55 符号
文字数 2,424文字
奪うに関してはいわずもがな、東征だ。結果的に無理が祟って病に倒れることになる。
「やはり同じ、教会なのか……」
呟きつつフォルクハルトは窓の外を見た。明日には満ちる月が怪しげに浮かんでいる。ウドはすでに部屋に返した。
報告を述べながら何度も欠伸 を噛み締める彼の姿を見ながら、珍しいこともあるものだとフォルクハルトは思っていた。これほど疲れた姿を晒 しているこの男を見たことはない。しかし考えてみればウドは王都からここヴァリースダまで、おそらく碌 な休息も取らずに駆けつけたに違いないのだ。疲れているのも、それを隠しきれないのもむしろ当然か。
死にたがっている男一人のために、この男も損な役割を背負ったものだとフォルクハルトは哀れに思った。放っておけばいいものを、それがこの男にはできないのだ。仕事であるがゆえに放り投げられない荷物が自分だった。
最初からわかっていたことだ。
ウドが何かと自分の世話を焼くのも、生きる方向に視線を差し向けようと懸命になっているのもただの仕事でしかない。あの男の本心はフォルクハルトの生死に微塵の興味も抱いてはない。最初に出会った時からすべて明らかだった。
いやいや遣わされ、しぶしぶ付き従っていると、あれほどあからさまな態度で示されてわからぬほどフォルクハルトは鈍感ではない。最近は態度を隠すようになったようだが、それでもさっさとこの役割から解放されたいと心の内で思っている様子が何かの拍子に垣間見えることもある。
しかし、その期待に応えてやろうとするほどにウドが真面目な仕事ぶりを発揮するのだから困ったものだ。フォルクハルトは苦笑した。
「問題は、未 だにその後ろ盾が誰なのかわからないことなんだ」
それが判明できればこの件は元から断ち切れるというのに。
フォルクハルトが何度解雇を言い渡しても、その度 にウドは軍人としての位を上げて太々しくも戻ってきた。背後にかなりの大物が控えていなければ難しいはずなのだが、その人物の影も形も、フォルクハルトはまだ何一つ掴めないでいた。
そもそもが、おかしいのだ。
一体誰がフォルクハルトの生を願うというのか。そんな人物が宮廷にいるわけがない。
公明正大を地 で行 く王后とて人の子だ。本心では自らの血をわけた娘を王位に就けたいと思っていることだろう。彼女がフォルクハルトの正体に気付けばなおさら、その気持ちを強く持つはずだ。いや、彼女がすべての事実を知ればむしろ積極的にフォルクハルトを排そうとすぐの行動に移るだろう。このような歪 な事態を彼女の正義が許すはずがないからだ。
国王は王位を継ぐのがフォルクハルトでなければ、残る三人の娘のうちの誰が女王になってもいいと思っているらしい。彼だけは確実にフォルクハルトの正体を知っていた。
──おまえは、誰に似たろうかな?
かつて自分の顔を見ながらそう鼻を鳴らし、数日と経たずに王宮から死地へと追い出したのもそのせいだ。わかっているからこそ、こうなった。今でも何かと自分のことで王妃が騒ぎ立てているようだが、その声に一切の耳を貸さないのが揺るがぬ証拠だ。あの時、国王は息子の容姿に確信を得た。それでいて大っぴらにして事実をひっくり返せば自らの立場を危うくしかねないゆゆしき問題があることも理解したに違いない。
そして、国王の態度を前に否 が応でもフォルクハルトは気付かされた。いや、最初から自分はわかっていたのかもしれない。
その違和感はずっと自分の中で燻 っていた。いよいよもってそれが判明し、ようやくすっきりとなったという気持ちもフォルクハルトの中にはある。それでも国王を父と信じていた過去も、王后の教育と厳格な態度に継母なればと抱いた恐れも、真実アウレリアを姉と慕ったその純粋な気持も、だからといって今更すべてを嘘に変えることもフォルクハルトにはできなかった。
「だから早く、死なねば」
苦々しく呟いた。「自殺はできない、二人の母が相争う」
暗殺も本当なら望ましくはない。抜かりはなかろうが、万が一にも「追跡の手が国王に及ばぬとも限らない」
しかし近頃の様子では、国王には形振り構っていられない事情ができたことも確かなのだ。
「私の正体が、どこかで漏れたのか?」
だが、どれほど注意深く耳を欹 てても自分の出生に関する噂は一つとして流れてこなかった。この手の風評は面白おかしく、素早く、それこそ積んだ干し藁に火を放つような勢いで世間に広まるものなのに……。
「だが、時間もない」
嘆息を漏らしてフォルクハルトはもう一度月を見上げた。
教会の中で新月の夜に時が止まったダニエル。同じ場所で満月の夜に不可解な声を聞いた自分。
ウドがタイスから聞いた話では、ダニエルの時間を動かす鍵は時の権力者が握るという。
──真実その身を差し出すに値する男に出会えることが条件だそうで。
ウドはそう言った。
「男なのか?」
「そのようです。女にその資格はないようです」
「その身を差し出すとは?」
「比喩的な意味か、あるいはもっと残酷な、血を見るような意味か、それはわかりません」
