22 情報
文字数 2,387文字
「何に?」
仏頂面で応じながらウドは吐き捨てた。「それで、何か用なのか?」
問題は荷馬に乗っていることだけではない。ここからヴァリースダまで続く最短の山道は街道を大きく外れ、道中それなりの距離があれど目ぼしい集落が存在しないのだ。馬が調達できないことを考慮に入れても一、二回は野宿を挟む必要があるというのに、この付近には質 の悪い山賊が闊歩する。熊や狼の心配も尽きることがない。
もちろん城を迂回すればそこからヴァリースダに至 る街道は比較的安全だ。町が途切れることもなければ、馬についてもさしたる心配はない。しかしその反面、可能な限りの峠越えを避けて敷かれた街道は大きく湾曲していて時間的に相当な後れを取ることになる。
この時のウドはまだ、実際のフォルクハルトが王命を前にいかなる決断を下したかを知らずにいた。状況が最も楽観的な方向に傾いた場合は、普段通りのフォルクハルトが城で待っているはずなのだ。この場合は抱えこんだ杞憂の一切をなかったことにして、ただ今まで通りの日常をやり過ごせばいいわけだ。しかし、フォルクハルトのあの性格から見てこの可能性が限りなく絶望的であることもまた、ウドは認めざるをえなかった。
それでも城に戻り、情報を収集する価値はあるか。
形 振 り構わずヴァリースダまで突き進んだ場合に馬が潰れる可能性、野盗や獣に襲撃される虞 をどこまで織りこむべきなのか。
ウドの葛藤はこの点にこそあったのだ。
そしてイザークはそれがわかっていて、わざとその分岐点の手前で自分を待ち構えていたに違いなかった。腹立たしさを感じながらもウドは冷静に思案した。
今、この男はウドの知りたい情報を持っている。しかしイザークがそれをどのように使うつもりでこの場に現れたのかはわからない。嫌がらせか、あるいは伝説の灰猫を気取ったつもりか。
この傭兵団の組織力を侮 ってはならないとウドもわかっていた。古くから存在する〈灰猫〉は代を継ぎながら連綿と現代にまで続き、歴史の動くその陰で常にその存在感を示してきた。病死したとされる西ゴール王マクシミリアンの傍 らにいたとされるのも〈灰猫〉だ。マクシミリアンを見限り凋落のきっかけを作ったのも〈灰猫〉だという者さえ後を絶たない。
伝説の灰猫はガリアの大地を象徴する。
ウド自身はあの猫をそう解釈していた。その小ささと無力さを蔑 まず認め尊 んだ曙光の王の前でだけ猫は本性を現し、迫りくる敵を蹴散らす異能の力を王に貸し与え、そして己 の永遠の主 とするべくその支配と権威を未来に向けて認めて立ち去る奇跡の一 滴 。
その逸話は、見た目に惑わされてはならないという戒めでもあった。小さく儚く見えても、大いなる力を秘めていることもある。
対する傭兵団の〈灰猫〉はガリアの東西を股にかけて縦横無尽に暴れまわり、時には戦局の行方さえも左右するほどの影響力を持つ。たかが傭兵と見下せば痛い目に合うだろう。まさに伝説の灰猫を具現化させたかのような活躍ぶりでその存在を世に知らしめる集団なのだ。
おそらくフォルクハルトの実質的な手足となって働ける傭兵団はこの〈灰猫〉くらいのもので、戦場に出て期待以上の功績を必ず挙げるのも、フォルクハルトが一番に信を置くのも〈灰猫〉ただ一つではないかとさえウドは思うのだ。
しかもフォルクハルトと彼らとの関係は、ウドが割りこんだ時にはすでに崩しようがないほどに強固なものだった。戦況を占う場においてフォルクハルトが〈灰猫〉の意見を採用したこともかなりの頻度に上る。事実を言えば団長がイザークになって以降の〈灰猫〉はこれまで以上に冴えわたり、ウドの意見が入りこむ余地がない。
だが、いや、だからこそ、この男の抜け目のなさをウドは常に警戒してきた。
そもそもが東西を股にかける〈灰猫〉は、今は東の肩を持っていてもいつ西に寝返るかわからない危険さを孕 む。イザークの素性も疑いの目を向けたくなる理由の一つだ。自らを東ガリア人と称するこの胡乱 な男は、実際には東ガリアの人間にしてはやや小柄だし、青い瞳を持っている。
何を差し置いてもその目が曲者 だった。
生粋の東ガリア人には黒目しか生まれない。現在の東ガリアには騎馬民族の末裔もわずかに生き残っているが、黄色みがかった肌を持つ彼らの瞳もやはり黒いのだ。一般的には色付きの瞳は西ゴール人であることを印象付ける。しかしイザークを瞳の色だけでそう断定することも難しかった。いかに小柄で青い瞳を持っていたとしても、骨格だけを見れば彼はやはり東ガリア人なのだ。
境界地域の混血人。
エリスブルグやロルトワルヌなど東西の交わる地域にはこうした特徴を持つ人間が多い。
つまりは、わかりにくい。
