17 色漁り
文字数 2,402文字
……だがしかしと、フォルクハルトは思う。
まだその時ではない。早すぎる。
物事には機運が必要だ。そこを読み間違えばたちどころに流れは滞り傾いていく。仮にこれまでがどれほどうまくいっていたとしても、必ずそうなるものなのだ。
それなのに、一体何が国王をそこまで急がせるのかとフォルクハルトは首を傾 げた。まるで腑に落ちない疑念を胸に抱えてもう一度使者を見つめ、
「確認しますが」と、口を開いた。「隣国に交戦の意志は、ないのではありませんでしたかね?」
これで開戦の口実とするには些 か弱すぎる。
そのような意図を言外に滲 ませると、使者はわずかに身を強張らせて怯 えたように目を泳がせた。そこからしばらくして「罠かもしれないのです」という言葉が飛び出すまでを待ったフォルクハルトは、
……罠?
怪訝な面持ちで再び文 を開き、文面に視線を落として首を捻 った。意味も状況もまったく理解できなかった。西ゴールの示す「誠意」が偽りで、相手側に何らかの不穏な動きがあるとでもいうのだろうか。確かにそれが明らかにできるなら理由付けとして悪くはない。しかし……。
「どのような形にしても国王へい……」
「
相手の言葉を敢 えて遮 り、フォルクハルトは紙面を折りたたみながら穏やかな笑みを浮かべてみせた。誰が見ても非の打ちどころのない、完璧な笑顔だ。フォルクハルト本人に言わせればただの処世術でしかなかった所作で、にもかかわらず宮中において人知れず評判を呼び、アウレリア王女の溺愛を勝ち取るに至 り、最後には自らの曰 くのある眼差しを正面から受け止めた使者はといえば、
「はい」
と、何やら思う様子で躊躇 いがちに肩を窄 めて首肯した。その仕草を漫然と眺めたフォルクハルトは、「そうですか」と、感情の抜け落ちたような声を出して目を伏せた。
「わかりました」
「そ、それは……」と、使者は狼狽 えた。「どのような意味での?」
「『わかりました』は『わかりました』です」
しかし相手の期待に反してフォルクハルトの答えは素っ気なかった。「父上にお伝えください、そのように」
「…………」
不安げな表情のまま辞していく使者を見送り、すぐに自室に引き上げたフォルクハルトは苦々しげに呟いた。「さて、これはどうしたものなんだ?」
厄介なものを持ちこんでくれたと思ったが、降りかかった火の粉であれば自力で払うより仕方ない。
「誠意に領土一つ……無茶すぎる」
使者の言う「罠」を仮に西ゴールが用意しているとしても、彼らにそれをさせたのは東ガリアにほかなるまい。領土をまるまる差し出すというのは酔っ払いの起こした騒動一つに付ける落とし前と考えればあまりに大きすぎるし、西ゴールが妥当な線で早期の幕引きを図ろうとしている気持ちも充分すぎるくらいフォルクハルトには理解できた。中立の立場であれば西側の肩を持ってやりたいくらい、彼らに対する同情を禁じえない。
おそらく拗 れきったこの案件、交渉すべき相手の顔ぶれが変わったと知ればすぐにでも西ゴールは話し合いを振り出しに戻そうとするだろう。しかし仮にそうなったとしても、議論が再び空転するのも目に見えている。
「……ああ、そうか」フォルクハルトは合点して呟いた。「本気ではないのか」
使者の言葉が脳裏に蘇 り、すぐになるほどとフォルクハルトは頷いた。
──罠かもしれないのです。
確かにこれは罠なのだ。フォルクハルトに対しての。
そうなると残念なことに、自分の採るべき道は一つしかなかった。放置。そして事が勝手に解決するか有耶無耶になるのを待てばいい。そのうちにのっぴきならない別の問題が起きてそれどころではなくなるはずだ。
放置でいい。
あっさりとフォルクハルトは結論付けた。どちらにしてもこの手の見え透いた罠にむざむざ嵌 りに行こうとすると、毎度あの小煩い男がしゃしゃり出てきて……。
「……ん?」
そこまで考えてフォルクハルトはふと、我に返った。急いで国王からの命令書をもう一度読み返し、途中からこみ上げる笑いに顔を歪ませた。
そうか、あの男はここにはいない!
