41 清濁併せ持つ世界
文字数 2,480文字
ダニエルは一見すれば甘い蜜を溜めた花で、しかしその実態は強欲な肉食の獣と同じだ。この呪いは引き寄せられた蜂たちを容赦なく貪 り食らい尽くし、哄笑する。
それにもかかわらず、国王は毎年のようにあの北の離宮に霞 が晴れる新月の夜に。そして満月に至るまでにすべてが終わる。それも呪いの持つ一面だった。結果はいつでも同じ、相手が必ず破滅した。
それでも西ゴールの王は、その行動を変えることができないのだ。これもまた呪いのせいだとダニエルは思っていた。そして誰もが皆、ダニエルを含め生き残った者たちは全員が等しく
国王が北の離宮を訪れなかった今年は確かに例外だ。
しかしその例外をもって何かが変わったとでもいうのだろうか。ダニエルにはわからなかった。少なくとも、ロルトワルヌの城主は呪いに囚われていたではないか。最後の扉が開けばすぐにでも彼はその領域を荒らしたに違いないのだ。そうなればいつも通りの、今まで起きてきた通りの無残な光景がそこに広がった。
ならばフォルクハルトが、例外なのか?
わからない。わからないなりに確かなことは、ダニエルが感じたそれがあの男に対する執着心だったということだ。手放したくない。しかし、一線を踏みこませれば破滅するのは相手の方だ。自分はそれを望んでいるのだろうか? 東ガリアの王太子を葬り去ることに成功すれば西ゴールとしては安泰ではあるがと思い、そうなることもまた見越してここに来たはずだと思い、その割に何かが腑に落ちないもどかしさが心の底で蟠 っていた。
何かが、狂った。そうとしか思えない。
そして混乱するダニエルはどうしたらいいのかわからないままに、自分を振り払うフォルクハルトの腕にしがみついてしまったというわけだ。見苦しい。しかしそう思う反面、少しの興味くらい持ってくれてもよかろうものをと思う身勝手な気持ちもまた確かに自分のものだった。
これからどうしたものか。
思案のために三度目の溜息をつきかけたとき、突然フォルクハルトの声が背後で響きダニエルの気持ちは飛び跳ねた。
「お部屋を用意しました。ご案内しましょう」
部屋?
一瞬何を言われたのかわからず息が止まった。宿泊する部屋のことだとわかったときには苦笑とも微笑ともとれぬ曖昧な笑みが顔に浮かび、皮肉な気分が支配した。こんなにも我儘 な人質に対して、牢屋ではなく部屋を宛てがってくれる程度には東ガリア人も親切であるらしい。
それは当然のようでもあり、意外なようでもあった。
先刻の冷淡な態度からして、フォルクハルトなら自分を地下に放りこみかねないとダニエルは考えたのだ。そうして牢の入り口で城に留まるか去るかの二択をダニエルに迫る、そんな残忍な光景がまた妙にこの男は似合う。そしてそれをされても、おそらく今の自分は城の外に出る道は選ぶまい。ダニエルは思った。
例外が起きたならば、それでいい。ただ自分は最後まで見届け、見極めるだけだ。西ゴールのために何ができるか、祖国のために何をすべきか、この命の炎をどこで投げ捨てるか、ダニエルがすべきことは最善の道を見つけることだけだ。
半ば諦めの気持ちを抱えながらダニエルは立ち上がろうとした。
「…………」
しかし、立ち上がれなかった。
そんなばかなと焦るも、立ち上がれないものは立ち上がれない。もたもたとしていると横に巨大な影が立ち塞 がった。フォルクハルトだ。黒い瞳が蔑 むようにダニエルを見下ろした。
「まさか、その椅子に籠城する気ですか?」
「いいえ!」
恥ずかしさのあまり、思っていた以上に大きな声が出た。ダニエルは赤面して視線を泳がせたが、それを見下ろす黒い瞳に動揺の気配はない。
深い闇だとダニエルは思う。最初に見た時から思っていた。何を考えているのかまるでわからない。そこにダニエルを映しているのかどうかも不明だ。だからこそ余計にその深淵を知りたいと望み、その意識に自分を擦りこませたいと欲してしまう。
「では、立ち上がっていただけませんか?」
フォルクハルトは言った。「お部屋にご案内しますので」
「……できないのです」
消え入りそうな声でダニエルは答えた。フォルクハルトはすぐに眉を顰 め、「できないとは?」と、ぶっきら棒に言った。「意味がわかりませんが」
少しは察してくれてもいいものを!
ダニエルは身勝手に憤慨し、口を尖 らせた。しかし黙っていて通じぬことなら、恥を忍ぶほかはない。
「立てないのです」ダニエルは紅潮した顔で言った。恥ずかしさのあまりに耳まで熱い。「腰が抜けてしまったようです。その……」ほっとしたものですから、たぶん。
言った後 でますます恥ずかしさが込み上げた。
フォルクハルトはどうしたことか何も言葉を発しない。気まずい沈黙になった。消えて、しまいたい……!
