45 兄弟殺し
文字数 2,389文字
「もっともあの頃は、自分が親から疎まれているなんて思いもしなかったわけだが?」
自嘲すると不思議なくらい気分が和らいだ。
やはり宛名はグレーデン公にしておこうかと、そんな逃げの気持ちがフォルクハルトを唆 した。しかしこれは身内の問題で、すでに西ゴールを巻きこんではいても、自分と国王との蟠 りに姉婿まで巻きこみ関係者を不必要に増やすのもおかしな話だと自らを戒 めた。しかし国王への文は正直、書きたくないのだ。王后に宛てるのはさらに嫌だ。……と、そんな風に気持ちの方が堂々巡りを続けていることに気付くとフォルクハルトは苦笑した。
「どうせ何を書いても結果は同じだというのに……」
いずれにしても希薄な親子関係だ。
フォルクハルトが生まれる前からその男は一国の主 で、自分の手の及ばない遠い世界で生きる存在だった。抱いてもらった覚えもなければ遊んでもらった記憶もない。妹たちには与えられた玩具でさえ自分には何一つなく、たまの面会があっても形式的な挨拶を交わすだけの間柄でしかなかった。父親としての立場で声を掛けてもらったことなどあっただろうか。親子と言えるような関係であったことなど一度たりとも、いや、一瞬たりともなかったではないか。
それなのに、どうして自分は先刻から紙に文字を書いては捨て、書いては捨てを繰り返しているのか、フォルクハルトは自分のこの動揺が理解できなかった。いや、理解などしたくもなかったのだ。疎まれていることがわかっていてもなお自分をより良く見せたい、あの男の関心を自分に向けたいという子供のような渇望が己 の中には確かに存在し、それが突きつける心の弱さを前に憮然とした気分だった。
そしてふと、自分の両手を見た。
「柔らかかったな」
ダニエルを抱えた時の感触を思い出しつつ呟いた。
なんといっても子供の体だ。筋肉の発達が途上であることはわかっているつもりだった。しかしあの柔らかさはなんというか、おかしい。
おかしいと思った瞬間に気持ちが飛び跳ね我に返り、フォルクハルトは慌てて両の掌 を机に叩きつけた。肘まで響く痛みに思わず唸 り、
「おかしいのはこの感情だぞ!」
と吐き捨てたが、しかし巻き上がった妄想は止めようがない。
あの青く透き通る瞳。
あれに見つめられるとどうにも漫 ろな気分になる。フォルクハルトがこれまで必死に隠してきたはずの心の裡 のすべてを見透かされているような感覚だ。ダニエルが王弟として本物であれ、偽物であれ、あの瞳には確かな真実と得体のしれない力が宿っているようにフォルクハルトには見えたのだ。欲しい。
「やめろ!」
必死な面持ちで理性が崩壊するのを食い縛り、立ち上がった。窓の外を見ればすでに日が暮れかけている。
唖然として机に目をやった。まだ一文字も書けていない!
自分の無能ぶりにも愕然としたフォルクハルトだが、次にはそれ以上に差し迫った問題があると気付いて狼狽 えた。
食事だ。
まずい。このままでは一緒に食すことになる。
「冗談じゃない!」
フォルクハルトは落ち着きなく部屋の中を歩き回ったが、しかしそんなことで問題が解決するはずもなかった。結局無策のまま頭を掻きむしったところで
「風呂か」
湯の中に身を沈め、とにかく気持ちを落ち着けようと考えた。面倒事に取り掛かるのはそれからでも遅くはないと、要するに考えることを先伸ばしたのだ。戦場では常に先手先手を打って勝ち進んできたのは幻かと思うほど、馬を降りたフォルクハルトにはこのように至らぬ点が多かった。それも本人だけは隠し通せているつもりで外にはすべて筒抜けという二重の至らなさだからどうしようもない。
いや、フォルクハルトのこうした人間らしい虚 仮 にできるのはウドをおいてほかにいないのだ。
ともあれ、風呂だ。フォルクハルトは急ぎ部屋を出た。
エリスブルグ砦には、ヴァリースダの源泉から湯を引いた二つの浴場が備わっている。
一つは誰にでも解放されている大浴場で、主に鍛錬を終えた兵士たちが一日の汚れを落とすのに使っていた。控えめにいっても、汚い。が、昨夜のフォルクハルトはそちらを好んで使った。そこ以外を使うつもりもなかったのだが、どうにも一人になりたい気分ともなればそうも言っていられない。意を決し、城主用に設 えた専用の浴場に向かった。
その場所に気乗りしないのは歴史的な背景が気に入らないからだろう。
かつてのエリスブルグ公国では君主の湯 浴 みは臣下に広く公開され、それこそ脱ぐところから湯に浸かるに至るまで逐一衆目に晒 すべきものだった。それはさらに時代を遡 ればヴァリースダに行幸したガリア皇帝の作法でもあったということで、そのために格式ある古代の浴場には現代では当たり前の脱衣部屋が存在しない。
