第1話 少女の覚醒・フェンリルとダーティワーク(前編)
文字数 3,745文字
礼拝堂の中で先輩シスターたちが倒れている。
四人が四人とも氷付けだ。
礼拝堂はひんやりとした空気に包まれており、ところどころに氷塊が生まれていた。ステンドグラスには霜がついており、本来なら豊かな色彩の宗教画を曇らせている。傾きかけた九月の陽光はほとんど差し込んでいない。長椅子はどれも氷を張っていて、ある意味不思議な光景を作り出していた。
誰の血だろうか聖母像の白い肌に赤いものが貼りついている。
高城アイシャ(たかぎ・あいしゃ)十七歳は凍った床で滑るのも構わず先輩の一人に駆け寄った。
修道院長であるシスターマリーの言いつけで地域の学校に行っていたのだが、夕方に帰ってみるとこの惨状だった。
訳がわからなかった。
アイシャは真っ先に倒れているシスターの中にマリーの姿を探したがこの中に彼女の姿はなかった。
白い修道服が氷で濡れるのも構わず、アイシャは自分と一番年齢が近いシスターセレスの前に膝をついた。
「シスターセレス!」
無駄とわかっていても声をかけずにはいられなかった。
身長一六五センチのアイシャは両手で冷たくなったセレスに触れ、その華奢な身体を使って力任せに揺らした。
もしかしたら……ひょっとしたら……とかすかに機体を込める。
だが頭にこびりついた絶望がそんなちっぽけな希望を嘲うようにセレスは目覚めなかった。
「シスターセレス!」
アイシャはその美しい顔を歪ませた。
切れ長の目から涙が一筋また一筋と零れていく。つんとした鼻をすすり、薄く小さな口を大きく開いて避けんだ。
「そんなっ、どうしてっ!」
涙が止まらなかった。
空気は冷たいのに、先輩のシスターたちは冷たいのに、アイシャだけが熱くなっていた。
*
アイシャがこの聖アルガーダ修道院に来たのは十二年前だ。
五歳の誕生日を迎えた一週間後、アイシャの家族は何物かによって惨殺された。
父も母も兄も妹も、そして飼い犬のロッキーもみんな殺された。
母の起点で衣装ケースに身を隠したアイシャだけが生き残った。
激しい暴力の音と悲鳴がアイシャの耳と記憶に刻まれた。
やめて。
衣装ケースの中で身を縮め、息を殺して涙すら我慢してアイシャは願った。
やめて!
もうやめて!
それでも惨劇は終わらなかった。
父も母も兄も妹もロッキーも……みんな殺された。
誰もが死んで、誰もが動かなくなって、やっと襲撃者はいなくなった。
ただ一人、アイシャだけが生き残った。
どうして……。
どうして……!
絶望と悲しみと怒りを胸に五歳のアイシャは衣装ケースの中で意識を失った。
事件が表に鳴り、ほどなくしてアイシャは施設に送られた。
誰もアイシャを引き取ってくれず、数ヶ月の間彼女は施設で過ごした。
アイシャは荒れた。
年上だろうと誰であろうと構わず気に食わない相手には殴りつけた。
どんなに注意されようと、どんなに処罰を受けようとアイシャの暴力は止まらなかった。
大人たちは彼女の身に降りかかった悲劇に原因があると判じた。正式な診断には時間がかかったが、施設で持て余されたアイシャは聖アルガーダ修道院へと送られることとなった。
修道院に来てもアイシャの暴力は収まらない……かと思われた。
結論から言うとアイシャはシスターマリーによって救われた。
マリーには不思議な力があった。
「神のご加護です」
と、マリーは説明したがアイシャにはそれ以上の何かを感じた。
アイシャは彼女の癒しの力に名前をつけていた。
「マァムハンド」
お母さんの手。
マリーはアイシャにとって第二の母親となっていた。
しかし……。
*
シスターマリー。
アイシャは礼拝堂を出て修道院長を探す。脳裏に十二年前のことがよみがえっていた。
先輩シスターたちの姿が頭をよぎり、不安にさらなる不安が覆い被さる。まさか、いやそんな、と声にならない胸騒ぎが焦りをともなってアイシャを突き動かした。
「シスターマリー!」
叫びながら食堂に飛び込んだアイシャの目に二つの姿が映った。
一人は修道服のフードを外してブロンドの長い髪をあらわにしたシスターマリー。
もう一人は知らない男だった。
ダークグレイノスーツを着た男はアイシャに背を向けていて顔は見えない。奇妙なくらい鮮やかな銀髪を背中当たりまで伸ばしており、首の後ろで一つに束ねていた。耳や首の色から白人ではないかとアイシャは推測する。
