18 灰猫のイザーク
文字数 2,474文字
この事件の余波に少なからず巻きこまれることになったフォルクハルトだが、興味がなさすぎてその詳しい部分までは把握していない。が、どうも伝え聞くところウドは婦人 に手を出したとか何 とかで男の怒りを買い、それとはまた別の女の家から出てきたところを夜襲に遭ったらしいのだ。幸いにしてどちらにも怪我はなかったようで、いや、フォルクハルトとしてはウドが死ななかったことだけは大変残念に思うものの、結局はその事件が父オーレンドルフ伯の逆鱗に触れ……まあ、軽い火遊びのつもりが大 火傷 、といったところか。
「今や帰るところがなくなってしまいましてね……」
流石 のウドもあの時は悄然として、そして行き場を失った子猫のような悲痛な声を出してフォルクハルトの情に訴えたものだった。「だから、私をお側 にずっと置いてください。誠心誠意働きますから」と、彼は殊勝にもそんなことまで言ってのけた。
そのため常々ウドの存在に業腹であったフォルクハルトもあの時ばかりは彼を哀れに思い、「そうか……」と、努めて穏やかな気持ちで、柔らかい笑みを浮かべ、物静かな口調でウドの懇願に応じて言葉を返してやったのだ。
「出ていけ」
……まったく、なぜいつまでも自分の前をうろちょろしているのか、あの男は。面白くない。
最初からフォルクハルトはわかっていた。あの伯爵とて本気で息子を勘当するつもりなどなかったのだ。己 の行いを省みて正し、然るべきけじめをつけさえすれば、口先だけの勘当などすぐにでも解けたに違いなかった。
しかし肝心のウドが態度を何一つ改めず、実家との関係の一切を嬉々として断ち切ったせいで妙なことになったのだ。彼はもしや意地を張ったのかもしれないが、そうなればなったで意地があるのは父親も同じだ。次期当主をさっさと次男に鞍替えし、家督を譲り、そして今回の結婚式ときた。素直じゃない。
確かにウドにしてみれば招待状は不可解極まりないだろうが、そうまでしてでも息子を王都に呼び戻そうとする伯爵の気持ちを思うとフォルクハルトの心は揺れる。和解の道を模索した結果が今回の結婚式だと思うからだ。
彼らは疎遠になっても父と子だ。憎しみ合っているわけではない。父親から死を望まれているわけでもない。
自分とは違う。
フォルクハルトは窓から遠ざかり、無意識に握り潰していた文 を静かに机に置いた。
今度こそ死んでくれと呼びかける声がどこからともなく聞こえてくるようだった。自然と零 れ落ちた苦笑とともに、
「ウドに届いた結婚式の招待状と、この命令書、偶然ではないとしたら?」
独り言 ちた。これがオーレンドルフ家の動きを知った誰かの差し金だとしたら、どうだ。
「……なるほど、面白いな」
フォルクハルトは不敵に笑った。それならばこの罠、喜んで踏んでやる。そうと決まれば行動あるのみだと、すぐにヴァリースダまで連れていく供の人選を始めることにした。
人数も少数でいいはずだった。自分
どうせ自分が生きている間はこのまま事態は硬直し続けるのだ。これは自分が死ぬためだけに整えられた舞台で、死んでから先のことならどうとでもなれとフォルクハルトは思った。生きているうちは生真面目に国とその民のことを考えるこの男でも、死んで後 の世にまで責任を負う心積もりなど持ち合わせてはない。
ただし結末がどう転ぶにしても、ヴァリースダに多く人員を割くべきではないともフォルクハルトは承知しているつもりだった。自分の死を契機にすぐさま戦 の口火が切られる可能性は高いのだから、その際に指揮官が不在の戦場に多くの兵を残すことだけは何 としてでも避けねばなるまい。
……そう、フォルクハルトとしては真面目に考えたはずだったのだ。
しかしあろうことか、
「……それでえ? 副官も連れてかねえってえ?」
そんな気遣いを軽い口調で茶化したのがやはりというか、イザークだ。通り一遍の人選を終えて新鮮な空気を吸おうと外へ出た時のことだった。
「
突然の呼びかけに驚き振り返ったフォルクハルトだが、それでも冷静に惚 けた顔を作り首を傾 げた。「あなたは何 の話をしているのですか」
対するイザークは見透かしたような笑みをにやりと浮かべた。
「しらばっくれんなってえ。行く行かねえであのおっさんと揉めたことくらいもう知ってるってえの」
「…………」そんな、ばかな。
予想外の反応を前にフォルクハルトは目を瞬 かせ、小さな唸 り声を上げた。この男にはまだ何 の話もしていないはずなのにどうしたことか、耳聡い。
「あのおっさんはあんたがここに来る前までここの大将やってたんだぜ?」フォルクハルトの動揺を察したか、イザークはすかさず畳みかけた。「連れてってやらねえってのも可哀想じゃねえのか?」
しかしフォルクハルトは、すぐには何も言い返さなかった。
副官のことなら承知している。むしろそうであるからこそ連れて行かないのだが、その意図までイザークに説明するつもりはない。傭兵たちも全員この場に残していく予定なのだ。そして自分に何かが起きればすぐに、この地で彼らを中心とした征西軍が組成されることになる。
「もう知っているならわかっておいででしょう?」
