10 曙光に跪く
文字数 2,424文字
すかさず答えたタイスは、怪訝な表情で首を傾 けた。
隣国東ガリアの若き王太子フォルクハルト。稀代の名将として西にまでその名が轟いている。その駆け抜けた跡には大量の死体が積み重なるとまで噂され、いつしか人々は〈死神〉の異名で彼を呼ぶようになった。世界の表舞台に彗星のごとく現れ、それまで小国に過ぎなかった東ガリアを一気に大国まで押し上げた功労者だが、しかしそれだけの功績を上げながらも国の外に出たことはなく、肖像画の一つも出回ってくることがない。姿形の見えない謎の多さと相 俟 って、〈死神〉の名があまりにしっくりと填 まる人物だ。
そしてそんな王子の登場で東の地が呆気なく平定された今、次に狙われるのは残りの半分、すなわちこの西ゴールということになる。
ダニエルは伏せた紙の上に再び視線を落としてから、静かに目を閉じた。
かつてこの地に存在したゴール帝国を復活させること。
この地に生きる者たちの悲願にして、次の時代へと人々が進むための一歩になるはずのものだ。ゴールは統一されて初めて聖母のものとなり、聖母の下 で再びの栄華に浴すると人々は信じ、そのように淡い夢を見ながら長い年月 を生きてきた。
「そう、〈死神〉です」
ダニエルは目を開き、俯いたまま答えた。タイスが重ねて問うた。
「それが、どうしたというのです?」
ダニエルはすぐに答えず押し黙った。
もしかしたら我が西ゴールに向けて兵を挙げてくるかもしれないのです、などとこの場で言えばタイスは卒倒するだろうか。ゆくゆくは今の状況も彼のことも語って聞かせねばなるまいが、今はまだ、早い。ダニエルは伏せた書類の上にとんとんと薬指を忙しなく叩きつけ、次なる手を思案した。
今の状況だけを見るなら、どう考えたところで西ゴールの分が悪い。
「でも、逆転の手がないわけでもない」
ダニエルは呟いた。
そのために自分という人間が存在している。自分にもそれくらいの価値はある。いや、ようやくにしてその価値を有効に使える時が来たと思うべきだ。
ダニエルは視線を上げるとタイスを見つめ、「そうそう、ヴァリースダといえば良質の温泉の湧く保養地でしたねえ?」と、一見すると脈絡のない話題を振り、それ以上は何も言わせないとばかりに優雅な笑みを浮かべてみせた。
いずれにしてもヴァリースダには向かわなければならない。
東の〈死神〉もすぐにヴァリースダへとやってくる。
その時あの地で何が起こるか、まあ、まずはゆっくりと温泉にでも浸かってからだとダニエルは思った。この件の始末の結果ダニエルが死ぬにしても、生き残るにしても、いずれにしても方法はこれから考えればいい。だから今は、それ以上のことを深く考えたところで仕方ないとダニエルは敢 えて気楽な気分になろうとした。
しかし、
──見つけなさい。捧 げなさい。そして、終わらせなさい。
あの禍々しい呪いの言葉を思い出してすぐに笑みを引っこめた。
憎らしい! ダニエルの表情が苦悶に歪 む。どうしてこんな時にあの言葉を思い出した。
その理由はダニエル自身にもわからなかった。
捧げる相手? そんな相手は見つかるはずがない。
それでもダニエルは心の半身に向けて厳しく言い放った。
あれから何年経ったと思っている? もう、絶対にそんな相手は見つからない。絶対に、見つかることはない。
ダニエルは不貞腐れた気持ちで天井を仰いだ。そもそも「捧げる」の本当の意味さえ今でもわからないのだ。
もしもそれが「真心」の意味であれば、そんなものとうの昔に捧げ済みだ。兄マクシミリアンをあれほどまでに慕ったダニエルの人生は、そのすべてが彼のために、彼だけのために捧げられてきた。それなのに彼は、
「タイス、明日 にも出発しましょう! だから食事が終わったらすぐに支度をしてください」
二枚の紙を握りつぶすように掴んでダニエルは立ち上がり、そのまま紙を暖炉の火に焼 べた。夏でも涼しいこの地の夜には暖炉の明かりが欠かせない。
「明日 って!」
驚くタイスの声を背に受けながら、ダニエルは暖炉の奥を睨みつける。紙に移った火がじわりと広がり、ゆらりと赤い舌を現すや瞬時に勢いを増した。我が物顔で空間を舐め回す炎の終焉を無言で見届けると、ダニエルは強いて明るい声を出して背後を振り返った。
「簡単な支度で大丈夫です。体さえあれば、とりあえずは何とかなると思います」
そして小さな体に大きな決意を閉じこめた。
国王に残されていた
そうだ。それでいいのだ。ダニエルは頷いた。
私は国にすべてを捧げる。それでいい。国のために残りの命を燃やせるのであれば、もうそれで充分だ。
第二章 ヴァリースダへ
1
いつのことであったか、名前の素朴な疑問を先代に投げかけたことがあった。もちろんイザークとしても真面目な気持ちで問うたわけではなかったし、堅苦しい答えが返ってくることを期待したわけでもない。しかし
──曙光の王の前で真っ先に跪 くってんだあ。誂 え向きの名前じゃねえのかあ?