男は片手でマリーの首を絞めていた。おかしなことに男の姿にはもう一つの影のようなものがだぶっていた。
整った顔を苦痛に歪ませたマリーのアーモンド型の目が光を失いかけていた。
形の良い鼻と口が色を薄くする。
アイシャは無意識のうちにマリーの死期を予感した。
助けなくてはならない、そう頭ではわかっているのに身体が動かなかった。男から発する邪悪とも呼べる威圧感が彼女の足を竦ませていた。
男が言った。
「シスターマリー、君には不思議な能力がある。それは精霊の力によるものだね」
「……」
マリーは答えない。
答えられるはずもなかった。
男はふむ、と息をつき、続けた。
「察するに君は安らぎの精霊と契約しているようだ。つまり、君は契約者(リンカー)だね」
だぶっていた男の影のようなものがマリーの頭を掴む。
がっしりと両手で掴んでいた。それはとても禍々しいものに見えたがアイシャにはどうしようもなかった。
影のようなものの手が銀色に光る。
光はマリーの身体を包んだ。きらきらときらめいて彼女はゆっくりと形を変えた。光は凝縮されやがて一枚のカードとなる。
シスターマリーは消えた。
いや、カードにされてしまったと言うべきか。
ふわりとカードはだぶついている男の影の手に飛んでいく。影は男にカードを渡した。
男は軽くうなずき、もう片方の手で指をぱちんと鳴らした。
「はいはーい」
アイシャの背後で快活な若い女性の声がした。
その声が合図となってアイシャの硬直が解かれた。
アイシャは声の主に振り返る。
栗色の髪をゆるふわにした女がいた。
色白できれいな顔をしていたがどこか冷たい印象がある。左目の下に小さなほくろがありやけに色っぽい。シンプルなデザインの青いワンピースが彼女の動きに合わせて揺れた。
「オリビア、その娘は任せていいかな?」
「もちろんよダーリン」
オリビアがウインクした。
「この娘も含めて全員始末してあげる」
物騒な物言いだった。そのくせまるでテーブルの上のお菓子を全部食べてしまおうといった軽薄さが口調からうかがえた。
「で、ソウルハンター、あなたはどうするの? 星神島(ほしかみじま)に帰るの?」
「そうだな。目的も果たしたことだし」
オリビアは微笑んだ。
「また会ってくれるわよね?」
「もちろん」
男が別のカードを手にする。
それを自身の頭にかざした。銀色の光がまばゆく輝き、瞬間男ともども消失する。何かのイルージョンヲ見せられているかのようであった。
男がいなくなりオリビアが笑みを広げた。
ドスのきいた声で。
「さて、始めましょうか」
*
オリビアの肩の上に冷気が白く凝固する。
それはゆっくりと変異して薄青いフェレットのような姿を形成した。体の色もそうだが額にサファイヤとも思しき宝石が埋め込まれているのも異様だった。
あれは何?
……とは思わなかった。
アイシャの心を占めていたもの。
それは怒りだった。
許せない。
許せない。
許せない。
許せない……。
家族を皆殺しにされたときに抱いたどす黒い感情がアイシャを支配していた。頭の中が真っ黒になっていた。真っ白ではない、真っ黒だ。
父も母も兄も妹もロッキーも殺された。
先輩シスターたちも殺された。
シスターマリーも……。
みんな。
みんな……。
怒れ。
身体の内で何かの声が聞こえた。
怒れ。
それは決して聖なるものと思えぬ澱んだ声だ。
アイシャは悪魔の存在を感じた。
悪魔ではない。
それは言った。
なだめるでもなく、だまそうとするのでもなく、淡々とそれは言った。
悪魔ではない。我は精霊なり。
「……」
精霊という単語にアイシャは聞き憶えがあった。
オリビアが「ソウルハンター」と呼んでいた男が口にしていた単語。シスターマリーが契約していた存在。彼女の癒しの力の元。
精霊。
アイシャの身体がぞわりとした。内から黒く熱いものが吹き出してしまいそうな感覚に襲われる。
だが、彼女はそれが何であれ今必要なものだと判じた。
アイシャは怒っていた。
憤怒が彼女を塗り替えていた。
聖であれ邪であれ自分の怒りを相手にぶつけられるなら何でも良かった。
それは神の教えに背くのかもしれない。
信仰を裏切るのかもしれない。
けれど神は家族を助けてくれなかった。
シスターたちも救ってくれなかった。
マリーも……。
お願い、力を貸して。
アイシャの心の声に精霊が応じた。
汝、我と契約するか?