しばらくの沈黙を破り、フォルクハルトは努めて柔和な笑みを浮かべて嘘をついた。「戦争に行くわけではありませんからね」
しかしイザークは、納得していないと言わんばかりの様子で鼻を鳴らした。「へえ、戦争に行くんだと思ったけどな?」
「要件が片付けばすぐに戻るつもりです」
「ふうん……」
と、含んだような声で応じたイザークは、視線を横に流してにやりと笑った。「だからあんなに……少人数で行くわけだあ?」
「…………」
フォルクハルトは呆れた顔を相手に向けた。まさかもう、そこまで知っているとは。人選の理由まで尋ねられたらどう答えるか、まさか逃げ足の速い者を選んだとは言えまいがと思い悩んだところで、先に言葉を発したのはイザークの方だった。
生きている夫のいる
「今や帰るところがなくなってしまいましてね……」
そのため常々ウドの存在に業腹であったフォルクハルトもあの時ばかりは彼を哀れに思い、「そうか……」と、努めて穏やかな気持ちで、柔らかい笑みを浮かべ、物静かな口調でウドの懇願に応じて言葉を返してやったのだ。
「出ていけ」
……まったく、なぜいつまでも自分の前をうろちょろしているのか、あの男は。面白くない。
最初からフォルクハルトはわかっていた。あの伯爵とて本気で息子を勘当するつもりなどなかったのだ。
しかし肝心のウドが態度を何一つ改めず、実家との関係の一切を嬉々として断ち切ったせいで妙なことになったのだ。彼はもしや意地を張ったのかもしれないが、そうなればなったで意地があるのは父親も同じだ。次期当主をさっさと次男に鞍替えし、家督を譲り、そして今回の結婚式ときた。素直じゃない。
確かにウドにしてみれば招待状は不可解極まりないだろうが、そうまでしてでも息子を王都に呼び戻そうとする伯爵の気持ちを思うとフォルクハルトの心は揺れる。和解の道を模索した結果が今回の結婚式だと思うからだ。
彼らは疎遠になっても父と子だ。憎しみ合っているわけではない。父親から死を望まれているわけでもない。
自分とは違う。
フォルクハルトは窓から遠ざかり、無意識に握り潰していた
今度こそ死んでくれと呼びかける声がどこからともなく聞こえてくるようだった。自然と
「ウドに届いた結婚式の招待状と、この命令書、偶然ではないとしたら?」
独り
「……なるほど、面白いな」
フォルクハルトは不敵に笑った。それならばこの罠、喜んで踏んでやる。そうと決まれば行動あるのみだと、すぐにヴァリースダまで連れていく供の人選を始めることにした。
人数も少数でいいはずだった。自分
が
戦争を始めるわけではない。どうせ自分が生きている間はこのまま事態は硬直し続けるのだ。これは自分が死ぬためだけに整えられた舞台で、死んでから先のことならどうとでもなれとフォルクハルトは思った。生きているうちは生真面目に国とその民のことを考えるこの男でも、死んで
ただし結末がどう転ぶにしても、ヴァリースダに多く人員を割くべきではないともフォルクハルトは承知しているつもりだった。自分の死を契機にすぐさま
……そう、フォルクハルトとしては真面目に考えたはずだったのだ。
しかしあろうことか、
「……それでえ? 副官も連れてかねえってえ?」
そんな気遣いを軽い口調で茶化したのがやはりというか、イザークだ。通り一遍の人選を終えて新鮮な空気を吸おうと外へ出た時のことだった。
「
あのご貴族様
もいねえのに、もう一人の副官も連れてかねえのかあ?」突然の呼びかけに驚き振り返ったフォルクハルトだが、それでも冷静に
対するイザークは見透かしたような笑みをにやりと浮かべた。
「しらばっくれんなってえ。行く行かねえであのおっさんと揉めたことくらいもう知ってるってえの」
「…………」そんな、ばかな。
予想外の反応を前にフォルクハルトは目を
「あのおっさんはあんたがここに来る前までここの大将やってたんだぜ?」フォルクハルトの動揺を察したか、イザークはすかさず畳みかけた。「連れてってやらねえってのも可哀想じゃねえのか?」
しかしフォルクハルトは、すぐには何も言い返さなかった。
副官のことなら承知している。むしろそうであるからこそ連れて行かないのだが、その意図までイザークに説明するつもりはない。傭兵たちも全員この場に残していく予定なのだ。そして自分に何かが起きればすぐに、この地で彼らを中心とした征西軍が組成されることになる。
「もう知っているならわかっておいででしょう?」
しばらくの沈黙を破り、フォルクハルトは努めて柔和な笑みを浮かべて嘘をついた。「戦争に行くわけではありませんからね」
しかしイザークは、納得していないと言わんばかりの様子で鼻を鳴らした。「へえ、戦争に行くんだと思ったけどな?」
「要件が片付けばすぐに戻るつもりです」
「ふうん……」
と、含んだような声で応じたイザークは、視線を横に流してにやりと笑った。「だからあんなに……少人数で行くわけだあ?」
「…………」
フォルクハルトは呆れた顔を相手に向けた。まさかもう、そこまで知っているとは。人選の理由まで尋ねられたらどう答えるか、まさか逃げ足の速い者を選んだとは言えまいがと思い悩んだところで、先に言葉を発したのはイザークの方だった。