第52話 その甘さ

文字数 3,333文字

 ドリスのフライミートゥザムーンの効果範囲外となったパーパスの一部が小さな水色の化け物となって飛び上がった。

「ああもうウザい!」

 子供じみた声が心底嫌そうに響き渡る。水色の化け物の身体が水飛沫を上げながら中空にアーチを描いた。狙っているのはヨウジだ。

 あと少しというところまで接近したとき見えない力が働き、垂直に水色の化け物を床に叩きつけた。

「ジャスティン、させないって言ったでしょ」
「あー本当にウザい」

 ぐしゃりと潰れた水色の化け物は水溜まりに変じて別の位置で新たに姿を形成する。

 フライミートゥザムーンのベクトルを操る能力のレンジは指定したポイントを中心に二メートルまでだ。つまりその範囲の外側に対しては無力。

 一方、水に溶け込む能力であるパーパスはその身体が浸透してさえいればバラバラにされても活動できる。遠距離でも行動可能なこの水の精霊は「水」でいられる限り、撃たれようが殴られようが潰されようが契約者(リンカー)本体へのダメージが一切生じないようになっていた。

 ほとんど無敵の能力である。

 何度か目の攻防を繰り返してから水色の化け物はフライミートゥザムーンの効果の届かない位置で形を取り戻しクククと嘲った。

「うーん、そろそろ諦めたら? 君には僕を倒すなんて無理だと思うよ」
「あなたもいい加減こんなことはやめなさい。大体、どうして私じゃなくヨウジを狙うの?」
「そんなの決まってるでしょ」

 ククク、と下卑た笑いが零れた。

「こいつ弱いし、ソウルハンターも要らないって言ってたからね。だから殺しちゃっても問題なぁーし♪」
「はぁ?」

 ヨウジが頓狂な声を発した。

「おい、ふざけんな」

 ヨウジが床に落ちているティーカップの破片を左手に置いた。彼の頭の傍で滞空していた風の精霊がむうと頬を膨らませながら水色の化け物を指差す。「あんな奴殺っちゃえ!」と言わんばかりに額の宝石をキラキラさせた。

「ラッドウインプス!」

 右手の指で左手の上にあるティーカップの破片を弾いて攻撃する。バビューンという音を響かせて光弾は水色の化け物へと飛んでいった。

 パシャリ。

 水温を散らして水色の化け物があっけなく四散する。しかしあたりに散らばった水がさらなる敵を生んだ。サイズを変えた水色の化け物たちが声を揃えて嘲笑する。

「そんなへなちょこな攻撃僕には効かないよ♪」
「ちっ」

 ヨウジが舌打ちした。その横で天使のような風の精霊が鼻を鳴らす。

 さらに攻撃を加えようと床に手を伸ばすヨウジをドリスが制した。

「無駄弾になるだけだわ。ここは私に任せて」
「いや、まあ、そうかもしれないけど」
「かもしれないじゃなくて無駄なんだよぉ」

 小さな水色の化け物たちは同時にジャンプした。幾本もの水のアーチがヨウジへと伸びる。

 その勢いをフライミートゥザムーンのベクトル攻撃が阻んだ。全てを一つの水の塊に纏めて床に押しつける。今度は水飛沫すら許さなかった。薄く広くべったりと押し伸ばしていく。

「だーかーらーそっちに気を取られるとこっちが動けるんだってばぁ」

 別の水溜まりが化け物へと変じてヨウジに飛びかかる。

 くっと一声漏らしてドリスがベクトルのポイントを変更した。間近までヨウジに迫っていた水色の化け物をさっきの化け物のところに重ねていく。一纏めになった敵にぎゅうぅっと圧力をかけた。

「これであなたは動けない」
「……」

 無言になる水色の化け物。

 ドリスが僅かにニヤリとした。

「あら、減らず口はどうしたの? それとも観念したのかしら?」

 ジャァーッ!