と、軽く笑い飛ばされてしまった瞬間は柄にもなく気まずくなり、何かを見透かしたような男の眼差しを前に漫 ろな数日を過ごしたものだった。
思い起こせば豪快な男だった。
腐臭の漂う排水路で命の火を消しかけていたイザークをあっさりと拾い上げ、その青い目を見ても「そんなん個性の一つだろおがあ?」と割り切ったことを言う。「この目のせいで俺は死にかけたんだ」とイザークが不貞腐れる度 に、「でもその目のおかげで命拾いしたわけだあ?」と言い返しては、「感謝しなあ。宝石でも浮いてるかと拾ったら残念なことに人間の体が付いていたんだからよお」と、屈託なく笑う。
しかし、そんな男も数年前に呆気なく死んでしまった。傭兵とはそんなものだ。最期は戦場で果てる。その程度の命でしかない。
隣国東ガリアの若き王太子フォルクハルト。稀代の名将として西にまでその名が轟いている。その駆け抜けた跡には大量の死体が積み重なるとまで噂され、いつしか人々は〈死神〉の異名で彼を呼ぶようになった。世界の表舞台に彗星のごとく現れ、それまで小国に過ぎなかった東ガリアを一気に大国まで押し上げた功労者だが、しかしそれだけの功績を上げながらも国の外に出たことはなく、肖像画の一つも出回ってくることがない。姿形の見えない謎の多さと
そしてそんな王子の登場で東の地が呆気なく平定された今、次に狙われるのは残りの半分、すなわちこの西ゴールということになる。
ダニエルは伏せた紙の上に再び視線を落としてから、静かに目を閉じた。
かつてこの地に存在したゴール帝国を復活させること。
この地に生きる者たちの悲願にして、次の時代へと人々が進むための一歩になるはずのものだ。ゴールは統一されて初めて聖母のものとなり、聖母の
「そう、〈死神〉です」
ダニエルは目を開き、俯いたまま答えた。タイスが重ねて問うた。
「それが、どうしたというのです?」
ダニエルはすぐに答えず押し黙った。
もしかしたら我が西ゴールに向けて兵を挙げてくるかもしれないのです、などとこの場で言えばタイスは卒倒するだろうか。ゆくゆくは今の状況も彼のことも語って聞かせねばなるまいが、今はまだ、早い。ダニエルは伏せた書類の上にとんとんと薬指を忙しなく叩きつけ、次なる手を思案した。
今の状況だけを見るなら、どう考えたところで西ゴールの分が悪い。
「でも、逆転の手がないわけでもない」
ダニエルは呟いた。
そのために自分という人間が存在している。自分にもそれくらいの価値はある。いや、ようやくにしてその価値を有効に使える時が来たと思うべきだ。
ダニエルは視線を上げるとタイスを見つめ、「そうそう、ヴァリースダといえば良質の温泉の湧く保養地でしたねえ?」と、一見すると脈絡のない話題を振り、それ以上は何も言わせないとばかりに優雅な笑みを浮かべてみせた。
いずれにしてもヴァリースダには向かわなければならない。
東の〈死神〉もすぐにヴァリースダへとやってくる。
その時あの地で何が起こるか、まあ、まずはゆっくりと温泉にでも浸かってからだとダニエルは思った。この件の始末の結果ダニエルが死ぬにしても、生き残るにしても、いずれにしても方法はこれから考えればいい。だから今は、それ以上のことを深く考えたところで仕方ないとダニエルは
しかし、
──見つけなさい。
あの禍々しい呪いの言葉を思い出してすぐに笑みを引っこめた。
憎らしい! ダニエルの表情が苦悶に
その理由はダニエル自身にもわからなかった。
捧げる相手? そんな相手は見つかるはずがない。
それでもダニエルは心の半身に向けて厳しく言い放った。
あれから何年経ったと思っている? もう、絶対にそんな相手は見つからない。絶対に、見つかることはない。
ダニエルは不貞腐れた気持ちで天井を仰いだ。そもそも「捧げる」の本当の意味さえ今でもわからないのだ。
もしもそれが「真心」の意味であれば、そんなものとうの昔に捧げ済みだ。兄マクシミリアンをあれほどまでに慕ったダニエルの人生は、そのすべてが彼のために、彼だけのために捧げられてきた。それなのに彼は、
あのような結果
になった。「タイス、
二枚の紙を握りつぶすように掴んでダニエルは立ち上がり、そのまま紙を暖炉の火に
「
驚くタイスの声を背に受けながら、ダニエルは暖炉の奥を睨みつける。紙に移った火がじわりと広がり、ゆらりと赤い舌を現すや瞬時に勢いを増した。我が物顔で空間を舐め回す炎の終焉を無言で見届けると、ダニエルは強いて明るい声を出して背後を振り返った。
「簡単な支度で大丈夫です。体さえあれば、とりあえずは何とかなると思います」
そして小さな体に大きな決意を閉じこめた。
国王に残されていた
最後の一人
が倒れた今、「捧げる」の言葉が別の意味を持ち始めていることに気付かぬダニエルではない。そうだ。それでいいのだ。ダニエルは頷いた。
私は国にすべてを捧げる。それでいい。国のために残りの命を燃やせるのであれば、もうそれで充分だ。
第二章 ヴァリースダへ
1
いつのことであったか、名前の素朴な疑問を先代に投げかけたことがあった。もちろんイザークとしても真面目な気持ちで問うたわけではなかったし、堅苦しい答えが返ってくることを期待したわけでもない。しかし
──曙光の王の前で真っ先に
と、軽く笑い飛ばされてしまった瞬間は柄にもなく気まずくなり、何かを見透かしたような男の眼差しを前に
思い起こせば豪快な男だった。
腐臭の漂う排水路で命の火を消しかけていたイザークをあっさりと拾い上げ、その青い目を見ても「そんなん個性の一つだろおがあ?」と割り切ったことを言う。「この目のせいで俺は死にかけたんだ」とイザークが不貞腐れる
しかし、そんな男も数年前に呆気なく死んでしまった。傭兵とはそんなものだ。最期は戦場で果てる。その程度の命でしかない。