5 王子の憂鬱
文字数 2,356文字
知力、胆力に秀で、政経に明るいグレーデン公であれば王配として何ら申し分はないと王后は踏んでいたのだ。ただし堅物すぎるあの男に文化や芸術を理解させることは難しい。もちろんそこはアウレリアの領分だ。そういうことも含めてすべて計算の内だった。これまでの王后は慎重に配慮を巡らせ、将来のあるべき形を着々と作り上げてきた。これでひとまずは安泰のはずだった。
あの王子、フォルクハルトが生まれるまでは。
おかげであらゆるすべての考慮が台無しになった。面白いほどに。
王后は記憶と思いを辿 りながら苦悶の表情を顔に浮かべた。
なぜ容易 く第一の王位継承権を手に入れたのだ。
男子であるという、ただそれだけの理由で。
女子であるという、それだけの理由でアウレリアの王位継承順位は下に落とされた。
「最後は誰が笑う?」
王后は狼の〈女王〉から指を離し、向き合う二つの駒を睥睨した。
アウレリアがこれを見て何を思ったかまでの興味は王后にはなかった。しかし二つの駒の意味はいかようにでも解釈できるだろう。好きなだけ、好きなように解釈ができることもまた物事の妙味といえる。
「どちらでもいい」
王后は吐き捨てるように呟いた。
どのように解釈してもいい。そしてどの解釈が正解であったとしても大した違いはない。
今の彼女に言えることは一つだけだった。
黙っているだけが女ではない。
それは〈狐と狼〉が突き付ける真実の一面でもある。黙っているだけが女の生き方ではない。
「女は弱い」
王后は窓の外を見つめ、泰然と独 り言 ちた。「しかし、弱いだけでは終わらない」
視線を脇にずらしたところで一枚の絵画が目に止まる。
聖母の肖像画だ。
その麗 しき神は山の頂 に腰を下ろし、恍惚の表情を浮かべてどこをも知れぬ一点を見つめていた。天に向けて伸ばされた右腕には相克の鳥を乗せ、対する左手は足元で蹲 る予言の猫を指し示す。
この鳥も猫も矛盾の象徴なのだと、昔から王后はそう思っていた。そのいずれもが、本来的には聖母にとって好まれざる存在ではないか。
「それでも包容すべきと、わかっていても実践するのはなかなか難しいものよね」
呟きながら王后は大きく息を吐き出した。
相克の鳥は炎を自在にする神獣だ。大樹の化身である聖母にとってそれは天敵にも等しい。しかし聖母はその鳥を許容し、自らの腕で休ませしかと飼い馴らす。
予言の猫は揺らぎの中で目覚めて世界の「終わり」を告げ、「次」の始まりを歌い導く道 標 だ。告げられる「終わり」についてはこれまでにも様々な解釈がなされてきたが、現在の教義の主流派はそれを聖母による直截的な統治の時代を示すとし、その後に始まった「次」の時代こそが現代に続く人の時代であると説く。つまりは己 を否定するものと知りながら、聖母はそれでも猫を目覚めさせ送り出そうとするわけだ。それが母の役割で、母とはそのようなものであれと、聖母はその身をもって人の子に模範を示そうとする。
私の姿は聖母の目にどう映るかしらね。
皮肉に思いながら王后は視線を流し、再び盤上を見つめた。その駒の配置を前にするだけで自然と憫笑が浮かんでは、消える。
いずれにせよこの世界の神は女だ。
王后は思った。
男たちはそれを忘れてしまったのかもしれない。しかしどれほど彼らがその事実を忘れようとも、目を背けようとも、女の強 かさは確かにそこに、神のその中に燦然と輝いている。
新しい風が吹くのだ。王后はそれを確かに感じた。
いよいよ動くのだろう。その結果がどうなるかは聡明な彼女にもわからなかった。しかしこれから、何かが起こる。それだけは確かだ。
勝ち誇った笑みを浮かべて優雅に立ち上がり、王后は狐の〈王〉を取り上げ握りしめた。そして静かに呟いた。
──さあ、それであなたはどうするの、私の 小さなハルト坊や ?
