50 不穏
文字数 2,412文字
その様子を思い出すだけでイザークの中にはチリチリとした苛立ちが募 る。わからないのだ。あの男の考えていることは今一つ読めない。語り足りなくとも裏表のない素直なフォルクハルトとは違い、ウドの秘匿は常に何かを企んでいるからこそ厄介だった。そして多くの場合、あの男はイザークにとって好ましくない方向に物事を傾けたがる。
いい加減、あのご貴族様とも決着をつけておきたいんだがな。
ヴァリースダで入手したいくつかの情報を組み合わせて思案しながら、喉の奥でイザークは唸 った。口内の蒸し豚から香辛料と香草の香りが旨みとともに染み出したが、懸念が先に立ってどうにも味わいきれないのも癪だった。
まだ利用価値があるかと手を貸してやったが、今が潮目なのかも……しれねえ。
肉を飲みこむとイザークは店の中を見回した。
日が沈んでも店の中は活況だ。田舎町なら日暮れと同時に寝静まる時間でも、歓楽街の夜は果てなく長い。場所によってはこのまま眠らず夜を明かす。そこで活躍するのが……。
「どうした?」
部下の問いかけに「いや」と返すと、イザークは皮肉るように笑った。「我ながらしけた面 してやがるなと思ってよ」
これも全部ウドのせいだ。そう思うことにした。
そもそものオーレンドルフ家には謎が多い。長男のウドを簡単に切り捨てたことも妙だった。あの処置には表には出ない理由があるはずだとイザークは睨 んでいる。聞くところでは、代わりに家を継ぐことになった次男の姿も宮殿で見かけることがないという話だ。本当に存在しているのかどうかも今なお怪しい。
いや、謎なのは次男だけではない。長男のウドもまた、フォルクハルトの前に現れるまでの経歴が謎すぎるのだ。いつ、どこで、何をしていたのか、イザークの〈目〉をもってしても未 だにその素性がくっきりと割り出せずにいるのだから、よほどのことだ。
しかし少なくとも、ウドの裏にはオーレンドルフ家があり、グレーデン家が控えている。それだけは間違いがない。だが、それでもウドの立ち位置は定まらない。巷 ではオーレンドルフ家は国王に、グレーデン家は王后に近いとされているが、この二つの家には派閥に対するはっきりとした傾倒がない。国王の意に沿う発言の多いオーレンドルフ伯爵は日頃から王后の相談役を務めているし、王后に見初められ娘婿となったグレーデン公は国王の相手をして〈狐 と 狼 〉に興じ、時には王妃の相手をすることもある。
王都には日和見を決めこむ中庸派も多いが、彼らはそれとも一線を画した存在だ。力のある貴族というものは、多少の波風で揺れ動いたりはしないということなのか。
しかし国内において比類なき求心力を発揮する両家だが、今のところ彼らが結託している様子はない。むしろどちらかといえば反目しているように見えなくもなかった。ウドが結局のところどちらの立場を優先して動いているかが定まらないのもそのせいだが、ウドがウドである以上は物事が単純化しないこともまた事実なので、ややこしい。
何 にせよ、今のところフォルクハルトの懐深く飛びこめるのもあの男だけなのだ。
「とはいえ最初から、あの男はいかがわしかった。突然俺らの前に現れた時から」
イザークは苦々しく吐き捨てると億劫そうに立ち上がった。金を払って外に出る。途端に雲間を月明かりが差しこんだ。
「そういや、今夜までか」
闇の季節が今夜で終わる。ならば一つ鎌を掛けてみようかと不意にイザークは思った。
真夏の月は昏 く、大いなる意味を持っている。
この古い言い伝えはガリアの鄙 びた集落に残されていることが多かった。田舎の村では夏至が過ぎると決まって子供たちを集め、長 たちが厳しく諭 すのだ。
──次の新月から満月に至るまでは、聖母の目が届かず闇が蠢 くから気をつけろ。
新月の混沌で力を取り戻すのは暗がりの識女だ。聖母に見放され遠ざけられた彼女の哄笑を聞いたら最後で、欺瞞も虚飾もすべてが無意味な塵 と化す。善行も悪行も、すべての人の企みが徐々に、徐々に暴かれる。その多くは悪い方向に。そこで道を誤れば人は破滅する。
聖母は満月の前で腕 を伸ばすが、そのほとんどは手の施しようがない。
だからこそ人は新月の期間、特に夜の時間を、闇の甘言に惑わされぬよう親しい者たちと過ごし結束を固めようとしてきた。しかし今では識女の存在は都会ほど薄らぎ、特に西ゴールにおいては肯定的な意味で新月を捉えているから不思議なこともある。
「それが人の営みってもんか」
イザークは呟いた。時代は変わる。意味を変え、形を変え、大いにうねりながらも続いていく。それが人の世というものなのかもしれなかった。
砦への暗い夜道を馬で進みながら、タイスは喋りすぎたことを後悔していた。ウドはずっと無言でタイスの後ろについている。
──まさか、この夜道を一人で戻る気ではありませんよね?
