9 王弟の憂鬱
文字数 2,355文字
「ダニエル様?」
食卓が整ったのを契機と見たか、タイスが消え入りそうな弱々しい声を出した。その声に驚き、つとダニエルは視線だけを静かに動かした。そこで不安げに自分を見つめるタイスの視線に気付いて、慌てたダニエルは表情を緩めて微笑 んだ。それから机上の紙を重ねて裏返し、溜息を押し殺すと今度は意識的な強さの笑みを浮かべて頷 いてみせる。しかし内心、ダニエルはまだ考え続けていた。
まったく誰であろうか、と。
誰が、いや、
ヴァリースダの話がこれまで、これほどの深刻さをもって北の離宮に届けられたことはない。ダニエルも「そのようないざこざがあった」程度の認識ですでに片の付いたものと思っていた。それがここまで拗 れていることも驚きだったが、そうであればあったで単なる末端が起こしただけの事件ではなかった、ということもすぐにわかる。タイスが知ってもそう思うに違いなかった。そしてきっと彼女は顔を曇らせるのだ。こんな愚かしいことのために敢 えて言葉を音にした。
「大丈夫です」
「……何が、ですか?」
しかし何かを感じているタイスは不審の表情を崩さなかった。思わずダニエルは言い訳をするように、「ただちょっとだけ……」と困惑の表情で言葉を濁してしまい、「ちょっとだけ?」と、タイスの鸚鵡 のような詰問を受け、仰 け反る格好で苦笑した。
仮にゴールの全土を探したとしても、この呪われた存在にまともに向き合ってくれる人間はタイスのほかには現れまい。いつの頃からかダニエルはそう思うようになっていた。過去にダニエルの世話係として宛がわれた女たちは皆だめだった。彼女たちはダニエルの存在を怖がるあまりに必要以上の関わりを持とうとはしてくれなかったのだ。今となっては一人一人の顔も名前もまるで思い出すことはできないというのに、朧 げに浮かぶ記憶がそうダニエルに告げては、嘲笑 う。
しかしタイスは、タイスだけは、違う。
彼女はダニエルを生きた人間として見てくれる。そしてそんなタイスの前でだけは、この呪われた立ち位置をダニエルは忘れることができた。だからこそ思うのだ。
タイスの存在とその人生を何よりも大切にしたい。
己 の事情に巻きこみたくはない。
しかし今のままでは、何かが起こればどうあっても彼女は巻きこまれてしまうに違いなかった。ダニエルにはそれが歯 痒 い。
タイスの感覚はいたって掴 ませてやるべきだ。そう思っていた矢先だったというのに、まさかこんなことになってしまうとは……。
ダニエルは伏せた紙の上に右手を添えた。
国王その人から直々に届いた公式のものはヴァリースダで起きた事件の詳細を伝え、この事態をダニエルにどうにかしてもらいたいと切実な文章で嘆願してきていた。国王が怯 えるあまり、物心ついた時から今に至 るまで変わらずダニエルの顔色を窺 うばかりで威厳の一つも示したことがない。
小心者めと思う。だがそれ以上の感慨は抱くまい。
かつてのマクシミリアンのような豪傑はもう二度とこの血筋から排出されることはないと諦めの気持ちが今では強い。自分が呪われ彼が死んで以降、西ゴールの王家は時を経 るごとに小さく纏 まっていくように見えた。肉体的にも精神的にも、とにかく軟弱なものばかりが次々と産み落とされては驚くほどの早さで死んでいく。
このまま滅ぶのか、この一族 は?
