28 雨降らす竜
文字数 2,329文字
この状態になったダニエルを止める術 が一つとして存在しないことをタイスは知っていた。結局さしたる抵抗も試みず早々に降参の旗を上げたのだが、しかしまだ髪に鬘 を被 るところまでは良かったのだ。まさか褐色の練りおしろいで肌の色まで塗り隠すとは……。そのような代物 が存在することにもタイスは驚いたし、ダニエルがそうする以上は自分もまたそれに倣 う必要があることに気付き、瞬時に絶望した。
「ええ、問題なんてどこにもありませんタイス。あなたはどこからどう見ても立派な町娘です」
すっかりと町の子供に仕上がったダニエルはタイスの姿を見て微笑んだ。隠しようのなかった青い瞳だけが真実の姿を残して興奮に湧いている。
やれやれ……。
その嬉々とした様子を見てはタイスも覚悟を決めるしかない。
とはいえ、ヴァリースダの町はそれなりに面白い場所であることも確かなのだ。至 るところで温泉の蒸気が白く揺らぎ、湯屋と食事処を併設した店がそこここで客を引く光景が目に留まる。二つの国の事情など知ったことかといわんばかりの賑わいがこの町には広がっていた。
力強い町なのだ。
その騒がしさに身を委ねているうちにタイスの気持ちもいつしか晴れて、気付けば散策の足は軽やかに弾んでいくのだった。
「おや、見てください!」
と、ダニエルが指差した先にあったのは色とりどりの鉱石を扱う店だった。
それでなくても通りの露店には珍妙な郷土品がずらりと並び目を惹いた。タイスたちはそれら一つ一つを眺めながら笑ったり感心したりと店を賑やかし、気付けば選んだ一品 をどちらが言いだすともなく自然と贈り合っていた。町娘に扮した割に無駄遣いが多いなどとは、その時は考えもしなかったのだ。
最後に立ち寄ったその店で「これがいい」とダニエルが選んだ鮮やかな翡翠は、タイスの榛 色の瞳によく似合った。
「後で指輪か何かに加工してもらいましょう」
貴族の買い物にしては質も悪く安物ではあったが、ダニエルがくれたものであれば何であれタイスは嬉しかった。どちらにしても石はやがてダニエルの手に還 る。そしてその石を眺め、ダニエルがほんの少しでも自分のことを思い出してくれればこれほどの幸せはない。
──老いぬ肉体 。滅びぬ精神 。
ダニエル自身はそれを呪いと呼ぶが、タイスはそれこそが神の奇跡だと信じていた。しかしいずれにしてもその代償か、ダニエルの記憶には時折霞 がかかるらしいのだ。実兄の名と業績を思い出せても、一つ前の国王の名でさえ言えないことがダニエルには多い。
同じようにしていずれ私 も忘れ去られることになるのだろう。それでも私はこの人の手を握りながら死ぬことができる。西ゴールの英雄マクシミリアンと同じように、代々の侍女たちがそうであったように、この方は必ずや私の死を見届けてくれる。そしていつの日か、タイスと名乗った侍女の存在を忘れ、何かのきっかけである時不意に思い出すのだ。それだけで私は充分に満足だ。
「都とはまた雰囲気が違いますが、なかなかに活況ですね」
街の様子を見て何気なく呟いてから、北の離宮に閉じこもるダニエルが今の王都の様子を知っているはずがなかったと気付きタイスは慌てた。しかしそこでどんな言葉を重ねても失礼が重なりそうで口を噤 んでしまった。ダニエルはタイスの気持ちがわかっているのかどうか、慈愛に満ちた微笑みでタイスを見返しただけだった。
沈黙するほどに街の喧騒は際立った。
こうして見渡すだけでも、一つの川を挟み国が二分するヴァリースダは一つの町として健全に機能していることがよくわかる。橋を渡れば国が変わるが、渡るに際して誰何 を受けることも基本はない。もちろん町の外に出ようとすればそれなりの調べを受けるだろうが、実をいえば抜け道がないこともないというおざなりさなのだ。
「それでも警備は厳重なようですね?」
そっと耳打ちをしてくるダニエルに頷き返し、タイスは橋を渡った。そこから先はエリスブルグ区、隣国だ。途端に目立ち始めた警備兵の姿に眉を顰 めたが、おそらくこの光景も
東ガリアの王太子が今日にもエリスブルグの城塞に入るという情報もタイスたちの耳に届いていた。それも警備が物々しい理由の一つなのかもしれないが、それはともあれ、
「……いいんですか?」
不安を覚えてタイスは顔を曇らせた。「町歩きをするにもロルトワルヌ区に留まっていた方が……。それとも、まさか
「まさか!」タイスの心配を打ち消すようにダニエルは朗らかに笑った。「私たちは遊びに来ただけですよ、タイス」