二度目の伝令を務め、町を抜けかけていた時だ。声をかけてきたウドは半分以上からかうような顔を彼女に向け、笑顔とは裏腹の軽い脅しをかけてきた。
「近いとはいっても、ロルトワルヌよりエリスブルクの方が町までの距離があります。見ての通りに真っ暗ですが、本当にお一人で戻られるおつもりで?」
食事に付き合ってくれるなら、帰りの護衛を引き受けてもいい。
そんなことを言われたタイスはもちろん断って町を出た。日中の仕打ちをまだ許していない。怒りが蒸し返され不愉快だった。しかし、門を一歩出た外の世界で待ち構えていた暗闇と静寂に、女のタイスは呆気なく降参してしまったのだ。雲が多く、満ちる直前の月が隠されていたことも敗因だったのかもしれない。質素とはいえ人の気配の絶えない離宮で過ごしてきた身で、これほどに底なしの黒で塗りこまれた夜を経験したことはタイスにはない。光どころか音のすべても吸い取られてしまったかのような、「無」と呼ぶに相応しい静寂があまりにおどろおどろしかった。
いい加減、あのご貴族様とも決着をつけておきたいんだがな。
ヴァリースダで入手したいくつかの情報を組み合わせて思案しながら、喉の奥でイザークは
まだ利用価値があるかと手を貸してやったが、今が潮目なのかも……しれねえ。
肉を飲みこむとイザークは店の中を見回した。
日が沈んでも店の中は活況だ。田舎町なら日暮れと同時に寝静まる時間でも、歓楽街の夜は果てなく長い。場所によってはこのまま眠らず夜を明かす。そこで活躍するのが……。
「どうした?」
部下の問いかけに「いや」と返すと、イザークは皮肉るように笑った。「我ながらしけた
これも全部ウドのせいだ。そう思うことにした。
そもそものオーレンドルフ家には謎が多い。長男のウドを簡単に切り捨てたことも妙だった。あの処置には表には出ない理由があるはずだとイザークは
いや、謎なのは次男だけではない。長男のウドもまた、フォルクハルトの前に現れるまでの経歴が謎すぎるのだ。いつ、どこで、何をしていたのか、イザークの〈目〉をもってしても
しかし少なくとも、ウドの裏にはオーレンドルフ家があり、グレーデン家が控えている。それだけは間違いがない。だが、それでもウドの立ち位置は定まらない。
王都には日和見を決めこむ中庸派も多いが、彼らはそれとも一線を画した存在だ。力のある貴族というものは、多少の波風で揺れ動いたりはしないということなのか。
しかし国内において比類なき求心力を発揮する両家だが、今のところ彼らが結託している様子はない。むしろどちらかといえば反目しているように見えなくもなかった。ウドが結局のところどちらの立場を優先して動いているかが定まらないのもそのせいだが、ウドがウドである以上は物事が単純化しないこともまた事実なので、ややこしい。
「とはいえ最初から、あの男はいかがわしかった。突然俺らの前に現れた時から」
イザークは苦々しく吐き捨てると億劫そうに立ち上がった。金を払って外に出る。途端に雲間を月明かりが差しこんだ。
「そういや、今夜までか」
闇の季節が今夜で終わる。ならば一つ鎌を掛けてみようかと不意にイザークは思った。
真夏の月は
この古い言い伝えはガリアの
──次の新月から満月に至るまでは、聖母の目が届かず闇が
新月の混沌で力を取り戻すのは暗がりの識女だ。聖母に見放され遠ざけられた彼女の哄笑を聞いたら最後で、欺瞞も虚飾もすべてが無意味な
聖母は満月の前で
だからこそ人は新月の期間、特に夜の時間を、闇の甘言に惑わされぬよう親しい者たちと過ごし結束を固めようとしてきた。しかし今では識女の存在は都会ほど薄らぎ、特に西ゴールにおいては肯定的な意味で新月を捉えているから不思議なこともある。
「それが人の営みってもんか」
イザークは呟いた。時代は変わる。意味を変え、形を変え、大いにうねりながらも続いていく。それが人の世というものなのかもしれなかった。
砦への暗い夜道を馬で進みながら、タイスは喋りすぎたことを後悔していた。ウドはずっと無言でタイスの後ろについている。
──まさか、この夜道を一人で戻る気ではありませんよね?
二度目の伝令を務め、町を抜けかけていた時だ。声をかけてきたウドは半分以上からかうような顔を彼女に向け、笑顔とは裏腹の軽い脅しをかけてきた。
「近いとはいっても、ロルトワルヌよりエリスブルクの方が町までの距離があります。見ての通りに真っ暗ですが、本当にお一人で戻られるおつもりで?」
食事に付き合ってくれるなら、帰りの護衛を引き受けてもいい。
そんなことを言われたタイスはもちろん断って町を出た。日中の仕打ちをまだ許していない。怒りが蒸し返され不愉快だった。しかし、門を一歩出た外の世界で待ち構えていた暗闇と静寂に、女のタイスは呆気なく降参してしまったのだ。雲が多く、満ちる直前の月が隠されていたことも敗因だったのかもしれない。質素とはいえ人の気配の絶えない離宮で過ごしてきた身で、これほどに底なしの黒で塗りこまれた夜を経験したことはタイスにはない。光どころか音のすべても吸い取られてしまったかのような、「無」と呼ぶに相応しい静寂があまりにおどろおどろしかった。