と、狼狽 えるダニエルを冷めた目で見据えたフォルクハルトは、すぐに呆 れたような声で言った。
「それでよく、このような交渉の場に臨みましたね」
素っ気ない態度にダニエルの反発心が刺激された。「仕方ないではありませんか!」
「はあ、仕方ない、ですか」
「だって!」と、ダニエルは言ったが、続く言い訳はフォルクハルトの「失礼」と呟く声に掻き消された。
消してくれてよかったとダニエルは思う。そうでなければ何を言い出したかわからない。しかし、そこからは事件だった。二本の腕がなんの躊躇 いもなく伸びるやダニエルを抱きかかえたのだ。
「何をするんですか!」
「仕方ないではありませんか」
ダニエルの言い分をそっくり嫌味で返してフォルクハルトは言い放った。「歩けないのなら」
「…………」
ダニエルは絶句したまま奥歯を噛みしめた。
第五章 錯綜する想い
1
町の外に出たばかりの女の表情は憂鬱そのものだった。それを覗き見る遠眼鏡から視線を外し、軽い笑みを浮かべてウドは目頭を押さえた。単純なものだ。
それにもかかわらず、国王は毎年のようにあの北の離宮に
お気に入り
を連れてきた。ダニエルの記憶からそれでも西ゴールの王は、その行動を変えることができないのだ。これもまた呪いのせいだとダニエルは思っていた。そして誰もが皆、ダニエルを含め生き残った者たちは全員が等しく
すべてを忘れた
状態で満月を見る。西ゴールは長い歳月をかけてあの儀式を連綿と繰り返してきたというのに、誰もがそれに、今なおそれに、気付くことがない
。国王が北の離宮を訪れなかった今年は確かに例外だ。
しかしその例外をもって何かが変わったとでもいうのだろうか。ダニエルにはわからなかった。少なくとも、ロルトワルヌの城主は呪いに囚われていたではないか。最後の扉が開けばすぐにでも彼はその領域を荒らしたに違いないのだ。そうなればいつも通りの、今まで起きてきた通りの無残な光景がそこに広がった。
ならばフォルクハルトが、例外なのか?
わからない。わからないなりに確かなことは、ダニエルが感じたそれがあの男に対する執着心だったということだ。手放したくない。しかし、一線を踏みこませれば破滅するのは相手の方だ。自分はそれを望んでいるのだろうか? 東ガリアの王太子を葬り去ることに成功すれば西ゴールとしては安泰ではあるがと思い、そうなることもまた見越してここに来たはずだと思い、その割に何かが腑に落ちないもどかしさが心の底で
何かが、狂った。そうとしか思えない。
そして混乱するダニエルはどうしたらいいのかわからないままに、自分を振り払うフォルクハルトの腕にしがみついてしまったというわけだ。見苦しい。しかしそう思う反面、少しの興味くらい持ってくれてもよかろうものをと思う身勝手な気持ちもまた確かに自分のものだった。
これからどうしたものか。
思案のために三度目の溜息をつきかけたとき、突然フォルクハルトの声が背後で響きダニエルの気持ちは飛び跳ねた。
「お部屋を用意しました。ご案内しましょう」
部屋?
一瞬何を言われたのかわからず息が止まった。宿泊する部屋のことだとわかったときには苦笑とも微笑ともとれぬ曖昧な笑みが顔に浮かび、皮肉な気分が支配した。こんなにも
それは当然のようでもあり、意外なようでもあった。
先刻の冷淡な態度からして、フォルクハルトなら自分を地下に放りこみかねないとダニエルは考えたのだ。そうして牢の入り口で城に留まるか去るかの二択をダニエルに迫る、そんな残忍な光景がまた妙にこの男は似合う。そしてそれをされても、おそらく今の自分は城の外に出る道は選ぶまい。ダニエルは思った。
例外が起きたならば、それでいい。ただ自分は最後まで見届け、見極めるだけだ。西ゴールのために何ができるか、祖国のために何をすべきか、この命の炎をどこで投げ捨てるか、ダニエルがすべきことは最善の道を見つけることだけだ。
半ば諦めの気持ちを抱えながらダニエルは立ち上がろうとした。
「…………」
しかし、立ち上がれなかった。
そんなばかなと焦るも、立ち上がれないものは立ち上がれない。もたもたとしていると横に巨大な影が立ち
「まさか、その椅子に籠城する気ですか?」
「いいえ!」
恥ずかしさのあまり、思っていた以上に大きな声が出た。ダニエルは赤面して視線を泳がせたが、それを見下ろす黒い瞳に動揺の気配はない。
深い闇だとダニエルは思う。最初に見た時から思っていた。何を考えているのかまるでわからない。そこにダニエルを映しているのかどうかも不明だ。だからこそ余計にその深淵を知りたいと望み、その意識に自分を擦りこませたいと欲してしまう。
「では、立ち上がっていただけませんか?」
フォルクハルトは言った。「お部屋にご案内しますので」
「……できないのです」
消え入りそうな声でダニエルは答えた。フォルクハルトはすぐに眉を
少しは察してくれてもいいものを!
ダニエルは身勝手に憤慨し、口を
「立てないのです」ダニエルは紅潮した顔で言った。恥ずかしさのあまりに耳まで熱い。「腰が抜けてしまったようです。その……」ほっとしたものですから、たぶん。
言った
フォルクハルトはどうしたことか何も言葉を発しない。気まずい沈黙になった。消えて、しまいたい……!
と、
「それでよく、このような交渉の場に臨みましたね」
素っ気ない態度にダニエルの反発心が刺激された。「仕方ないではありませんか!」
「はあ、仕方ない、ですか」
「だって!」と、ダニエルは言ったが、続く言い訳はフォルクハルトの「失礼」と呟く声に掻き消された。
消してくれてよかったとダニエルは思う。そうでなければ何を言い出したかわからない。しかし、そこからは事件だった。二本の腕がなんの
「何をするんですか!」
「仕方ないではありませんか」
ダニエルの言い分をそっくり嫌味で返してフォルクハルトは言い放った。「歩けないのなら」
「…………」
ダニエルは絶句したまま奥歯を噛みしめた。
第五章 錯綜する想い
1
町の外に出たばかりの女の表情は憂鬱そのものだった。それを覗き見る遠眼鏡から視線を外し、軽い笑みを浮かべてウドは目頭を押さえた。単純なものだ。