第35話 セーフティ・パイには限界がある

文字数 2,928文字

「僕はミセス、透明の精霊の契約者(リンカー)」

 女のような美貌の男がニヤリとしながら名乗る。

 悪戯っぽく笑うその顔は思わず見とれてしまいそうだった。ヨウジは内心の焦りを隠すように彼から目をそらす。ポリポリと頬をかいてその場を取り繕った。うまくいったかどうかはこの際気にしない。

 ヨウジのすぐ傍で天使の姿をした風の精霊がむうっとふくれっ面をした。「こんな奴に惑わされないで」とでも言いたげにくいくいと袖を引っぱる。

「どうもその子には嫌われちゃったみたいだね、残念」

 ミセスがさして残念でもなさそうに言い、まわりにいる狼の姿をした青い化け物たちを見遣る。

「本当にしつこいなぁ」
「どうするんだ? このまま逃げるのか?」
「君が対処してくれないならそうするしかないね。敵をぞろぞろ連れて行ったらアイシャが怒るかな?」
「……あんた、アイシャの何なんだ」
「友だち、かな?」

 首を傾げるミセスについため息が出た。何と言うか呆れる。

「どうして疑問系なんだよ」
「少なくとも、僕は彼女の友だちのつもりだけど」

 化け物がまた唸りを上げた。

 ほぼ周囲を塞いだ化け物たちはじりじりと距離を詰める。ヨウジはきゅっと口を結び、レジ袋から缶コーヒーのフタを取り出した。左手の上に置き行く手を阻む化け物の一体に狙いをつける。

 ぱたぱたとラッドウィンプスが左手の横に滞空した。狙いをつけた化け物を指差す。「やっちゃえ!」と煽る声が聞こえてきそうだ。

「排除よろしく」

 ミセスのふざけた口調には少しムカついた。

 右手の人差し指でフタを弾く。

 バビューン!

 白い光の筋を描きながら光弾が飛んでいく。

 化け物が避けようとしたが遅かった。その鼻面に勢いよく着弾する。小気味よい音を散らして化け物が粉砕した。さっき同様やけにあっさりだ。

 突破口が出来るとヨウジは走りだした。その後をラッドウィンプスとミセスが追う。

 怒りの咆哮を上げて襲いかかる化け物もいたが透化しているおかげでダメージには繋がらない。傷をつけるどころか触れることさえできない。ある意味無敵だ。

「あ、そうそう」

 走りながらミセスが打ち明けた。

「さっきの話、嘘なんだ」
「はぁ? どういうことだ?」

 自分でも間の抜けた声だった。

「だから僕の匂いを追ってるんじゃないってこと。本当はなぜ追跡されるか僕にもよくわかんないんだよね。だって僕のセーフティ・パイは簡単に探知されるような低レベルの能力じゃないもの」
「おい、ふざけんな。それなら俺まで逃げる必要ないじゃないか」
「そうだね」

 即答。

 ミセスがまたニヤリとした。

「でも、もう君もあいつらの標的になってるかもよ? すでに二体殺っちゃった訳だし」

 言われてみればそうなのだがヨウジとしては納得いかない。攻撃せざるを得ないように仕向けたのはミセスなのだ。彼が巻き込まなければそもそもこんな状況になっていなかった。

 ラッドウィンプスが口角を下げてミセスを睨む。そんな風の精霊に対してミセスは涼しい顔だ。おまけに結構な速さで走っているのに汗一つ浮かべていない。

 こいつ、汗まで透化させているのか?

