27 貴人の気紛れ

文字数 2,384文字

 民家は小麦畑のさらに先に見えるか見えないかという程度に小さく点在しているだけで、いくらなんでもあまりに距離がある。街道から崖の頂上まで登りきるのも容易なはずがない。しかしこの子供はたった一人で丘に(たたず)み、周囲には大人の気配も、動物の気配も何一つとして見当たらなかった。

 一人、なのか? ここまで徒歩で来たとでも?

 浮かんだ疑問がフォルクハルトにねっとりと(まと)わりついた。妙な気持ちだ。何かを見落としたままやり過ごしてしまった時のような。しかし、どれほど首を(かし)げたところで求める答えは見出せそうもない。

 諦めの気持ちになったその一瞬を風が吹き抜けた。

 季節は夏の収穫期。竜の名を冠する小麦の実り豊かな黄金色が風に吹かれて波のように(なび)くや、目を(みは)るほどの絶景がその場に展開されていった。

 心に浮かんだ疑念が一気に吹き飛び、ただ「素晴らしい」とだけ、素直な気持ちでフォルクハルトは感じ入った。

 素晴らしい。

 不思議なものだとフォルクハルトは思った。

 (みやこ)で何不自由のない生活をして生を持て余していた頃よりも、死に憑かれて旅を続けている今の方がより強く命の存在を実感し、心が躍動する。

 そこにある人の営みや、自然の移ろい。

 本の中でしか知らなかった数多(あまた)の風習。世界の息吹。

 この世界は幼い頃のフォルクハルトが想像していたよりも遥かに優美で雄大で、そして力強く、だからこそ怖かった。

 そう、恐怖だ。

 世界の美しさに対して自分がそれを深い部分で感じた瞬間、そこからすべてが崩壊して地の底に飲みこまれていくのではないか、そんな得体の知れない感覚とともにフォルクハルトは生きてきた。この暗い感情は幼い頃から変わらず自分の中にあり、感銘を受ける(たび)に自らを(いまし)めようと働きかてくる。

 触れすぎてはならぬ。壊さぬためにも、と。

 再び崖を見上げれば、子供はまだその場に立って街道を見下ろしていた。その姿はどこからどう見てもただの幼い子供だ。そうとしか思えない。しかしどうしてか心がざわめいた。

 不可解な衝動を抱えたままフォルクハルトは子供の様子を(うかが)った。

──イザークのとは違う。

 しばらく経ってそんな感想が胸を突いた。

 宝石のように輝く青い瞳がフォルクハルトの目を奪う。この辺りでは西の特徴を持つ人間も多いと聞いていたが、あの瞳もそういった境界人の特徴なのだろう。いや、それにしても見事だ。

 頭も手も服も泥だらけでみすぼらしく汚れているにも関わらず、その瞳だけはあまりに清らかで気品さえも(ただよ)わせている。

 欲しい。そう思った。衝動的にその瞳を強く欲したことに気付いたフォルクハルトは、

 ばかな、正気か?

 内心のその欲望に驚き息を飲みこんだ。対する子供の双眸は物怖じというものを知らぬように、ただ真っ直ぐにフォルクハルトを見下ろしている。

 その時間がどの程度あったかはわからない。

 不意に子供は微笑み、信じられないほど優雅な一礼をした。かと思うとくるりと(きびす)を返して軽やかに崖の奥へと走り去っていく。あまりにも無邪気なその仕草はまるで風の化身のようだった。

 あれは本当に、人間だったのか?

 その行動に虚を突かれたフォルクハルトは放心したまま崖の上を見つめ続けたが、しかしどれほど待っても呆気なく姿を消した子供が再び姿を現すことはなかった。

「砦と町が見えてきました」

 その声に我を取り戻し、フォルクハルトは正面を向いた。うっすらと靄のかかる前方に人工物の影が辛うじて見えるか、どうか。しかしいよいよ到着したのだ、ヴァリースダに。気持ちが切り替わり強い興奮を覚え、フォルクハルトは手綱を握る手に力を込めた。(ランツェ)を構え、騎乗して荒野を駆ける身分となってから数々の砦を巡ってきたフォルクハルトでも、やはり未踏の地に足を踏み入れる瞬間には胸が高鳴ってくる。

 ……だが、とフォルクハルトはまたしても驚いた。この興奮は(なん)であろう。かつてないほどの強い興奮をひしひしと感じるのだが。

 まさか、あの瞳のせいなのか?

