32 駆歩
文字数 2,394文字
とはいえ、国内に蟠 る最近の不満はどちらかといえば……。
「ねえ」と、甘えたようにアウレリアは腕を絡めてグレーデン公に抱きついた。「あの子は、大丈夫ですわね?」
問われたグレーデン公は即答せず、苦々しい気持ちに歯を食いしばった。
ああ、そうだ。だからこそフォルクハルト王子は死を望まれるのだ、実の父親から。もしかしたらグレーデン公自身も心のどこかでは彼の死を本気で望んでいるのかもしれない。
いずれにしてもあの青年の存在はこの国にとって毒でもあり、薬でもある。どちらに転ぶかは転がしてみるまでわからない、とても危険な賭けだ。それゆえに見捨てたい気持ちもあるが、しかしどうにも放っておけない気持ちにもなる。
──人 誑 しなところだけ、憎らしいほど実母に似ておいでだ。
茶化すようにフォルクハルトを評したのはオーレンドルフ伯ではなかったか。彼を相手にすると気疲れで十も二十も老けるようにグレーデン公は感じる。結局のところあの家の結婚話がどこから立った煙か今でもわからないままだが、何 にせよ誰かが何かを画策していることだけは間違いがない。
やれやれ。
二人の女に挟まれ、一人の女に執着され、二つの国の事情に翻弄される青年のことを思い、グレーデン公は再び気の毒な気持ちを覚えて苦笑した。そして不意に思った。
そういえば、王后はフォルクハルトを正式な名で呼んだことがない。一度たりともないはずだ。彼女は常に、誰に対しても、どのような場であれ、王太子のことをこう呼んだ。
──私の 小さなハルト坊や 。
その意図するところはやはり量りがたい。
一体何を望んでいるというのか、我らの 女王 よ。グレーデン公はアウレリアを抱きしめながら天を仰いだ。あなたは一体、あの青年に何を期待しているのだ。死か? 栄光か? それとも……?
「日が暮れる」
グレーデン公はアウレリアの耳元で囁いた。「邸 に戻ろう」
ヴァリースダの件は西ゴールを巻きこんでいる以上、そう簡単に事が片付くはずもない。グレーデン公は思った。彼らは手札を隠す。そして、相手の意表を突いた札を切る。騙し、騙されの手管であれば西ゴールの洗練さはいっそ清々しいほどに、汚い。
「必ずや機先を制して切ってくるはずだ」
グレーデン公は独り言 ちた。
その瞬間だけは、彼は確かにその身を憂慮していた。「翻弄されたその瞬間に負けが決まるぞ、我が義弟 よ」
2
妙な夢から唐突に目覚め、フォルクハルトは横たわったまま深い息を吐き出した。外光を取りこむ部屋の中はすでに明るく、知らず熟睡していたらしいと思わず苦笑が浮かんだ。そして徐 に立ち上がったところで目に飛びこんできた光の眩 しさに目を細め、顔を顰 めた。
それでも目の前の現実は、寸前の夢よりも暗いのだ。
そう思わずにはいられなかった。
夢の中でフォルクハルトはあの廃教会にいた。意識を得た時には違 わぬ美しさに淡く輝き神々しい。その妖艶さに引き寄せられてふらりと一歩を踏み出せば、待ち構えていたように足元の何かがさらりと崩れ落ち、しかしすぐにその何かがふわりと持ち上がるような揺らぎも感じて思わず足が止まる。瞬 きの度 に聖堂の中は徐々に明るく変わり色を得て、壁や椅子から少しずつ朽ちた跡が消えていった。そして時を遡 るように新鮮さを取り戻したその祭壇の前には、一人の騎士が跪 いていた。
天窓から降り注ぐ陽光を頭から浴び、床には長剣 に似た細長い剣、鈍 い光沢を放つ白銀の兜を並べ、惑わす物の何も無い静謐の中で聖母への祈りを捧げる名も知らぬ騎士。フォルクハルトの立つその位置からは後ろ姿しか確認できないが、一つに束ねられた黄金色の髪からして騎士は東ガリア人ではない。
誰であろうか。
フォルクハルトはその正体を確かめようとさらに一歩を踏み出した。
「聖母よ、我が母なるシオよ」
祈りの声が漏れ聞こえたのはその瞬間からだ。高く響くその声は天上の調べか、聞いているだけでフォルクハルトの心までが震えるようだった。
「どうかお救いください」
それにしても珍しいとフォルクハルトは思った。東ガリアでは聖母の名を口にする者は皆無といっていい。生と死の意味を合わせ持つとされるその名は口にすることさえ恐れ多いからだ。しかし西ゴールでは敬虔な者ほど聖母を名で呼ぶ。ではこの騎士は西ゴール人なのか。
考えこむフォルクハルトの前で、騎士は祈りを言葉に乗せ続けた。
「兄マクシミリアンは祖国を統一する者なのです!」
フォルクハルトの心に一つの名前が浮かぶ。しかし次には眠りの外にいた。
──ダニエル・ド・ワロキエ。
言葉にし損ねたその名が澱 となって胸の底に沈み消えていく。こんな夢を見たのも昨日 受けた忠告が印象に残っていたせいだとすぐに思った。
ヴァリースダの一件を片付けるついでにエリスブルグ城主の地位にフォルクハルトは収まっていた。長期戦になることを覚悟して、というよりは、その全責任をフォルクハルトに被せるための布石を敷いた、といった方が正確だろう。西との交渉がまとまるはずもない以上、状況がどう転んだところでフォルクハルトに退路はないということでもある。
