるいは天の竜。

 絵画に描かれる機会こそ少ないが、この雨降らし竜もまた聖母に(まつ)わる重要な意味を持つ神獣だった。眠り続ける予言の猫を見守る相克の鳥とは違い、この竜は目覚めた猫を託され、そして再び眠るまでに起きる変革のすべてを見届ける役割を担っている。

 ヴァリースダの町から先に広がる小麦畑は、この雨降らし竜が降臨した伝説を今に残す土地だった。そしてこの地で収穫される希少な小麦は「ドゥラフン・バイ・リーゲンファル」と呼ばれ、東西を問わず今なお驚くほどの高値で取引されている。

 まさか、ダニエル様は畑を見に行ったのか。それとも〈死神〉を? まさか!

 (はや)る気持ちに押されてタイスは駆け出していた──。

 そこは高い崖を背に、比較的緩やかに川が流れる場所だった。ダニエルを見つけるなりタイスはさっと周囲を見回した。人の気配はない。誰にもこの様子を見られず済んだかどうかはわからないが、しかし子供がたった一人で(たたず)む珍妙な光景を目撃した者があれば少なからず何かは起きていたはずだ。ともあれ、無事でよかった。すぐに安堵を抱えたタイスはしかし、その反動か「どうしたのですか!」と、声には怒りを(にじ)ませた。

 農奴を思わせる貧相な服装に身を包んだダニエルは、当然のように靴も履かず裸足の状態だった。泥で汚れたその姿から貴人の面影を探すことも難しい。

 どうして?

 という疑問を飲みこみ、タイスはダニエルの(そば)に駆け寄った。そんなタイスの声に驚いたようにダニエルは顔を上げ、水を滴らせながらきまり悪そうにはにかんだ。おしろいが中途半端に剥がれて白い素肌が見え隠れしている。その見苦しさは世辞でも褒められた状態ではない。

「思ったよりも早く見つか……」

 呟くダニエルにそれ以上を言わせず、タイスは自分の服の(すそ)でその顔を力強く(ぬぐ)った。拭う(たび)に元の白皙が姿を現す。まるで泥濘(でいねい)の中から拾い上げた珠玉を磨いているような気分に悲しみが湧いた。

「痛いですって!」

 ダニエルは小さく(うめ)いてタイスを押し返し、困り顔で濡れた髪を押し上げた。鬘が落ちて金色の髪が(あらわ)になると、それは紛れもないワロキエ家の貴人に戻る。

「やれやれ町に戻ってゆっくり湯に浸かりたいところですが、これでは難しそうですね」

 自分の姿を見つめ、泥で汚れたタイスの服を見やり、僅かに眉尻を下げてダニエルは苦笑した。「変に怪しまれても困りますし、ぐるりと町の外を回って砦に戻りましょうか」

「一体どういうことですか!」

 憤然と問うと何も言うなとばかりにダニエルは首を振った。そそくさと歩き出すその先を目で追いかけたタイスは、その瞬間に再び声を張り上げた。

「馬ですって⁉」

「町で借りたのです」

「……お金は?」

「タイス、あなたには申し訳ないことをしました。実は蒸し豚を食べるくらいは持っていたのです」

「どこまで走ったのですか」

 詰問を受けたダニエルはきまり悪げに押し黙った。タイスは眉を吊り上げ、

「小麦を見に行ったのですね?」

「…………」

 無言を返したのが肯定の(しるし)だろう。

 高値で取引されるドゥラフン・バイ・リーゲンファルだ。当然他国の所有のままにしておきたくはないと西ゴールは過去に何度も奪還を試みた。その痕跡は今でも至る所に残され、ロルトワルヌからエリスブルグに抜ける間道もその一つなのだ。その多くは東ガリアがエリスブルクを手に入れた際に見つかり壊され(ふさ)がれたというが、まだそのいくつかは今でも利用が可能だと城主は言っていた。ダニエルはその一つを使ったに違いなかった。

「それで?」

 と、諦めの気持ちになってタイスは問うた。「いかがでしたか、畑の様子は?」

 馬に(またが)り、後ろに乗るようにとタイスを促したダニエルは、それに対してまさかの譫言(うわごと)を返した。

「思っていたのと、違いました」

「……どのように?」

 何がそれほど期待外れだったのかと思っていれば、ダニエルは「だって」と小さな声で困惑したように(つぶや)いた。「私たちより体格が大きくて、黒目で黒髪、顔は荒削りの石のようだと聞いていたのです。感情にも乏しく笑うこともない人たちだと……」

「何の話です?」

「少なくとも、石ではありませんでしたね」

「ですから、何を……?」

 と、眉を(ひそ)めたタイスはその直後に叫び声を上げた。「まさか、〈死神〉を見たのですか!」

「確かに黒目ですし黒髪でした。体格も私たちよりは大きかった」と、ダニエルは頷いた。「でも、あれは石ではなく玉です。するりとした滑らかな顔をしていましたし、体の線だって供の人たちよりも……」

「どういうことですか‼」

 ダニエルの独り言を(さえぎ)りタイスは声を張り上げた。「東ガリアの王太子に会ったのですか? 遠くから見ただけですよね?」
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登場人物紹介

フォルクハルト・フォン・ツアミューレン

 東ガリア王国の王太子。王都にはほとんど寄り付かずに戦場を駆け巡る日々を過ごしている。

 とにもかくにも死にたがりで、周囲をやきもきとさせている。

ダニエル・ド・ワロキエ

 西ゴール王国の王弟。呪われた王弟として東西ガリア中にその名が知れ渡っている。

ウド・ジークムント・フォン・オーレンドルフ:

 オーレンドルフ家長男。色を好みすぎて実家からは勘当されている。

 フォルクハルトの右腕を自称しているが当のフォルクハルトには煙たがられており、願わくば消えてくれと思われている。

イザーク:

 傭兵団〈灰猫〉の団長

タイス

 ダニエルの付き人。

王后

 東ガリア国王の第一夫人。アウレリアの実母。フォルクハルト、およびその妹2人の養母。

 政治に口を出すことはないが、その権威は国王を凌ぐとも噂されている。

 フォルクハルトとアウレリアとの間にわだかまる王位継承問題については、これまで一度も自身の立場や意見を公式にも非公式にも表明したことはない。それゆえに様々な波紋を王宮内に投げかけ、憶測が飛び交う原因となっている。

アウレリア:

 東ガリア王国の第一王女、グレーデン公爵夫人、フォルクハルトの異母姉。

 グレーデン公爵との間に子がないため、年の離れた弟のフォルクハルトを我が子のように溺愛している。

グレーデン公:

 アウレリアの夫。フォルクハルトの義理の兄。

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