23 2つの噂
文字数 2,447文字
しかし問いの何が意外だったか、イザークは怪訝な顔をウドに向けた。「そりゃあ、わざとかあ?」
「…………」
ウドは再び沈黙し、思案した。
時にはウドやフォルクハルトでさえ知りえない政治の裏事情に通じたこの男が今のこの瞬間に何を知り、何に気付いているのかを明らかにしたい思いはウドにもあった。しかしこの男の情報に頼ることは常に危険を伴うことになる。強いて突 くべきか、流すべきか、判断が難しい。
いっそこの男が西ゴールの間者とわかれば簡単なのにと何度思ったことだろうか。
そうであれば今すぐにでもこの男を斬り捨てることができる。だが、これまでのイザークの守備は鉄壁で襤褸 が出る気配はない。
「ああ、まったくさあ」
ウドの沈黙を前にイザークは困惑したような顔で両手を上に向けた。「俺、どうもあんたには嫌われてんだよねえ」
「…………」
「参ったねえ。これでも俺 ぁ、あのお坊ちゃんのことは結構気に入ってんのにさあ」
茶化すようにそう言うと、イザークはウドから迸 る敵意の視線をさらりと流して片眉を吊り上げた。
またしても挑発してきたのだ。しかしウドは堪 えた。するとイザークは次に苦笑を浮かべ、口調を改めた。
「それはそうと、面白い情報がある」聞く耳は持ってるか?
「情報だと?」
「あんたは絶対に戻ってくると思っていたさ。ヴァリースダで起きた惨劇の後始末を誰がするかって話、知ってるからこんなに急いで戻ってきたんだろ?」
「…………」
なるほど、とウドは頷いた。そこまでなら話題にしていいわけだ。「つまりフォルクハルト様は、すでに城を出て行ったということだな?」
「ふふ、外れてほしかったろうが想定通りでもあるんじゃねえの? もう数日あればエリスブルグ砦に入るだろう」
「……誰も、止めなかったのか?」
「どの権限であのお坊ちゃんを止められた? そもそも王命を覆すなんざ狂気の沙汰だ。無視するにしてもあのお坊ちゃんにしかできねえ業 だしな」
「…………」
苦虫を噛み潰したように顔を顰 めるウドに合わせるように、イザークの顔からも笑いが引いた。
「傭兵は誰も連れて行かなかった。正規軍のお伴も少数で副官以下、みいんな居残りだ」
「どういう意味だ?」
「戦力になりそうなものは何も持って行かなかった」
「それは王太子の、戦争を引き起こすつもりがないという意志表示なのか?」
「その意味、わかるだろ?」
「ほう、話し合いで解決できる気でいるとでも? めでたいことに」
「ああ、やめろや!」
わざとはぐらかしたウドに向かって苛立たし気にイザークは眉尻を上げた。「今は俺ら、腹の探り合いをしている時じゃねぇだろうが、あ?」
しかしウドは答えず黙った。またしばらくの沈黙が続いたが、「だからさあ」と、根負けしたようにイザークが首を振った。「ここいらで俺ら一回……停戦といかねえか?」
「……停戦?」
「言い方悪かったなら言い直す。今は黙って俺の手を取れ」
「…………」
意味を判じかねたウドが怪訝な表情を向けると、イザークはそのままの表情で眉根を寄せた。
「副官のおっさんはものすごくお怒りだ。あたりまえだろ? あのお坊ちゃんの考えは丸見えだ。しかし面と向かって規律は違反できない。あんたらの国の軍律はやたらと細かく煩 えかんな。主将の決定を覆すには副に付いた二人の総意が要るが、その片翼であるあんたは大事な時に城にいねえときたもんだ」
だからあのおっさんは規律を犯すことにした。
「どういうことだ」
「数日遅らせて隊列を動かしたってことだよ。俺の部下もついてった」
「…………」
ウドは顔を曇らせた。それが吉と出るか凶と出るか、咄嗟には判断が付かなかったのだ。イザークは続けた。
「俺だってあのお坊ちゃんにゃ死なれちゃ困ると思ってる。これは嘘偽りのない本音だ、ご貴族様」
「つまり、なんだ?」と、晴れない表情のままウドは首を振った。「みんな揃 ってあの青年がわざわざヴァリースダまで命を捨てに行ったと、つまりはそう思うわけなんだな?」
「死なせたくねえってのも、軍内の意見なんだろ?」
「…………」
ある程度はな。
思わず出しかけた言葉をウドは飲みこんだ。現在の軍内が王后派、王妃派、中庸派に大きく分かれていることは王都の貴族たちの有り様 と何 ら変わるところはない。派閥によってはフォルクハルトの死を本気で望んでいるのだが、その話を殊更 持ち出さずともイザークは理解しているはずだ。
猫は危険に近付かない。国内の権力闘争には知らぬ存ぜぬを貫き目を瞑 るが、旗色が悪ければさっと身を翻 さんと耳だけは常に欹 てている。
「あの人が動いたのか」
誰に聞かせるともなくウドは呟いた。
ウド自身をフォルクハルトの件に巻きこんだ直接の当事者こそがあの副官だ。王太子の危うさを憂 い、彼が玉座に座るまで何としてでも生かしておかねばとあの男だけは本気で考えている。そんな男が大っぴらに動いたとなれば、さて……。
思案に耽りかけたウドはその瞬間にはっと我に返った。
「なんだ?」
イザークから不意に投げつけられた革袋を握り唸ると、対するイザークは不遜な態度を見せて言った。
「気をつけろよ。この件、西の思惑も絡むし一筋縄ではいかねえぞ」
「この袋は?」