ええ、だから力を貸して。
アイシャの中で何かが弾けた。
全身の血液が沸騰しているのではないかというくらいの熱を苦痛ではなく快楽として知覚した。。
時間として数秒。
いや、もっと短かったかもしれない。
オリビアの攻撃が始まる直前、アイシャの身に恐るべき速さで変化が生じていた。
四人が四人とも氷付けだ。
礼拝堂はひんやりとした空気に包まれており、ところどころに氷塊が生まれていた。ステンドグラスには霜がついており、本来なら豊かな色彩の宗教画を曇らせている。傾きかけた九月の陽光はほとんど差し込んでいない。長椅子はどれも氷を張っていて、ある意味不思議な光景を作り出していた。
誰の血だろうか聖母像の白い肌に赤いものが貼りついている。
高城アイシャ(たかぎ・あいしゃ)十七歳は凍った床で滑るのも構わず先輩の一人に駆け寄った。
修道院長であるシスターマリーの言いつけで地域の学校に行っていたのだが、夕方に帰ってみるとこの惨状だった。
訳がわからなかった。
アイシャは真っ先に倒れているシスターの中にマリーの姿を探したがこの中に彼女の姿はなかった。
白い修道服が氷で濡れるのも構わず、アイシャは自分と一番年齢が近いシスターセレスの前に膝をついた。
「シスターセレス!」
無駄とわかっていても声をかけずにはいられなかった。
身長一六五センチのアイシャは両手で冷たくなったセレスに触れ、その華奢な身体を使って力任せに揺らした。
もしかしたら……ひょっとしたら……とかすかに機体を込める。
だが頭にこびりついた絶望がそんなちっぽけな希望を嘲うようにセレスは目覚めなかった。
「シスターセレス!」
アイシャはその美しい顔を歪ませた。
切れ長の目から涙が一筋また一筋と零れていく。つんとした鼻をすすり、薄く小さな口を大きく開いて避けんだ。
「そんなっ、どうしてっ!」
涙が止まらなかった。
空気は冷たいのに、先輩のシスターたちは冷たいのに、アイシャだけが熱くなっていた。
*
アイシャがこの聖アルガーダ修道院に来たのは十二年前だ。
五歳の誕生日を迎えた一週間後、アイシャの家族は何物かによって惨殺された。
父も母も兄も妹も、そして飼い犬のロッキーもみんな殺された。
母の起点で衣装ケースに身を隠したアイシャだけが生き残った。
激しい暴力の音と悲鳴がアイシャの耳と記憶に刻まれた。
やめて。
衣装ケースの中で身を縮め、息を殺して涙すら我慢してアイシャは願った。
やめて!
もうやめて!
それでも惨劇は終わらなかった。
父も母も兄も妹もロッキーも……みんな殺された。
誰もが死んで、誰もが動かなくなって、やっと襲撃者はいなくなった。
ただ一人、アイシャだけが生き残った。
どうして……。
どうして……!
絶望と悲しみと怒りを胸に五歳のアイシャは衣装ケースの中で意識を失った。
事件が表に鳴り、ほどなくしてアイシャは施設に送られた。
誰もアイシャを引き取ってくれず、数ヶ月の間彼女は施設で過ごした。
アイシャは荒れた。
年上だろうと誰であろうと構わず気に食わない相手には殴りつけた。
どんなに注意されようと、どんなに処罰を受けようとアイシャの暴力は止まらなかった。
大人たちは彼女の身に降りかかった悲劇に原因があると判じた。正式な診断には時間がかかったが、施設で持て余されたアイシャは聖アルガーダ修道院へと送られることとなった。
修道院に来てもアイシャの暴力は収まらない……かと思われた。
結論から言うとアイシャはシスターマリーによって救われた。
マリーには不思議な力があった。
「神のご加護です」
と、マリーは説明したがアイシャにはそれ以上の何かを感じた。
アイシャは彼女の癒しの力に名前をつけていた。
「マァムハンド」
お母さんの手。
マリーはアイシャにとって第二の母親となっていた。
しかし……。
*
シスターマリー。
アイシャは礼拝堂を出て修道院長を探す。脳裏に十二年前のことがよみがえっていた。
先輩シスターたちの姿が頭をよぎり、不安にさらなる不安が覆い被さる。まさか、いやそんな、と声にならない胸騒ぎが焦りをともなってアイシャを突き動かした。
「シスターマリー!」
叫びながら食堂に飛び込んだアイシャの目に二つの姿が映った。
一人は修道服のフードを外してブロンドの長い髪をあらわにしたシスターマリー。
もう一人は知らない男だった。
ダークグレイノスーツを着た男はアイシャに背を向けていて顔は見えない。奇妙なくらい鮮やかな銀髪を背中当たりまで伸ばしており、首の後ろで一つに束ねていた。耳や首の色から白人ではないかとアイシャは推測する。
男は片手でマリーの首を絞めていた。おかしなことに男の姿にはもう一つの影のようなものがだぶっていた。