しかしその時間が動き出すというのですから、それほど悪い意味ではないと思いますがと、ウドは言った。「そしてダニエル殿下のその身を自由にした人物には、兄王マクシミリアンでさえ手に入れられなかった栄冠が輝くというのです」
言い切るとウドはフォルクハルトを見た。
「求めれば未来が手に入るのは、誰でしたかな?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
信じられなかった。
自分がダニエルを求め、そしてダニエルがそれに応じてその身を捧げる。確かに符合する。同時にそんなばかな、とも思った。うすら寒いものを感じてフォルクハルトは身震いした。
「本当に、彼女はマクシミリアンの時代から生きながらえているのか?」
未だに信じたくない気持ちの方が強かった。
しかし、否定するほどにこの奇妙な符号は薄気味悪さを際立たせる。
「やはり同じ、教会なのか……」
呟きつつフォルクハルトは窓の外を見た。明日には満ちる月が怪しげに浮かんでいる。ウドはすでに部屋に返した。
報告を述べながら何度も
死にたがっている男一人のために、この男も損な役割を背負ったものだとフォルクハルトは哀れに思った。放っておけばいいものを、それがこの男にはできないのだ。仕事であるがゆえに放り投げられない荷物が自分だった。
最初からわかっていたことだ。
ウドが何かと自分の世話を焼くのも、生きる方向に視線を差し向けようと懸命になっているのもただの仕事でしかない。あの男の本心はフォルクハルトの生死に微塵の興味も抱いてはない。最初に出会った時からすべて明らかだった。
いやいや遣わされ、しぶしぶ付き従っていると、あれほどあからさまな態度で示されてわからぬほどフォルクハルトは鈍感ではない。最近は態度を隠すようになったようだが、それでもさっさとこの役割から解放されたいと心の内で思っている様子が何かの拍子に垣間見えることもある。
しかし、その期待に応えてやろうとするほどにウドが真面目な仕事ぶりを発揮するのだから困ったものだ。フォルクハルトは苦笑した。
「問題は、
それが判明できればこの件は元から断ち切れるというのに。
フォルクハルトが何度解雇を言い渡しても、その
そもそもが、おかしいのだ。
一体誰がフォルクハルトの生を願うというのか。そんな人物が宮廷にいるわけがない。
公明正大を
国王は王位を継ぐのがフォルクハルトでなければ、残る三人の娘のうちの誰が女王になってもいいと思っているらしい。彼だけは確実にフォルクハルトの正体を知っていた。
──おまえは、誰に似たろうかな?
かつて自分の顔を見ながらそう鼻を鳴らし、数日と経たずに王宮から死地へと追い出したのもそのせいだ。わかっているからこそ、こうなった。今でも何かと自分のことで王妃が騒ぎ立てているようだが、その声に一切の耳を貸さないのが揺るがぬ証拠だ。あの時、国王は息子の容姿に確信を得た。それでいて大っぴらにして事実をひっくり返せば自らの立場を危うくしかねないゆゆしき問題があることも理解したに違いない。
そして、国王の態度を前に
その違和感はずっと自分の中で
「だから早く、死なねば」
苦々しく呟いた。「自殺はできない、二人の母が相争う」
暗殺も本当なら望ましくはない。抜かりはなかろうが、万が一にも「追跡の手が国王に及ばぬとも限らない」
しかし近頃の様子では、国王には形振り構っていられない事情ができたことも確かなのだ。
「私の正体が、どこかで漏れたのか?」
だが、どれほど注意深く耳を
「だが、時間もない」
嘆息を漏らしてフォルクハルトはもう一度月を見上げた。
教会の中で新月の夜に時が止まったダニエル。同じ場所で満月の夜に不可解な声を聞いた自分。
ウドがタイスから聞いた話では、ダニエルの時間を動かす鍵は時の権力者が握るという。
──真実その身を差し出すに値する男に出会えることが条件だそうで。
ウドはそう言った。
「男なのか?」
「そのようです。女にその資格はないようです」
「その身を差し出すとは?」
「比喩的な意味か、あるいはもっと残酷な、血を見るような意味か、それはわかりません」
しかしその時間が動き出すというのですから、それほど悪い意味ではないと思いますがと、ウドは言った。「そしてダニエル殿下のその身を自由にした人物には、兄王マクシミリアンでさえ手に入れられなかった栄冠が輝くというのです」
言い切るとウドはフォルクハルトを見た。
「求めれば未来が手に入るのは、誰でしたかな?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
信じられなかった。
自分がダニエルを求め、そしてダニエルがそれに応じてその身を捧げる。確かに符合する。同時にそんなばかな、とも思った。うすら寒いものを感じてフォルクハルトは身震いした。
「本当に、彼女はマクシミリアンの時代から生きながらえているのか?」
未だに信じたくない気持ちの方が強かった。
しかし、否定するほどにこの奇妙な符号は薄気味悪さを際立たせる。