中身を検 めようと視線を落としたウドに向け、「話を最後まで聞け」とイザークの叱責が飛ぶ。
「ダニエル王弟殿下の噂は?」
「噂程度には」
奇跡を授かった王弟の話ならウドも知らぬではない。しかし、と怪訝な気持ちになったところでイザークが答えた。「その噂が表に出てきた」
「…………」
「あの国の西の端が不穏なことになってきているのは?」
「……噂程度には」
ウドは言葉少なにイザークの表情を窺った。何が言いたいのだ。西ゴールの隣国は長らく支配層と被支配層とで民族も宗教も異なる歪 な状態を続けてきたが、ここにきて被支配層による独立の機運が高まり国内が大いに乱れている。今や西ゴールの国境地域は土地を追われた移民が流れこみ統制が利かず、そのことで日夜あの国は頭を悩ませているはずだ。
「…………」
ウドは再び沈黙し、思案した。
時にはウドやフォルクハルトでさえ知りえない政治の裏事情に通じたこの男が今のこの瞬間に何を知り、何に気付いているのかを明らかにしたい思いはウドにもあった。しかしこの男の情報に頼ることは常に危険を伴うことになる。強いて
いっそこの男が西ゴールの間者とわかれば簡単なのにと何度思ったことだろうか。
そうであれば今すぐにでもこの男を斬り捨てることができる。だが、これまでのイザークの守備は鉄壁で
「ああ、まったくさあ」
ウドの沈黙を前にイザークは困惑したような顔で両手を上に向けた。「俺、どうもあんたには嫌われてんだよねえ」
「…………」
「参ったねえ。これでも
茶化すようにそう言うと、イザークはウドから
またしても挑発してきたのだ。しかしウドは
「それはそうと、面白い情報がある」聞く耳は持ってるか?
「情報だと?」
「あんたは絶対に戻ってくると思っていたさ。ヴァリースダで起きた惨劇の後始末を誰がするかって話、知ってるからこんなに急いで戻ってきたんだろ?」
「…………」
なるほど、とウドは頷いた。そこまでなら話題にしていいわけだ。「つまりフォルクハルト様は、すでに城を出て行ったということだな?」
「ふふ、外れてほしかったろうが想定通りでもあるんじゃねえの? もう数日あればエリスブルグ砦に入るだろう」
「……誰も、止めなかったのか?」
「どの権限であのお坊ちゃんを止められた? そもそも王命を覆すなんざ狂気の沙汰だ。無視するにしてもあのお坊ちゃんにしかできねえ
「…………」
苦虫を噛み潰したように顔を
「傭兵は誰も連れて行かなかった。正規軍のお伴も少数で副官以下、みいんな居残りだ」
「どういう意味だ?」
「戦力になりそうなものは何も持って行かなかった」
「それは王太子の、戦争を引き起こすつもりがないという意志表示なのか?」
「その意味、わかるだろ?」
「ほう、話し合いで解決できる気でいるとでも? めでたいことに」
「ああ、やめろや!」
わざとはぐらかしたウドに向かって苛立たし気にイザークは眉尻を上げた。「今は俺ら、腹の探り合いをしている時じゃねぇだろうが、あ?」
しかしウドは答えず黙った。またしばらくの沈黙が続いたが、「だからさあ」と、根負けしたようにイザークが首を振った。「ここいらで俺ら一回……停戦といかねえか?」
「……停戦?」
「言い方悪かったなら言い直す。今は黙って俺の手を取れ」
「…………」
意味を判じかねたウドが怪訝な表情を向けると、イザークはそのままの表情で眉根を寄せた。
「副官のおっさんはものすごくお怒りだ。あたりまえだろ? あのお坊ちゃんの考えは丸見えだ。しかし面と向かって規律は違反できない。あんたらの国の軍律はやたらと細かく
だからあのおっさんは規律を犯すことにした。
「どういうことだ」
「数日遅らせて隊列を動かしたってことだよ。俺の部下もついてった」
「…………」
ウドは顔を曇らせた。それが吉と出るか凶と出るか、咄嗟には判断が付かなかったのだ。イザークは続けた。
「俺だってあのお坊ちゃんにゃ死なれちゃ困ると思ってる。これは嘘偽りのない本音だ、ご貴族様」
「つまり、なんだ?」と、晴れない表情のままウドは首を振った。「みんな
「死なせたくねえってのも、軍内の意見なんだろ?」
「…………」
ある程度はな。
思わず出しかけた言葉をウドは飲みこんだ。現在の軍内が王后派、王妃派、中庸派に大きく分かれていることは王都の貴族たちの有り
猫は危険に近付かない。国内の権力闘争には知らぬ存ぜぬを貫き目を
「あの人が動いたのか」
誰に聞かせるともなくウドは呟いた。
ウド自身をフォルクハルトの件に巻きこんだ直接の当事者こそがあの副官だ。王太子の危うさを
思案に耽りかけたウドはその瞬間にはっと我に返った。
「なんだ?」
イザークから不意に投げつけられた革袋を握り唸ると、対するイザークは不遜な態度を見せて言った。
「気をつけろよ。この件、西の思惑も絡むし一筋縄ではいかねえぞ」
「この袋は?」
中身を
「ダニエル王弟殿下の噂は?」
「噂程度には」
奇跡を授かった王弟の話ならウドも知らぬではない。しかし、と怪訝な気持ちになったところでイザークが答えた。「その噂が表に出てきた」
「…………」
「あの国の西の端が不穏なことになってきているのは?」
「……噂程度には」
ウドは言葉少なにイザークの表情を窺った。何が言いたいのだ。西ゴールの隣国は長らく支配層と被支配層とで民族も宗教も異なる