2
三日だ。
「しばらく、留守にします」
ウドがその言葉を口にするまでにかかった日数だ。いや、この不遜な男がその決意に至るまでに水面下で費やした実際の日数までは流石 にわからない。
しかし少なからずフォルクハルトがこの事態を把握したのは二日前であり、「
ウド、イザークの二人には間の悪い重なりが殊 に多く、どちらかの不機嫌が間髪入れずに相手に伝染することもまた日常の風景と化したこの頃だ。そして必ずといっていいほどその迸 りをフォルクハルトが最後に食らうはめになる。
「二人で勝手にやっていればいいものを」
毎度のようにフォルクハルトはうんざりとしていたが、二人が剣呑であればあるほど他 がまともになっていくのも事実に違いなく、これはもう必要悪だと近頃のフォルクハルトは達観し、割り切ってもいた。
そのためウドとイザークとの間にどんな揉め事が起ころうが興味もなく、承知する気もなく、当然その仲を取り成す気も最初からフォルクハルトにはなかった。結果いつも通りの自然体で無視を決めこんでいたところに、今度は一通の招待状が王都から舞いこんだ。これが二日前。ここにきてようやく、「なるほど、昨日のあれはそういうことか」と、フォルクハルトにも合点がいったというわけだった。
しかし問題なのはその招待状だ。
あの王子、フォルクハルトが生まれるまでは。
おかげであらゆるすべての考慮が台無しになった。面白いほどに。
王后は記憶と思いを
なぜ
あの女
から彼のような逸材が生まれたのかを考えると、王后は今でも不思議な気持ちになる自分を抑えきれない。何かの間違いではないかと今でも思うことがある。しかし現実にフォルクハルトは生きて存在するし、いとも男子であるという、ただそれだけの理由で。
女子であるという、それだけの理由でアウレリアの王位継承順位は下に落とされた。
「最後は誰が笑う?」
王后は狼の〈女王〉から指を離し、向き合う二つの駒を睥睨した。
アウレリアがこれを見て何を思ったかまでの興味は王后にはなかった。しかし二つの駒の意味はいかようにでも解釈できるだろう。好きなだけ、好きなように解釈ができることもまた物事の妙味といえる。
「どちらでもいい」
王后は吐き捨てるように呟いた。
どのように解釈してもいい。そしてどの解釈が正解であったとしても大した違いはない。
今の彼女に言えることは一つだけだった。
黙っているだけが女ではない。
それは〈狐と狼〉が突き付ける真実の一面でもある。黙っているだけが女の生き方ではない。
「女は弱い」
王后は窓の外を見つめ、泰然と
視線を脇にずらしたところで一枚の絵画が目に止まる。
聖母の肖像画だ。
その
この鳥も猫も矛盾の象徴なのだと、昔から王后はそう思っていた。そのいずれもが、本来的には聖母にとって好まれざる存在ではないか。
「それでも包容すべきと、わかっていても実践するのはなかなか難しいものよね」
呟きながら王后は大きく息を吐き出した。
相克の鳥は炎を自在にする神獣だ。大樹の化身である聖母にとってそれは天敵にも等しい。しかし聖母はその鳥を許容し、自らの腕で休ませしかと飼い馴らす。
予言の猫は揺らぎの中で目覚めて世界の「終わり」を告げ、「次」の始まりを歌い導く
私の姿は聖母の目にどう映るかしらね。
皮肉に思いながら王后は視線を流し、再び盤上を見つめた。その駒の配置を前にするだけで自然と憫笑が浮かんでは、消える。
いずれにせよこの世界の神は女だ。
王后は思った。
男たちはそれを忘れてしまったのかもしれない。しかしどれほど彼らがその事実を忘れようとも、目を背けようとも、女の
新しい風が吹くのだ。王后はそれを確かに感じた。
いよいよ動くのだろう。その結果がどうなるかは聡明な彼女にもわからなかった。しかしこれから、何かが起こる。それだけは確かだ。
勝ち誇った笑みを浮かべて優雅に立ち上がり、王后は狐の〈王〉を取り上げ握りしめた。そして静かに呟いた。
──さあ、それであなたはどうするの、
2
三日だ。
「しばらく、留守にします」
ウドがその言葉を口にするまでにかかった日数だ。いや、この不遜な男がその決意に至るまでに水面下で費やした実際の日数までは
しかし少なからずフォルクハルトがこの事態を把握したのは二日前であり、「
あのご貴族様
の手綱は握っとけって言ってるだろが!」と、イザークに怒鳴り散らされたのが三日前。「いくらなんでもあのような物言いは! あなた様はあのような下賤の者をいつまで甘やかすのですか!」と、例によって例のごとくの余計な外野の進言に「やれやれまたか……」と嘆息を漏らしたのがつまり、三日前のことだった。ウド、イザークの二人には間の悪い重なりが
「二人で勝手にやっていればいいものを」
毎度のようにフォルクハルトはうんざりとしていたが、二人が剣呑であればあるほど
そのためウドとイザークとの間にどんな揉め事が起ころうが興味もなく、承知する気もなく、当然その仲を取り成す気も最初からフォルクハルトにはなかった。結果いつも通りの自然体で無視を決めこんでいたところに、今度は一通の招待状が王都から舞いこんだ。これが二日前。ここにきてようやく、「なるほど、昨日のあれはそういうことか」と、フォルクハルトにも合点がいったというわけだった。
しかし問題なのはその招待状だ。