──中で服を脱ぐしかありませんが、湿らさないようにご注意を。
そんなどうでもいい忠告を旧城主から受けたことを思い出しながら服を脱ぎ、フォルクハルトは呟いた。
「いや、どうあっても湿る」
エリスブルグの名前を残してはいても、この砦は当時を模して後から作り直されたものだ。かつての公主が起居した城のような豪華さは微塵もない。元来のエリスブルグ城にあった浴場は贅の限りが尽くされ、代々の君主は湯の中で酒を嗜 み楽団の演奏を聴き、あるいは踊り子の舞を眺めては色を漁ったという。浴場の床も相当に広かったことは想像に難 くない。
しかしエリスブルグの崩壊後、次に興った国はこの砦を防壁として再築させることを優先させた。贅の限りを尽くす余裕も最初からなく、それでも形だけを無理に再現したものだから浴室も狭く床も狭く、加えて服を脱ぐ部屋もないというお粗末さになったらしい。
自嘲すると不思議なくらい気分が和らいだ。
やはり宛名はグレーデン公にしておこうかと、そんな逃げの気持ちがフォルクハルトを
「どうせ何を書いても結果は同じだというのに……」
いずれにしても希薄な親子関係だ。
フォルクハルトが生まれる前からその男は一国の
それなのに、どうして自分は先刻から紙に文字を書いては捨て、書いては捨てを繰り返しているのか、フォルクハルトは自分のこの動揺が理解できなかった。いや、理解などしたくもなかったのだ。疎まれていることがわかっていてもなお自分をより良く見せたい、あの男の関心を自分に向けたいという子供のような渇望が
そしてふと、自分の両手を見た。
「柔らかかったな」
ダニエルを抱えた時の感触を思い出しつつ呟いた。
なんといっても子供の体だ。筋肉の発達が途上であることはわかっているつもりだった。しかしあの柔らかさはなんというか、おかしい。
おかしいと思った瞬間に気持ちが飛び跳ね我に返り、フォルクハルトは慌てて両の
「おかしいのはこの感情だぞ!」
と吐き捨てたが、しかし巻き上がった妄想は止めようがない。
あの青く透き通る瞳。
あれに見つめられるとどうにも
「やめろ!」
必死な面持ちで理性が崩壊するのを食い縛り、立ち上がった。窓の外を見ればすでに日が暮れかけている。
唖然として机に目をやった。まだ一文字も書けていない!
自分の無能ぶりにも愕然としたフォルクハルトだが、次にはそれ以上に差し迫った問題があると気付いて
食事だ。
まずい。このままでは一緒に食すことになる。
「冗談じゃない!」
フォルクハルトは落ち着きなく部屋の中を歩き回ったが、しかしそんなことで問題が解決するはずもなかった。結局無策のまま頭を掻きむしったところで
はた
と立ち止まり、呟いた。「風呂か」
湯の中に身を沈め、とにかく気持ちを落ち着けようと考えた。面倒事に取り掛かるのはそれからでも遅くはないと、要するに考えることを先伸ばしたのだ。戦場では常に先手先手を打って勝ち進んできたのは幻かと思うほど、馬を降りたフォルクハルトにはこのように至らぬ点が多かった。それも本人だけは隠し通せているつもりで外にはすべて筒抜けという二重の至らなさだからどうしようもない。
いや、フォルクハルトのこうした人間らしい
だらしなさ
が周囲の知るところなのはウドが全面的に悪いのであって、同時にウドの一番の功績なのだろう。なにしろこの王子をとことんまでともあれ、風呂だ。フォルクハルトは急ぎ部屋を出た。
エリスブルグ砦には、ヴァリースダの源泉から湯を引いた二つの浴場が備わっている。
一つは誰にでも解放されている大浴場で、主に鍛錬を終えた兵士たちが一日の汚れを落とすのに使っていた。控えめにいっても、汚い。が、昨夜のフォルクハルトはそちらを好んで使った。そこ以外を使うつもりもなかったのだが、どうにも一人になりたい気分ともなればそうも言っていられない。意を決し、城主用に
その場所に気乗りしないのは歴史的な背景が気に入らないからだろう。
かつてのエリスブルグ公国では君主の
──中で服を脱ぐしかありませんが、湿らさないようにご注意を。
そんなどうでもいい忠告を旧城主から受けたことを思い出しながら服を脱ぎ、フォルクハルトは呟いた。
「いや、どうあっても湿る」
エリスブルグの名前を残してはいても、この砦は当時を模して後から作り直されたものだ。かつての公主が起居した城のような豪華さは微塵もない。元来のエリスブルグ城にあった浴場は贅の限りが尽くされ、代々の君主は湯の中で酒を
しかしエリスブルグの崩壊後、次に興った国はこの砦を防壁として再築させることを優先させた。贅の限りを尽くす余裕も最初からなく、それでも形だけを無理に再現したものだから浴室も狭く床も狭く、加えて服を脱ぐ部屋もないというお粗末さになったらしい。