整った顔を苦痛に歪ませたマリーのアーモンド型の目が光を失いかけていた。
形の良い鼻と口が色を薄くする。
アイシャは無意識のうちにマリーの死期を予感した。
助けなくてはならない、そう頭ではわかっているのに身体が動かなかった。男から発する邪悪とも呼べる威圧感が彼女の足を竦ませていた。
男が言った。
「シスターマリー、君には不思議な能力がある。それは精霊の力によるものだね」
「……」
マリーは答えない。
答えられるはずもなかった。
男はふむ、と息をつき、続けた。
「察するに君は安らぎの精霊と契約しているようだ。つまり、君は契約者(リンカー)だね」
だぶっていた男の影のようなものがマリーの頭を掴む。
がっしりと両手で掴んでいた。それはとても禍々しいものに見えたがアイシャにはどうしようもなかった。
影のようなものの手が銀色に光る。
光はマリーの身体を包んだ。きらきらときらめいて彼女はゆっくりと形を変えた。光は凝縮されやがて一枚のカードとなる。
シスターマリーは消えた。
いや、カードにされてしまったと言うべきか。
ふわりとカードはだぶついている男の影の手に飛んでいく。影は男にカードを渡した。
男は軽くうなずき、もう片方の手で指をぱちんと鳴らした。
「はいはーい」
アイシャの背後で快活な若い女性の声がした。
その声が合図となってアイシャの硬直が解かれた。
アイシャは声の主に振り返る。
栗色の髪をゆるふわにした女がいた。
色白できれいな顔をしていたがどこか冷たい印象がある。左目の下に小さなほくろがありやけに色っぽい。シンプルなデザインの青いワンピースが彼女の動きに合わせて揺れた。
「オリビア、その娘は任せていいかな?」
「もちろんよダーリン」
オリビアがウインクした。
「この娘も含めて全員始末してあげる」
物騒な物言いだった。そのくせまるでテーブルの上のお菓子を全部食べてしまおうといった軽薄さが口調からうかがえた。
「で、ソウルハンター、あなたはどうするの? 星神島(ほしかみじま)に帰るの?」
「そうだな。目的も果たしたことだし」
オリビアは微笑んだ。
「また会ってくれるわよね?」
「もちろん」
男が別のカードを手にする。
それを自身の頭にかざした。銀色の光がまばゆく輝き、瞬間男ともども消失する。何かのイルージョンヲ見せられているかのようであった。
男がいなくなりオリビアが笑みを広げた。
ドスのきいた声で。
「さて、始めましょうか」
*
オリビアの肩の上に冷気が白く凝固する。
それはゆっくりと変異して薄青いフェレットのような姿を形成した。体の色もそうだが額にサファイヤとも思しき宝石が埋め込まれているのも異様だった。
あれは何?
……とは思わなかった。
アイシャの心を占めていたもの。
それは怒りだった。
許せない。
許せない。
許せない。
許せない……。
家族を皆殺しにされたときに抱いたどす黒い感情がアイシャを支配していた。頭の中が真っ黒になっていた。真っ白ではない、真っ黒だ。
父も母も兄も妹もロッキーも殺された。
先輩シスターたちも殺された。
シスターマリーも……。
みんな。
みんな……。
怒れ。
身体の内で何かの声が聞こえた。
怒れ。
それは決して聖なるものと思えぬ澱んだ声だ。
アイシャは悪魔の存在を感じた。
悪魔ではない。
それは言った。
なだめるでもなく、だまそうとするのでもなく、淡々とそれは言った。
悪魔ではない。我は精霊なり。
「……」
精霊という単語にアイシャは聞き憶えがあった。
オリビアが「ソウルハンター」と呼んでいた男が口にしていた単語。シスターマリーが契約していた存在。彼女の癒しの力の元。
精霊。
アイシャの身体がぞわりとした。内から黒く熱いものが吹き出してしまいそうな感覚に襲われる。
だが、彼女はそれが何であれ今必要なものだと判じた。
アイシャは怒っていた。
憤怒が彼女を塗り替えていた。
聖であれ邪であれ自分の怒りを相手にぶつけられるなら何でも良かった。
それは神の教えに背くのかもしれない。
信仰を裏切るのかもしれない。
けれど神は家族を助けてくれなかった。
シスターたちも救ってくれなかった。
マリーも……。
お願い、力を貸して。
アイシャの心の声に精霊が応じた。
汝、我と契約するか?
ええ、だから力を貸して。
アイシャの中で何かが弾けた。
全身の血液が沸騰しているのではないかというくらいの熱を苦痛ではなく快楽として知覚した。。
時間として数秒。
いや、もっと短かったかもしれない。
オリビアの攻撃が始まる直前、アイシャの身に恐るべき速さで変化が生じていた。