4 王后の憂鬱
文字数 2,259文字
そのため今では、王后の存在は国王その人を凌ぐほどに際立ち、尊敬もされていた。しかし同時に、彼女の言動が人々を大いに混乱させてきた事実も見過ごすことはできない。特にフォルクハルトのことは、そうだ。
果たして彼女の真の意図はどこにあるのか。未 だ誰にも解けない謎がそこにはあった。
そしてそんな女性の文机に〈狐と狼〉の一式が置かれていたとあれば、アウレリアでなくとも思ったはずなのだ。
これは一人で遊んでいたものなのか。
それとも誰かと興じていたのか。それもまさかの、この私室で。
アウレリアは瞬時に眉を顰 めたが、しかし彼女はそれに触れることなく母の横顔を睨 みつけた。
「ご存じですの、お母様?」
「何 のことですか」
しかしそれでも王后は俯 いたまま、顔を上げる気配もない。アウレリアは一瞬不愉快な気持ちに駆られ、その不快さを懸命に宥 めながらそれでも母に挑みかかった。
「ヴァリースダのことです」
「ですから、何 のことですか」
「惚 けていらっしゃるの?」
「惚けるも何も、要領を得ないことを言いますね」
呆 れたような顔付きでようやく王后は顔を上げた。続く言葉もあまりに素っ気ない。「ヴァリースダ?」
良質な温泉地ですわね。
「しかし残念なことに我々が迂闊に近付くこともままならない保養地です」
その口調はまるで、辞書にある文言を読み上げるように淡々としたものだった。「一体それが、どうしたというのです」
「どうしたも何も……」
相手のあまりの淡白さにアウレリアは憤怒の様相で口を開いた。しかし、軽く往 なすように微笑んだ王后の前にたじろぎ、思わず出かかった言葉を飲みこんだ。その様子を見た王后は初めて表情を、満足の表情を顔に浮かべてから頷 いた。
「それより、案内は来ましたか?」
「何 のです?」
話の腰を折られた子供のようにアウレリアは口を尖 らせた。その娘に向けて、王后は先ほどまで自分が見つめていた封書をひらりと扇ぎ見せてから、言った。
「結婚なさるそうです」
「……どなたが?」
要領を得ないのはどちらだと言いたいところを懸命に堪 えてアウレリアは問い返した。一方の王后は娘のその様子を不思議そうに眺め、まるで世間話をするように気軽な調子で話を続けていった。
「オーレンドルフ家のお坊ちゃんの」
「…………」
「もう長いこと相手を探していた様子ですから、あの
「オーレンドルフ家と仰 いましたか?」
「ええ、オーレンドルフ家です」
王后は目だけで頷いた。「式への招待は受けましたが、例によって私 が参加することはありません。だからもしもあなたがグレーデンの名で出席なさ……」
「オーレンドルフ家と言いましたね?」
「ええ、オーレンドルフ家です」
それが何かと訝 し気に娘の顔を見つめた王后は、アウレリアの顔色が青 褪 め、そして真っ赤に紅潮していく様子を具 に認めると、
「まあ、どうしたのです?」
わざとかどうか、惚 けた声を出した。一方のアウレリアは目を怒 らせた。
「結婚なさるのは長男ではありませんね?」
「仮にあの家の長男が結婚するとしても、その案内がオーレンドルフの名で私 に届くと思いますか?」
「それならば長男は当然除 け者ですわね?」
「さあ、そこまでは判じかねます。私の手元にあるのはこの招待状だけです」
言いながら淡白な調子を崩さぬ王后は、視線を再び下げて盤上にある狼の〈女王 〉を動かし狐の〈王 〉の前に置いた。本来ならそれは自殺行為だ。次の一手で〈王〉が〈女王〉を倒してしまう。しかしこの二者の周囲に他の駒が一つも置かれていない場合は意味が違うのだ。誰もが知るこの駒の配置は「神の采配」と呼ばれ、神の名を冠するだけに恐ろしく絶大な効果を持っていた。
なんて、ことなの⁈
それに気付いた瞬間アウレリアは逆上し、それ以上の会話を続けず、そして母に対して暇 も告げずに踵 を返した。
慌ただしく立ち去っていく娘の足音が聞こえなくなるまでじっと盤上の一点だけを見つめていた王后は、やがてふうと疲れきった様子で深い息を吐き出した。それから視線を流し、手にしたままの封筒を見つめ、徐 に中の紙を取り出し凝視する。整った眉尻が僅 かに吊り上がったが、何を思ってのことかは本人にも説明が付かなったはずだ。