どちらの国に属しているのか、敵なのか、味方なのか、とにかく彼らはわかりにくい。しかもその曖昧さを彼らは存分に利用する。間者 の疑いを掛けられるとわかっていながら、なおも間者として働く者が多いのもその一つだ。そしてそれを可能にしているのが彼らの生まれつき備え持った賢明さといえる。二つの民族の間で争いに巻き込まれ続けた歴史が彼らをそのように成長させたのだ。イザークも例に漏れない。そして為政者たちは皆、毒の可能性を認識しながらも彼らを重用せずにはいられなかった。しかも境界人たちは境界人たちで、立身出世のためとあらばいとも容易 く生まれた国を捨ててしまう薄情さを備え持っている。
蝙蝠 だ。
ウドは思う。酔いに任せてそんな愚痴を零 したことも一度や二度ではない。鳥でもなく、獣でもない。彼らの立ち位置は蝙蝠と同じだ。
「答えを言え」
ウドは素知らぬ顔で鎌を掛けた。「なぜ、城を離れてこんな場所にいる?」
イザークの怪しさは見た目だけの問題に留まらない。〈灰猫〉独自の情報網のほかにも、この男はおそらく何かを隠し持っている。
「……ん?」
仏頂面で応じながらウドは吐き捨てた。「それで、何か用なのか?」
問題は荷馬に乗っていることだけではない。ここからヴァリースダまで続く最短の山道は街道を大きく外れ、道中それなりの距離があれど目ぼしい集落が存在しないのだ。馬が調達できないことを考慮に入れても一、二回は野宿を挟む必要があるというのに、この付近には
もちろん城を迂回すればそこからヴァリースダに
この時のウドはまだ、実際のフォルクハルトが王命を前にいかなる決断を下したかを知らずにいた。状況が最も楽観的な方向に傾いた場合は、普段通りのフォルクハルトが城で待っているはずなのだ。この場合は抱えこんだ杞憂の一切をなかったことにして、ただ今まで通りの日常をやり過ごせばいいわけだ。しかし、フォルクハルトのあの性格から見てこの可能性が限りなく絶望的であることもまた、ウドは認めざるをえなかった。
それでも城に戻り、情報を収集する価値はあるか。
ウドの葛藤はこの点にこそあったのだ。
そしてイザークはそれがわかっていて、わざとその分岐点の手前で自分を待ち構えていたに違いなかった。腹立たしさを感じながらもウドは冷静に思案した。
今、この男はウドの知りたい情報を持っている。しかしイザークがそれをどのように使うつもりでこの場に現れたのかはわからない。嫌がらせか、あるいは伝説の灰猫を気取ったつもりか。
この傭兵団の組織力を
伝説の灰猫はガリアの大地を象徴する。
ウド自身はあの猫をそう解釈していた。その小ささと無力さを
その逸話は、見た目に惑わされてはならないという戒めでもあった。小さく儚く見えても、大いなる力を秘めていることもある。
対する傭兵団の〈灰猫〉はガリアの東西を股にかけて縦横無尽に暴れまわり、時には戦局の行方さえも左右するほどの影響力を持つ。たかが傭兵と見下せば痛い目に合うだろう。まさに伝説の灰猫を具現化させたかのような活躍ぶりでその存在を世に知らしめる集団なのだ。
おそらくフォルクハルトの実質的な手足となって働ける傭兵団はこの〈灰猫〉くらいのもので、戦場に出て期待以上の功績を必ず挙げるのも、フォルクハルトが一番に信を置くのも〈灰猫〉ただ一つではないかとさえウドは思うのだ。
しかもフォルクハルトと彼らとの関係は、ウドが割りこんだ時にはすでに崩しようがないほどに強固なものだった。戦況を占う場においてフォルクハルトが〈灰猫〉の意見を採用したこともかなりの頻度に上る。事実を言えば団長がイザークになって以降の〈灰猫〉はこれまで以上に冴えわたり、ウドの意見が入りこむ余地がない。
だが、いや、だからこそ、この男の抜け目のなさをウドは常に警戒してきた。
そもそもが東西を股にかける〈灰猫〉は、今は東の肩を持っていてもいつ西に寝返るかわからない危険さを
何を差し置いてもその目が
生粋の東ガリア人には黒目しか生まれない。現在の東ガリアには騎馬民族の末裔もわずかに生き残っているが、黄色みがかった肌を持つ彼らの瞳もやはり黒いのだ。一般的には色付きの瞳は西ゴール人であることを印象付ける。しかしイザークを瞳の色だけでそう断定することも難しかった。いかに小柄で青い瞳を持っていたとしても、骨格だけを見れば彼はやはり東ガリア人なのだ。
境界地域の混血人。
エリスブルグやロルトワルヌなど東西の交わる地域にはこうした特徴を持つ人間が多い。
つまりは、わかりにくい。
どちらの国に属しているのか、敵なのか、味方なのか、とにかく彼らはわかりにくい。しかもその曖昧さを彼らは存分に利用する。
ウドは思う。酔いに任せてそんな愚痴を
「答えを言え」
ウドは素知らぬ顔で鎌を掛けた。「なぜ、城を離れてこんな場所にいる?」
イザークの怪しさは見た目だけの問題に留まらない。〈灰猫〉独自の情報網のほかにも、この男はおそらく何かを隠し持っている。
「……ん?」