 誰も手を触れていないのにいきなりシンクの蛇口から大量の水が流れ出た。

 そのあまりの突然さにドリスの意識が逸れる。しかし、長年の魔女の経験がフライミートゥザムーンのコントロールを狂わせるようなヘマを許さなかった。ベクトル操作による水色の化け物への圧力は一瞬の迷いもなく続いている。

「ええっと、もう少しくらいびっくりしてよ」

 蛇口のレバーの上に乗ったとても小さな水色の化け物がつまらなそうに身体を揺らす。これまでの攻撃と別に行動していたらしきこの化け物はシンクの底を打ち鳴らす水へと滑り込んだ。

 パーパスは水に溶け込む能力。

「ジャーン! ふっかーつ」

 元のサイズに大きさを戻した水色の化け物が嬉々として赤い目と額の宝石を輝かせる。するりと滑るようにシンクから飛び降りた化け物が嬉しさ全開でヨウジを襲撃した。

 ドリスが慌ててフライミートゥザムーンのポイントを移そうとするが間に合わない。

 ヨウジまであと僅か。

「……ホーム」

 水音にかき消されそうなか細い声がし、床からにゅるりと白い手が現れた。その手はすんでのところで水色の化け物を捕らえ、逃げる隙も与えずその身体をフライミートゥザムーンの効果範囲へと投げつける。

 ぎゃあっと小さな悲鳴が響いた。

 ベクトルが新たな獲物を巻き込んでいく。

「何だょ、そいつまだ生きているのかよ!」

 信じられないといった声音だった。

 弱々しく呻きながらポピンズ夫人が起き上がる。白い髪飾りについた水色の宝石が不敵に微笑むかのようにキラリと輝いた。。うっすらと夫人の身体から薄青いオーラが立ち上る。

 その傍でヨウジと風の精霊がぽかんと口を開いて彼女を見つめていた。

「ヨウジをいじめる人は……許しません」

 ポピンズ夫人が潰れている水色の化け物を険しい目つきで睨む。

「それにここは私のホームスイートホームの中。先程は不意をつかれましたがもう好きにはさせませんよッ!」

 どっと天井や壁や床から白い手が現出した。無数に生えた手は威嚇するように統制された動きで波を描く。

「それと私は本体のない存在。契約者本体のポピンズ夫人はすでに彼岸へと旅立っています。私は彼女の残留思念と同化して仮初めの姿を得ているにすぎません。そして半精神体であるこの身体は不死身。故に殺すことは不可能です」
「ひっ」

 恐怖の色に染まった小さな声が水色の化け物から発せられた。

 だが、すぐに子供じみた声が虚勢を張る。

「ふ、ふーんだ。いくら脅かそうとしたって怖くなんかないぞ。僕のパーパスは無敵なんだ」
「その割にはお手上げみたいですけど。それとも、その状態から反撃できるんですか?」
「うっ」

 口ごもった声に被せるようにドリスが告げた。

「ジャスティン、あなたのパーパスは無敵じゃないわよ」

 見えない力がそのベクトルをさらに変化させる。じゅわっと音を響かせて潰れた水色の化け物が気化し始めた。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 叫び声が室内に響き渡る。おぞましいまでの絶叫は「水」としての存在を奪われる悲鳴だった。

 じゅわじゅわと水色の化け物はその姿を縮めていく。どうやら気体となった部分には溶け込めないようだ。

 ドリスが説明する。

「水は水素と酸素からできている。だからそれをベクトル操作で分解してしまえばもう水でいられなくなるッ! 肝心の水を失ったらあなたはどうなるのかしらね?」
「こ、こんな奴に僕がぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 その声を無視してドリスが細かなベクトルのコントロールに集中しようと目を細めた。額に汗が浮かぶ。

 じゅわじゅわと音を立てて水色の化け物が気化していった。勝利を確信したドリスは口の端を緩める。

 が、

 ドスッ!

 突如、背後から手刀が放たれドリスを突き貫いた。はっと彼女が目を見開くがもう遅い。一瞬の出来事すぎて対応もできなかった。

「甘いな、その甘さが君の命取りになった」

 透化を解いたローゼンバーグが淡々と言い、やや感慨深そうに付け加える。

「ずっと前から決めていた。君が最後の一枚だとね」
「そうる……ハンター」
「今までありがとう。そして、さようなら」

 ズボッと手を引き抜きソウルハンターが崩れ倒れそうになるドリスの頭を両手で掴む。あまりのことにヨウジもポピンズ夫人も反応できなかった。ソウルハンターの両手が銀色に光り、ドリスをカード化させていく。

 煌めく銀色の光が収束してカードとなり、ソウルハンターことキツネのマジシャンはそれをローゼンバーグに手渡した。満足そうにカードを眺めるローゼンバーグが口角を上げる。

 彼はうなずき、言った。

「もうすぐだ……もうすぐ会えるぞ、ミーシャ」
 
 
 
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