非公式に届いた二枚目の紙のことを思いダニエルは絶望に沈みかけた。だが嘆いても仕方がないのだ。この国にはもはや時間がない。
意を決したダニエルは表情を引き締め、頬杖を突いていた手を顔から離した。
国王からの嘆願を断ることは立場上難しい。たとえそれが嘆願の形であったとしても。だからダニエルはその期待に応えるべく、これから全力で事件の解決に当たらねばならない。もちろん表向きには従順に、真剣に、敬愛する国主のために骨を折る素振りを見せることになる。
しかし大事なのは裏の意図なのだ。
真実は必ず裏に隠すのがこの国の流儀だ。それに気付かず、汲み取れず、対処できない者は恥を晒 して生きていくか、その命を無駄に落とすはめになる。
それがゴールの西に生きるということだ。東とは違う。
古 より〈一つの地〉とされてきたゴールだが、東西の差はあまりに大きい。
この地で二つの民族はまるで異質な文化と風習を見事に共存させてきた。いや、対立させてきた、とした方がまだしも正確なのだろう。そこでは好まれる遊戯一つを取っても大きな違いとして表れてくる。
狐と狼を模した素朴な駒こそが、ゴールの東部で息 衝 く者たちの生き様を如実に物語る。すべてを盤上に展開したがる東の人間は、持ち駒を隠さず正面から挑んでこそ強者だと考える。
対する西の人間は手札 を好んだ。それを敢 えて隠して駆け引きをするように、この国では暗躍し、上手く立ち回った者ほど華々しい栄光を勝ち取っていく。
蓋を開ければ両者に違いはないとしても、この心根の差は確実に大きいとダニエルは感じてきた。もしもこの両者が本気でぶつかった時に勝利を掴むのは果たしてどちらになるのか、それを考え始めると不思議なほどダニエルの気分は高揚する。
「タイス、あなたも彼のことは知っていますよね?」
ダニエルは注 がれる不審な視線をはぐらかそうと話題を変えた。「フォルクハルト・フォン・ツアミューレン……」
「東の〈死神 〉のことですか?」
食卓が整ったのを契機と見たか、タイスが消え入りそうな弱々しい声を出した。その声に驚き、つとダニエルは視線だけを静かに動かした。そこで不安げに自分を見つめるタイスの視線に気付いて、慌てたダニエルは表情を緩めて
まったく誰であろうか、と。
誰が、いや、
どちらが
、これを仕掛けたのか。ヴァリースダの話がこれまで、これほどの深刻さをもって北の離宮に届けられたことはない。ダニエルも「そのようないざこざがあった」程度の認識ですでに片の付いたものと思っていた。それがここまで
か弱い乙女の
タイスに余計な心配をかけさせるのもダニエルには癪だった。そのため「大丈夫です」と、言葉でもタイスを安心させようとダニエルは「大丈夫です」
「……何が、ですか?」
しかし何かを感じているタイスは不審の表情を崩さなかった。思わずダニエルは言い訳をするように、「ただちょっとだけ……」と困惑の表情で言葉を濁してしまい、「ちょっとだけ?」と、タイスの
仮にゴールの全土を探したとしても、この呪われた存在にまともに向き合ってくれる人間はタイスのほかには現れまい。いつの頃からかダニエルはそう思うようになっていた。過去にダニエルの世話係として宛がわれた女たちは皆だめだった。彼女たちはダニエルの存在を怖がるあまりに必要以上の関わりを持とうとはしてくれなかったのだ。今となっては一人一人の顔も名前もまるで思い出すことはできないというのに、
しかしタイスは、タイスだけは、違う。
彼女はダニエルを生きた人間として見てくれる。そしてそんなタイスの前でだけは、この呪われた立ち位置をダニエルは忘れることができた。だからこそ思うのだ。
タイスの存在とその人生を何よりも大切にしたい。
しかし今のままでは、何かが起こればどうあっても彼女は巻きこまれてしまうに違いなかった。ダニエルにはそれが
タイスの感覚はいたって
まとも
だ。いや、それ以上かもしれない。このように無垢な花は早めに呪いの元から切り離し、当然享受すべき彼女自身の幸福をダニエルは伏せた紙の上に右手を添えた。
国王その人から直々に届いた公式のものはヴァリースダで起きた事件の詳細を伝え、この事態をダニエルにどうにかしてもらいたいと切実な文章で嘆願してきていた。国王が
王弟
たるダニエルに嘆願するなど……。あの男はダニエルの存在に小心者めと思う。だがそれ以上の感慨は抱くまい。
かつてのマクシミリアンのような豪傑はもう二度とこの血筋から排出されることはないと諦めの気持ちが今では強い。自分が呪われ彼が死んで以降、西ゴールの王家は時を
このまま滅ぶのか、この
非公式に届いた二枚目の紙のことを思いダニエルは絶望に沈みかけた。だが嘆いても仕方がないのだ。この国にはもはや時間がない。
意を決したダニエルは表情を引き締め、頬杖を突いていた手を顔から離した。
国王からの嘆願を断ることは立場上難しい。たとえそれが嘆願の形であったとしても。だからダニエルはその期待に応えるべく、これから全力で事件の解決に当たらねばならない。もちろん表向きには従順に、真剣に、敬愛する国主のために骨を折る素振りを見せることになる。
しかし大事なのは裏の意図なのだ。
真実は必ず裏に隠すのがこの国の流儀だ。それに気付かず、汲み取れず、対処できない者は恥を
それがゴールの西に生きるということだ。東とは違う。
この地で二つの民族はまるで異質な文化と風習を見事に共存させてきた。いや、対立させてきた、とした方がまだしも正確なのだろう。そこでは好まれる遊戯一つを取っても大きな違いとして表れてくる。
狐と狼を模した素朴な駒こそが、ゴールの東部で
対する西の人間は
蓋を開ければ両者に違いはないとしても、この心根の差は確実に大きいとダニエルは感じてきた。もしもこの両者が本気でぶつかった時に勝利を掴むのは果たしてどちらになるのか、それを考え始めると不思議なほどダニエルの気分は高揚する。
「タイス、あなたも彼のことは知っていますよね?」
ダニエルは
「東の〈