オーレンドルフ家の長男は弟の結婚式に出るため、城を離れて王都に向かった。
──何かの間違いかと思いましたが招待状が届きまして……。
憂鬱な顔で顔を顰 めたウドのその様子を思い出しながら、つとフォルクハルトは窓の外を見た。雨は結局降ることを諦めたのか、青空こそまだないが、天を覆い隠す雲は白く明るく変わり始めている。
「いい兆候だ」
呟くと爽快な気分がフォルクハルトを包んだ。憎々しいはずのウドの顔でさえ今なら許してやれるような気分だった。あの男の悪癖に対してさえ感謝を捧げたい。フォルクハルトはいつぞやの事件を思い出しては一人笑いを噛み殺した。
この城で問題を抱えているのは何もフォルクハルトに限った話ではない。
いつも事あるごとに王太子への小言を欠かさないウドもまた大いに問題を抱えこんでいた。あの男は漁色家なのだ。しかし女であれば誰でもいいかというとそうでもないらしく、フォルクハルトの知る限りウドはどうも年増の、戦争未亡人を相手に夜を渡り歩くきらいを持っていた。
「そういうのがちょうどいいんですよ。すでに男を知っていて、金もあって、孤独で、つまり若い男に飢えている。彼女たちは常に火遊びの相手を欲しがっている」
だから自分のような男が擦り寄るだけで驚くほど呆 れて「若い女は?」と問えば、ウドは決まってこう答えたものだった。
「世間知らずのお嬢さん はいけませんな。何かあっては後 が面倒です」
しかしそんなことを放言していた割に、ウドは結局のところ笑い話にしかならないような面倒事を起こして勘当を受けるはめになったのだ。
まだその時ではない。早すぎる。
物事には機運が必要だ。そこを読み間違えばたちどころに流れは滞り傾いていく。仮にこれまでがどれほどうまくいっていたとしても、必ずそうなるものなのだ。
それなのに、一体何が国王をそこまで急がせるのかとフォルクハルトは首を
「確認しますが」と、口を開いた。「隣国に交戦の意志は、ないのではありませんでしたかね?」
これで開戦の口実とするには
そのような意図を言外に
……罠?
怪訝な面持ちで再び
「どのような形にしても国王へい……」
「
すべて私に任せてくださる
というのですね?」相手の言葉を
死にたがり
にまで繋がる皮肉さを持つ。そんな「はい」
と、何やら思う様子で
「わかりました」
「そ、それは……」と、使者は
「『わかりました』は『わかりました』です」
しかし相手の期待に反してフォルクハルトの答えは素っ気なかった。「父上にお伝えください、そのように」
「…………」
不安げな表情のまま辞していく使者を見送り、すぐに自室に引き上げたフォルクハルトは苦々しげに呟いた。「さて、これはどうしたものなんだ?」
厄介なものを持ちこんでくれたと思ったが、降りかかった火の粉であれば自力で払うより仕方ない。
「誠意に領土一つ……無茶すぎる」
使者の言う「罠」を仮に西ゴールが用意しているとしても、彼らにそれをさせたのは東ガリアにほかなるまい。領土をまるまる差し出すというのは酔っ払いの起こした騒動一つに付ける落とし前と考えればあまりに大きすぎるし、西ゴールが妥当な線で早期の幕引きを図ろうとしている気持ちも充分すぎるくらいフォルクハルトには理解できた。中立の立場であれば西側の肩を持ってやりたいくらい、彼らに対する同情を禁じえない。
おそらく
「……ああ、そうか」フォルクハルトは合点して呟いた。「本気ではないのか」
使者の言葉が脳裏に
──罠かもしれないのです。
確かにこれは罠なのだ。フォルクハルトに対しての。
そうなると残念なことに、自分の採るべき道は一つしかなかった。放置。そして事が勝手に解決するか有耶無耶になるのを待てばいい。そのうちにのっぴきならない別の問題が起きてそれどころではなくなるはずだ。
放置でいい。
あっさりとフォルクハルトは結論付けた。どちらにしてもこの手の見え透いた罠にむざむざ
「……ん?」
そこまで考えてフォルクハルトはふと、我に返った。急いで国王からの命令書をもう一度読み返し、途中からこみ上げる笑いに顔を歪ませた。
そうか、あの男はここにはいない!
オーレンドルフ家の長男は弟の結婚式に出るため、城を離れて王都に向かった。
──何かの間違いかと思いましたが招待状が届きまして……。
憂鬱な顔で顔を
「いい兆候だ」
呟くと爽快な気分がフォルクハルトを包んだ。憎々しいはずのウドの顔でさえ今なら許してやれるような気分だった。あの男の悪癖に対してさえ感謝を捧げたい。フォルクハルトはいつぞやの事件を思い出しては一人笑いを噛み殺した。
この城で問題を抱えているのは何もフォルクハルトに限った話ではない。
いつも事あるごとに王太子への小言を欠かさないウドもまた大いに問題を抱えこんでいた。あの男は漁色家なのだ。しかし女であれば誰でもいいかというとそうでもないらしく、フォルクハルトの知る限りウドはどうも年増の、戦争未亡人を相手に夜を渡り歩くきらいを持っていた。
「そういうのがちょうどいいんですよ。すでに男を知っていて、金もあって、孤独で、つまり若い男に飢えている。彼女たちは常に火遊びの相手を欲しがっている」
だから自分のような男が擦り寄るだけで驚くほど
ちやほや
してもらえるのだとウドは言う。フォルクハルトにはまるで理解のできない理屈に、「世間知らずの
しかしそんなことを放言していた割に、ウドは結局のところ笑い話にしかならないような面倒事を起こして勘当を受けるはめになったのだ。