第41話 ティアーズフォーフィアーズ その1

文字数 2,525文字

 金色の光が世界の全てとなっていた。

 アイシャはミセスと一緒にどこか異なる空間に閉じ込められてしまっている。ヨウジの声もポピンズ夫人の声も聞こえない。それどころか世界が静寂に支配されているようだった。

 金色の光だけの静かな世界。

 異空間。

 ティアーズフォーフィアーズ。

 アイシャの頭の中に男の声が響いた。あの渋みのある声だ。

 ミセスが身構えた。彼の左胸にある青リンゴのワッペンが弱々しく点滅する。ミセスだけではなく彼の精霊も疲れ切っているようだった。もっとも、精霊に疲労の概念があるのかどうかアイシャにはわからない。

「何なの? 僕たちをこんなところに閉じ込めてどうするつもり?」

 ミセスの問いに返事はない。

 空間に星形の模様が浮かんだ。

 まわりをぐるりと文字とも数字とも思える記号が囲みくるくると回りながら光を放つ。金色の光が輝きを強め溢れ出た。人の形をとりしだいにその姿を明確にしていく。

「……何?」

 アイシャはぎゅっと拳を握る。警鐘が頭の中で鳴っていた。失われていた自信が戦意を鈍らせていたが身を守る本能は残っていた。

 それにあの声は「試練」と言っていた。

 それがどんなものであれ、ここに引きずり込まれてしまったからには避けられないのであろう。逃げられないのであれば抗う他に道はない。

 降参なんてしたくなかった。

 自分にはやらねばならぬことがある。

 果たせるかどうかはわからないが、まだ諦める訳にはいかないのだ。

 人型の光が完全に実体化しないうちにアイシャは殴りかかった。

「ウダァッ!」

 瞬時にダーティワークを発現させ、拳を振るう。

 拳は光を貫いた。手応えはなく、空を殴っているような感覚に陥る。アイシャの攻撃などなかったかのように光はその変化を完全なものとした。

「くっ」

 見えない力がアイシャを襲った。

 防御が間に合わず彼女は後ろに吹き飛ばされる。放物線を描いて落ちた。仰向けに倒れたが痛みはない。しかし、微かな悔しさと目に見えぬ攻撃への驚きが動揺となって彼女の心にさざ波を起こした。

 心音がうるさくなっていく。

 アイシャは深く息をついた。気力を奮い立ち上がる。拳を握り直してファイティングポーズをとった。

「アイシャ」

 ミセスが駆け寄る。心なしか動きが鈍い。

「気をつけて、どんな能力かよくわからないうちに攻めても危険なだけだよ」
「先手必勝とも言うわ」

 二人で敵を見る。

 白いローブを纏った男がいた。

 痩せた男だ。身長はミセスより少し低い。鷲のような目が眼光を光らせていた。やや高い鼻の下にはつまらなそうにむすっとした薄い口。もっさりとした黒髪が額を狭めている。どこか陰気で神経質そうな印象があった。

 右肩には一羽の灰色の鳥。

 男の頭より一回り大きなサイズだ。色こそ灰色だがその姿形はクジャクそのものだった。あれがこの男の契約した精霊だろうか。

 額に金色の宝石をつけているのだからそうかもしれない。

 アイシャがもう一度攻撃しようとするとミセスが手で制した。

「慌てたら駄目だよ。それとも警戒心をポイッと捨ててる?」
「……」

 警戒していないのではなくさっさと片づけたいだけなのだが、自分の行動が行動だっただけに何を言い訳しても説得力はなさそうに思える。アイシャはやむなく前のめりになっていた身を引いた。

 ミセスが手を下ろす。

「……君を吹き飛ばしたのはあのクジャクみたいな奴だよね?」
「たぶん……姿は見えなかったけど」
「直接仕掛けてくるタイプかな? 試練がどうのとか言ってたよね?」

 アイシャは見当もつかないといったふうに首を振った。

 もっさりとした男が細い指を向けてくる。

「アボイドノートの封印を解こうとするのなら試練を乗り越えるのだ」
「ええっと、僕はここを出たいだけなんだけどなぁ。彼女と一緒に外に出してくれない? そのなんたらノートには興味ないし」
「試練は受けてもらうぞ」

 ミセスが軽い口調で頼むが男は聞き入れない。

 男の肩の上でクジャクが翼を広げた。想定よりずっと大きな翼だ。

「ティアーズフォーフィアーズ」

 男の声とクジャクの甲高い鳴き声が重なった。

 アイシャたちを包むように光が密度を高めていく。文字とも数字ともとれる記号がぐるぐると身体に巻きついた。解こうとしたが触れることもできない。

 光の戒めとなったそれはそこにないもののように透化していた。

 ミセスが呻く。

 青リンゴのワッペンが薄緑色の宝石をキラリとさせた。ミセスの身体が陽炎のように揺らめくがそれだけだった。セーフティ・パイをちゃんと発動させるには回復が足りなかったようだ。

「くっ、いつもならこんなものどうってことないのに」
「試練を終えぬうちは逃がさんぞ」

 男がより険しい表情になる。言葉の温度が数度下がった。冷ややかに見下す視線は細い刃のようだ。

 一つ思い至りアイシャはたずねた。

「あなたアボイド・アップルなの?」

 ポピンズ夫人はアボイドが契約者(リンカー)だと言っていた。

 もしかするとアボイドノートの秘密を守るために自らの能力で封印をかけたのではないか?

「アボイドはもういない」

 男の声の温度がまた下がる。

 僅かに怒りを込めて彼は告げた。

「月の魔女が望もうと失われたものはもう戻らない。だが、我は可能性を与えることができる。時の狭間に身を沈め、過去と向き合え。お前らが適任者であれば未来を拓けるであろう」

 アイシャは眉をひそめた。

 胸中に疑念が生まれる。もしかして、いやそんなはずは……と心の中で自問自答を繰り返す。だが、男の言葉から導き出される能力はそう多くない。

 まさか。

 ミセスが言った。

「こいつ、僕たちを過去に飛ばそうとしてる?」
「……」

 もしそうなら、あのクジャクは時の精霊か何か?

 答えを得るよりも早くアイシャは眩しすぎる光に覆われた。意識のどこかで誰かの呼び声が聞こえる。懐かしく温かい気持ちになれる声だ。

 アイシャ。

 女性の柔らかな声だと気づいたとき、世界が暗転し、真っ暗になる。傍にいるはずのミセスの気配がなくなった。それどころか自分がいた異空間でさえ感じられなくなっている。


 ……お母さん。


 漆黒の闇が世界の全てとなり、アイシャの意識は溶けていった。
 
 
 
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