問題はその引き継ぎの場でのことだった。
「ロルトワルヌにはダニエル王弟殿下が入城したという噂が流れています」
旧城主からそう言われたフォルクハルトは、
「ダニエル、王弟殿下?」
何 のことかわからず首を傾 げるはめになったのだ。しかもさも自明のことのように「そうです、あの生きた伝説の……」と頷 かれてしまい、問い返す機会も失った。
マクシミリアン大王の弟君です。未 だに死なず生きているとすればそれはもはや神への冒涜でしょうがね。そう苦々しげに呟 く旧城主の言葉を聞きながら、フォルクハルトは眉を顰 めて己 の記憶と知識を弄 った。
「ねえ」と、甘えたようにアウレリアは腕を絡めてグレーデン公に抱きついた。「あの子は、大丈夫ですわね?」
問われたグレーデン公は即答せず、苦々しい気持ちに歯を食いしばった。
ああ、そうだ。だからこそフォルクハルト王子は死を望まれるのだ、実の父親から。もしかしたらグレーデン公自身も心のどこかでは彼の死を本気で望んでいるのかもしれない。
いずれにしてもあの青年の存在はこの国にとって毒でもあり、薬でもある。どちらに転ぶかは転がしてみるまでわからない、とても危険な賭けだ。それゆえに見捨てたい気持ちもあるが、しかしどうにも放っておけない気持ちにもなる。
──
茶化すようにフォルクハルトを評したのはオーレンドルフ伯ではなかったか。彼を相手にすると気疲れで十も二十も老けるようにグレーデン公は感じる。結局のところあの家の結婚話がどこから立った煙か今でもわからないままだが、
やれやれ。
二人の女に挟まれ、一人の女に執着され、二つの国の事情に翻弄される青年のことを思い、グレーデン公は再び気の毒な気持ちを覚えて苦笑した。そして不意に思った。
そういえば、王后はフォルクハルトを正式な名で呼んだことがない。一度たりともないはずだ。彼女は常に、誰に対しても、どのような場であれ、王太子のことをこう呼んだ。
──
その意図するところはやはり量りがたい。
一体何を望んでいるというのか、
「日が暮れる」
グレーデン公はアウレリアの耳元で囁いた。「
ヴァリースダの件は西ゴールを巻きこんでいる以上、そう簡単に事が片付くはずもない。グレーデン公は思った。彼らは手札を隠す。そして、相手の意表を突いた札を切る。騙し、騙されの手管であれば西ゴールの洗練さはいっそ清々しいほどに、汚い。
「必ずや機先を制して切ってくるはずだ」
グレーデン公は独り
その瞬間だけは、彼は確かにその身を憂慮していた。「翻弄されたその瞬間に負けが決まるぞ、我が
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妙な夢から唐突に目覚め、フォルクハルトは横たわったまま深い息を吐き出した。外光を取りこむ部屋の中はすでに明るく、知らず熟睡していたらしいと思わず苦笑が浮かんだ。そして
それでも目の前の現実は、寸前の夢よりも暗いのだ。
そう思わずにはいられなかった。
夢の中でフォルクハルトはあの廃教会にいた。意識を得た時には
ないはずの
扉に背を預け、呆けたように奥の祭壇を見上げて立っていた。月明りを浴びる聖母の像は記憶と天窓から降り注ぐ陽光を頭から浴び、床には
誰であろうか。
フォルクハルトはその正体を確かめようとさらに一歩を踏み出した。
「聖母よ、我が母なるシオよ」
祈りの声が漏れ聞こえたのはその瞬間からだ。高く響くその声は天上の調べか、聞いているだけでフォルクハルトの心までが震えるようだった。
「どうかお救いください」
それにしても珍しいとフォルクハルトは思った。東ガリアでは聖母の名を口にする者は皆無といっていい。生と死の意味を合わせ持つとされるその名は口にすることさえ恐れ多いからだ。しかし西ゴールでは敬虔な者ほど聖母を名で呼ぶ。ではこの騎士は西ゴール人なのか。
考えこむフォルクハルトの前で、騎士は祈りを言葉に乗せ続けた。
「兄マクシミリアンは祖国を統一する者なのです!」
フォルクハルトの心に一つの名前が浮かぶ。しかし次には眠りの外にいた。
──ダニエル・ド・ワロキエ。
言葉にし損ねたその名が
ヴァリースダの一件を片付けるついでにエリスブルグ城主の地位にフォルクハルトは収まっていた。長期戦になることを覚悟して、というよりは、その全責任をフォルクハルトに被せるための布石を敷いた、といった方が正確だろう。西との交渉がまとまるはずもない以上、状況がどう転んだところでフォルクハルトに退路はないということでもある。
問題はその引き継ぎの場でのことだった。
「ロルトワルヌにはダニエル王弟殿下が入城したという噂が流れています」
旧城主からそう言われたフォルクハルトは、
「ダニエル、王弟殿下?」
マクシミリアン大王の弟君です。