 とか疑問に思ってしまう。

 ヨウジはというと額に汗をかいている。不本意なランニングのせいで余計な体力を使っていた。そよりと吹いた風が妙に心地良い。潮の匂いの混じった海風は温まった身体をささやかではあるが冷ましてくれた。

 このランニングのお供が女装男子と化け物でなければどんなに良かったか。

「なぁ」

 ふと頭に浮かんだ問いをヨウジは投げつける。

「どうして俺とシスターが同じクラスだとわかったんだ? あんた、俺より年上だよな?」

 見た目だけで判じたのだがそれは正解のようだった。
「うん」とミセスが短く答える。きらり、と左胸の青リンゴのワッペンが薄緑色の宝石を光らせた。

「僕は大学生だよ。でも用があって高等部で探し物をしていたんだ。その途中で君のことも知った」
「……」

 どこか曖昧な物言いに不穏な気配を察する。訝しんでミセスを見つめた。

 化け物たちが吠えた。

 一体が突進しミセスに噛みつく。牙はミセスに突き立つこともなく虚しく空を切った。より一層の憤怒が沸き上がるように化け物たちの唸りと殺気があたりに満ちていく。

「じゃあ、水色館にアイシャがいるってことも?」
「そう。けど、場所までは知らないんだよね。住所なんて書いてあっても道順がわからなければ意味ないと思わない?」

 その質問にはヨウジは返さなかった。

 ぼんやりとしていた視界がはっきりとしてきたからだ。

「あ、やばい」

 ただならぬ雰囲気でミセスが表情を歪めた。その表情から余裕が消える。

「そろそろ限界かも。透化ってすごく疲れるんだ」
「限界って……おいおい、この先どうするんだよ」

 水色館まで走って五分という位置だった。

 五十メートルほど先の交差点を左折すれば後はまっすぐだ。

「どうするって、どうにかするしかないね」
「……」

 呑気なセリフにどっと疲れが出る。ヨウジは盛大にため息を吐いた。

 気を取り直して彼は頭をフル回転させて打開策を考える。

 ラッドウィンプスの能力に使えそうな弾はレジ袋にあるミックスサンドくらいか。あんパンの包みは弾としては軽すぎた。これなら小石を拾ったほうがマシだ。自分の体重より軽くて左手に乗るものなら光弾にできるが威力を考慮すると何でもいいとはならない。

 ちっ、とヨウジは舌打ちした。

 とんでもない厄介に巻き込まれたもんだぜ。

「そのレジ袋にあるもの」

 ミセスが訊いてきた。

「もう食べないよね」
「いや、食べないとは言ってないぞ」
「でもそれ弾数に含まれているよね? 何かあれば弾にするよね?」

 見透かされていた。

 ヨウジはもう一度舌を打つ。思いがけずその音が響いた。苛立ちにばつの悪さが絡まり合う。

 能力のコントロールが乱れてきたのかミセスの姿が現れたり消えたりするようになってきた。これはかなりやばそうだ。

 化け物が牙を剥いてくる。

 ぎりぎりのところでそれをミセスがかわす。左足を軸に一回転して蹴りとばした。脇腹を蹴られた化け物が一鳴きして後退する。仲間を痛めつけられた化け物たちが殺気を濃くした。状況は酷くなる一方だ。

 ヨウジは化け物たちを一瞥し水色館への道を急ぐ。

 あと八体か。

「……ん?」

 違和感を覚える。

 何かおかしい。

 すぐに答えがわかった。はっとして化け物の数を数え直す。一、二、三……八。そんな馬鹿なと目を瞬かせた。どうして八体いたものから二体やっつけたのに数が戻っているんだ?

 ヨウジの疑問にミセスが首肯して応じた。彼もそのことに気づいていたようだった。

「あいつらやられてもまた増えるみたいだね」
「はい?」
「上限は八みたいだけどそれ以下になると足りない数を補う。一定数をキープし続けながら獲物を追跡する能力なのかも」
「じゃあ、きりがないってことか?」
「できれば本体を叩きたいところなんだけど、これきっと遠隔操作されてるよ」

 つまり契約者(リンカー)本体に攻撃は不可能、と。

「……おい」

 覚悟を決めなくてはならないようだった。

 ヨウジはレジ袋のミックスサンドを手に取りつつ言った。

「こいつを撃ったら、とにかく全力で走るぞ」
 
 
 
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