そして一つの店の前で立ち止まり、興味深げにその看板を覗きこんだ。タイスもその視線を追いかけ「ああ」と小さくな反応を示す。板に描かれた一頭の豚が示すのは蒸し豚で、それがこの町で長年愛されてきた料理であることはタイスも知っていた。
ダニエルは革袋の硬貨を確認し、肩を落として呟いた。「もう少し持ってくるべきでしたね」
蒸し豚は庶民の料理だが、子豚一頭をまるまる使うという贅沢さのため本来的には慶事にのみ供される特別で高価なものなのだ。それが旅人を相手にするとなればさらに値が吊り上がるのもよくある話で、タイスの持ち合わせを入れても僅 かに手が届かない。
ここに来るまでに使いすぎた。いつもの感覚でいると、これだ。
「仕方ありません。私たちは兎で充分ですよ」
タイス自身も残念な気持ちになって品書きの隅を示したが、ダニエルも心底残念そうな顔でタイスを見上げて唇を噛んだ。しかし、無理なものは無理としかいいようがない。
「ええ、そうですね」
やがてダニエルは諦めたように頷き、微笑んだ。
「ええ、問題なんてどこにもありませんタイス。あなたはどこからどう見ても立派な町娘です」
すっかりと町の子供に仕上がったダニエルはタイスの姿を見て微笑んだ。隠しようのなかった青い瞳だけが真実の姿を残して興奮に湧いている。
やれやれ……。
その嬉々とした様子を見てはタイスも覚悟を決めるしかない。
とはいえ、ヴァリースダの町はそれなりに面白い場所であることも確かなのだ。
力強い町なのだ。
その騒がしさに身を委ねているうちにタイスの気持ちもいつしか晴れて、気付けば散策の足は軽やかに弾んでいくのだった。
「おや、見てください!」
と、ダニエルが指差した先にあったのは色とりどりの鉱石を扱う店だった。
それでなくても通りの露店には珍妙な郷土品がずらりと並び目を惹いた。タイスたちはそれら一つ一つを眺めながら笑ったり感心したりと店を賑やかし、気付けば選んだ
最後に立ち寄ったその店で「これがいい」とダニエルが選んだ鮮やかな翡翠は、タイスの
「後で指輪か何かに加工してもらいましょう」
貴族の買い物にしては質も悪く安物ではあったが、ダニエルがくれたものであれば何であれタイスは嬉しかった。どちらにしても石はやがてダニエルの手に
──老いぬ
ダニエル自身はそれを呪いと呼ぶが、タイスはそれこそが神の奇跡だと信じていた。しかしいずれにしてもその代償か、ダニエルの記憶には時折
同じようにしていずれ
「都とはまた雰囲気が違いますが、なかなかに活況ですね」
街の様子を見て何気なく呟いてから、北の離宮に閉じこもるダニエルが今の王都の様子を知っているはずがなかったと気付きタイスは慌てた。しかしそこでどんな言葉を重ねても失礼が重なりそうで口を
沈黙するほどに街の喧騒は際立った。
こうして見渡すだけでも、一つの川を挟み国が二分するヴァリースダは一つの町として健全に機能していることがよくわかる。橋を渡れば国が変わるが、渡るに際して
「それでも警備は厳重なようですね?」
そっと耳打ちをしてくるダニエルに頷き返し、タイスは橋を渡った。そこから先はエリスブルグ区、隣国だ。途端に目立ち始めた警備兵の姿に眉を
あの事件を
受けての処置なのだろうとすぐに思った。東ガリアの王太子が今日にもエリスブルグの城塞に入るという情報もタイスたちの耳に届いていた。それも警備が物々しい理由の一つなのかもしれないが、それはともあれ、
「……いいんですか?」
不安を覚えてタイスは顔を曇らせた。「町歩きをするにもロルトワルヌ区に留まっていた方が……。それとも、まさか
あの現場
をご覧になろうとでも?」「まさか!」タイスの心配を打ち消すようにダニエルは朗らかに笑った。「私たちは遊びに来ただけですよ、タイス」
そして一つの店の前で立ち止まり、興味深げにその看板を覗きこんだ。タイスもその視線を追いかけ「ああ」と小さくな反応を示す。板に描かれた一頭の豚が示すのは蒸し豚で、それがこの町で長年愛されてきた料理であることはタイスも知っていた。
ダニエルは革袋の硬貨を確認し、肩を落として呟いた。「もう少し持ってくるべきでしたね」
蒸し豚は庶民の料理だが、子豚一頭をまるまる使うという贅沢さのため本来的には慶事にのみ供される特別で高価なものなのだ。それが旅人を相手にするとなればさらに値が吊り上がるのもよくある話で、タイスの持ち合わせを入れても
ここに来るまでに使いすぎた。いつもの感覚でいると、これだ。
「仕方ありません。私たちは兎で充分ですよ」
タイス自身も残念な気持ちになって品書きの隅を示したが、ダニエルも心底残念そうな顔でタイスを見上げて唇を噛んだ。しかし、無理なものは無理としかいいようがない。
「ええ、そうですね」
やがてダニエルは諦めたように頷き、微笑んだ。