 (おのれ)の執着に呆れつつも思った。こんな感情が芽生えるとは、いよいよ自分も

が回ったらしい。……ああそうか、

なのか。

 声を立てそうになったフォルクハルトは慌てて呼吸を整えた。沸き起こった嘲笑を表に出すまいと懸命に飲みこみ、精一杯の平静さを装った。





3





 ロルトワルヌ側から町を出て川沿いの小道を南下し、どれほどの時間が経ったかもわからなくなっていた。しかしようやくにしてダニエルを見つけ、タイスは息を吐いた。知らず息を詰めて歩いていたらしく、呼吸を思い出すと同時に一気に汗が噴き出した。視線の先では当のダニエルが川に身を乗り出して勢いよく顔を洗っている。その様子を見た途端にタイスが覚えたものは残念なことに、どう取り繕ったところで肯定的な感情にはなりそうもない。

──ヴァリースダの町に繰り出しませんか?

 そんな唐突な提案をタイスが受けたのは昼に差しかかるかどうかの頃合いだった。

「町民に扮してみるのも楽しいと思うのです」

 ダニエルは時折、

無邪気さを発揮して周囲を困惑させることがある。今回もまたその気が出たのだとタイスはすぐに理解し、

「しかし」

 と、冷静な態度で言い返した。「服を変えたところで無理だと思います」

 ダニエルの髪の色、肌の白さではかえって平民の服装は目立ってしまう。華美に装い貴族然としてくれていた方が遥かに風景に溶けこめるのだ。

「……無理でしょうか?」

 タイスの否定を受けてダニエルはつと自分の顔を鏡で覗きこみ、頬に手を添えた。そして「ふうむ」と何かに納得したように口を結んだが、そこで簡単に引き下がるような大人しい性格であれば周囲が苦労することもない。

 きっとすぐに何かが飛び出すはずと身構えるタイスに向けて、予想通りダニエルは目を輝かせて(うなず)いた。

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登場人物紹介

フォルクハルト・フォン・ツアミューレン

 東ガリア王国の王太子。王都にはほとんど寄り付かずに戦場を駆け巡る日々を過ごしている。

 とにもかくにも死にたがりで、周囲をやきもきとさせている。

ダニエル・ド・ワロキエ

 西ゴール王国の王弟。呪われた王弟として東西ガリア中にその名が知れ渡っている。

ウド・ジークムント・フォン・オーレンドルフ:

 オーレンドルフ家長男。色を好みすぎて実家からは勘当されている。

 フォルクハルトの右腕を自称しているが当のフォルクハルトには煙たがられており、願わくば消えてくれと思われている。

イザーク:

 傭兵団〈灰猫〉の団長

タイス

 ダニエルの付き人。

王后

 東ガリア国王の第一夫人。アウレリアの実母。フォルクハルト、およびその妹2人の養母。

 政治に口を出すことはないが、その権威は国王を凌ぐとも噂されている。

 フォルクハルトとアウレリアとの間にわだかまる王位継承問題については、これまで一度も自身の立場や意見を公式にも非公式にも表明したことはない。それゆえに様々な波紋を王宮内に投げかけ、憶測が飛び交う原因となっている。

アウレリア:

 東ガリア王国の第一王女、グレーデン公爵夫人、フォルクハルトの異母姉。

 グレーデン公爵との間に子がないため、年の離れた弟のフォルクハルトを我が子のように溺愛している。

グレーデン公:

 アウレリアの夫。フォルクハルトの義理の兄。

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