ともあれ彼女が手にしたものはただの白紙で、わかっていたが敢 えての確認だった。
それから王后は盤上をしばらくじっと見つめると、やがてゆったりとした動作で狼の〈女王〉に指を添えた。
「せっかちな娘に育ったものね」
ぽつりと零 れた言葉には有り余る皮肉が滲 んでいた。
「まったく、困ったことに」
呟 きながら王后は、今でも王位継承権を握る娘の将来を考え暗澹 たる気持ちに沈みかけてはっとなり、首を振った。
嘆いたところで何かが改善するわけでもない。それこそ
諦めた様子で王后は目を閉じた。
フォルクハルトが生まれるまでの十数年、この国の王位継承権はアウレリアだけのものだった。しかしそんな彼女が王の素質を持たないこともまた当時から自明だったはずだ。あの頃から問題がなかったわけではない。
あれは人として優しすぎる。我が娘 ながら嘆かわしいことこの上ない。
それもまた王后の悩みの一つだった。過去にはその欠点を別で補おうと様々に画策し、綿密な計画を練ったこともある。娘にグレーデン公を宛てがったことも、そうだ。
果たして彼女の真の意図はどこにあるのか。
そしてそんな女性の文机に〈狐と狼〉の一式が置かれていたとあれば、アウレリアでなくとも思ったはずなのだ。
これは一人で遊んでいたものなのか。
それとも誰かと興じていたのか。それもまさかの、この私室で。
アウレリアは瞬時に眉を
「ご存じですの、お母様?」
「
しかしそれでも王后は
「ヴァリースダのことです」
「ですから、
「
「惚けるも何も、要領を得ないことを言いますね」
良質な温泉地ですわね。
「しかし残念なことに我々が迂闊に近付くこともままならない保養地です」
その口調はまるで、辞書にある文言を読み上げるように淡々としたものだった。「一体それが、どうしたというのです」
「どうしたも何も……」
相手のあまりの淡白さにアウレリアは憤怒の様相で口を開いた。しかし、軽く
「それより、案内は来ましたか?」
「
話の腰を折られた子供のようにアウレリアは口を
「結婚なさるそうです」
「……どなたが?」
要領を得ないのはどちらだと言いたいところを懸命に
「オーレンドルフ家のお坊ちゃんの」
「…………」
「もう長いこと相手を探していた様子ですから、あの
老獪な
伯爵も……」と、意味ありげに老獪
の部分をわざとゆっくりと発音した王后は、何かを思い出した様子で目を細めながら冷笑した。「これでようやく安泰
といったところでしょうか」「オーレンドルフ家と
「ええ、オーレンドルフ家です」
王后は目だけで頷いた。「式への招待は受けましたが、例によって
「オーレンドルフ家と言いましたね?」
「ええ、オーレンドルフ家です」
それが何かと
「まあ、どうしたのです?」
わざとかどうか、
「結婚なさるのは長男ではありませんね?」
「仮にあの家の長男が結婚するとしても、その案内がオーレンドルフの名で
「それならば長男は当然
「さあ、そこまでは判じかねます。私の手元にあるのはこの招待状だけです」
言いながら淡白な調子を崩さぬ王后は、視線を再び下げて盤上にある狼の〈
なんて、ことなの⁈
それに気付いた瞬間アウレリアは逆上し、それ以上の会話を続けず、そして母に対して
慌ただしく立ち去っていく娘の足音が聞こえなくなるまでじっと盤上の一点だけを見つめていた王后は、やがてふうと疲れきった様子で深い息を吐き出した。それから視線を流し、手にしたままの封筒を見つめ、
ともあれ彼女が手にしたものはただの白紙で、わかっていたが
それから王后は盤上をしばらくじっと見つめると、やがてゆったりとした動作で狼の〈女王〉に指を添えた。
「せっかちな娘に育ったものね」
ぽつりと
「まったく、困ったことに」
嘆いたところで何かが改善するわけでもない。それこそ
神が采配
を振らぬ限りは……。諦めた様子で王后は目を閉じた。
フォルクハルトが生まれるまでの十数年、この国の王位継承権はアウレリアだけのものだった。しかしそんな彼女が王の素質を持たないこともまた当時から自明だったはずだ。あの頃から問題がなかったわけではない。
あれは人として優しすぎる。我が
それもまた王后の悩みの一つだった。過去にはその欠点を別で補おうと様々に画策し、綿密な計画を練ったこともある。娘にグレーデン公を宛てがったことも、そうだ。