第58話 白い修道女
文字数 2,341文字
三年後。
星神島の北部にある教会でアイシャは礼拝堂の長椅子に座っていた。
胸には金のロザリオ。白い修道服は清潔だが少しくたびれている。頭はフードを被っておりショートカットの黒髪が覗けていた。
美しい顔立ちの彼女は切れ長の目を真っ直ぐに正面を向いている。視線の先には神の像。細部まで造り込まれたその像はとても良く出来ている。
ローゼンバーグを倒したものの魂の在処が沈んでしまったアイシャは海で溺れかけた。だが、偶然通りかかった漁船によって彼女は救われた。
運命は彼女に未来を与えた。
それともこれは神意と形容するべきだろうか。
そうなのかもしれない、とアイシャは判じた。
学園の高等部を卒業するとアイシャは水色館を出て島の教会に身を寄せた。
一度は捨てた信仰心をアイシャは取り戻していた。
精霊は彼女の身に宿ったままだがなぜか煽ったりささやいたりすることはなくなっている。もしかしたら魂の在処でのことが原因かもしれない。しかし、「それ」が大人しくしてくれることは実生活において不自由なものではないので彼女はそっとしておくことにした。
カツンと靴音が響き、アイシャはぴくんと肩を跳ねさせた。
若い男の声が礼拝堂の中を静かに反響する。
「シスター」
聞き慣れた声はやや呆れたようにトーンを変えた。
「さっきシスターテレサが探していたぞ。そんなところでぼうっとしてないで仕事したらどうだ?」
「やることはやってるわ」
アイシャはそう返し、振り向く。
「あなたこそぶらぶらしていていいの? 大学は?」
彼……ヨウジが通路を歩いて近寄ってくる。
その肩の上に小さな天使のような姿をした風の精霊が腰かけていた。不機嫌そうにむうっと頬を膨らませて口を尖らせている。
この精霊のヨウジに対する独占欲が年々酷くなっているような気がしてアイシャは内心苦笑した。
「いきなり休講になった。どうも契約者(リンカー)絡みで何かあったらしい」
「そう」
アイシャは目を伏せた。
「大事にならなければいいけど」
「そうだな」
ヨウジが隣に腰を落とす。彼の体温すら伝わりそうな近い距離感は嫌いではなかった。三年の間に彼の人柄や優しさがとても快いもののようにアイシャには感じられていた。
一緒にいて悪くない、と思う。
「ローゼンバーグを打ち破ってもみんなの魂は戻って来なかった。失われたものはもうどうしようもない」
アイシャが感慨を込めてそう言うとヨウジが嘆息する。
「そうだな。でも、だからこそ生き残った俺たちは彼女たちの分も生きていかなくてはならない。それは残された者の責務だと俺は思う」
ポリポリと頬をかいた。
「こんな言い方だとちょいと格好つけ過ぎかな?」
ふふっとアイシャは笑った。
この三年の間に彼女は笑顔を見せる回数が増えている。それが好ましいことだと彼女も自覚していた。
ふと、ヨウジの左耳に切り傷があるのをアイシャは見つける。目立たないが出血し瘡蓋になりかけているようだった。
「その傷」
「ああ、これか? よそ見してたら歩道脇の木の枝に引っかけた」
「意外と抜けてるのね」
そっと手を伸ばし右手で触れる。
ほわんと光が生まれ数秒で消える。
魂の在処で得た力は僅かな力を残して失われていた。無の精霊の力はあの小島にいないと本来の力を発揮できないのかもしれない。アボイドノートにはそれについて書かれていなかったがアイシャにはそんな気がしていた。このことを詳しく調べるつもりはない。
傷を消したりする程度なら可能だしむしろ強すぎる力を持て余すよりはよほどマシだろう。
アイシャが手を引っ込めると吃驚した表情でヨウジが自分で自分の耳を触った。そこにはもう傷はない。彼は目を瞬いた。
「随分と簡単に精霊の力を使うんだな」
「殴らないだけマシでしょ?」
「それはそうだが……ま、いっか」
アイシャはその結論に満足して微笑む。美しい顔がさらに花開いた。
「なあ」
おもむろにヨウジが質問した。
「こんなことを聞くのもあれだが、神様って本当にいるのか? 俺にはこれといった宗教観はないんだが運命とか必然とかならわかる。けどそれが神様の思し召しかと問われたら微妙なんだよな」
「それ修道女に聞くの?」
「いや、他のシスターには聞かない。けどシスターなら聞けるかなって」
またもポリポリと頬をかいた。
「シスターは特別というかさ、あれだ、わかるだろ?」
「いいえ、全然」
答えてまた笑った。
そっか、とヨウジが嘆息ししょうがないとばかりに肩をすくめる。風の政令が嫉妬深そうに首にしがみついた。どうやらこのやりとりが気に入らないらしい。
アイシャはそれが何だか可愛らしくてつい頬を緩めてしまった。
その隙をつくようにヨウジが問いを重ねてくる。
「もう一度魂の在処に行こうとか思わないのか? アボイドノートの知識はまだあるんだろ?」
「知識はあるわ。でも、あたしはもうあそこに用はないから」
「なるほど」
ヨウジが首肯した。
「まあ、今さらかもしれないからな。それなら放っておいたほうがいいか」
「あたしはローゼンバーグのような真似をするつもりはないから」
「あ、そうだな。いや、わかったから恐い顔するのはやめろ」
「……」
いつの間にかアイシャは眉間に皺を寄せてヨウジを睨んでいた。指摘され意識して表情を解そうとする。
「まあ、シスターはシスターだからな」
じゃあまた来るよ、とヨウジが席を立った。外まで送ろうとアイシャも立ち上がる。
「それにしても……やっぱり思うんだが」
ヨウジが言った。
「神様っているのかねぇ?」
「いるわよ」
力強く拳を握ってアイシャは応じた。
「あたしは神を信じている」
「ストレイシープ 怒りの精霊と契約した少女は復讐を果たすために敵地に向かう」完。
星神島の北部にある教会でアイシャは礼拝堂の長椅子に座っていた。
胸には金のロザリオ。白い修道服は清潔だが少しくたびれている。頭はフードを被っておりショートカットの黒髪が覗けていた。
美しい顔立ちの彼女は切れ長の目を真っ直ぐに正面を向いている。視線の先には神の像。細部まで造り込まれたその像はとても良く出来ている。
ローゼンバーグを倒したものの魂の在処が沈んでしまったアイシャは海で溺れかけた。だが、偶然通りかかった漁船によって彼女は救われた。
運命は彼女に未来を与えた。
それともこれは神意と形容するべきだろうか。
そうなのかもしれない、とアイシャは判じた。
学園の高等部を卒業するとアイシャは水色館を出て島の教会に身を寄せた。
一度は捨てた信仰心をアイシャは取り戻していた。
精霊は彼女の身に宿ったままだがなぜか煽ったりささやいたりすることはなくなっている。もしかしたら魂の在処でのことが原因かもしれない。しかし、「それ」が大人しくしてくれることは実生活において不自由なものではないので彼女はそっとしておくことにした。
カツンと靴音が響き、アイシャはぴくんと肩を跳ねさせた。
若い男の声が礼拝堂の中を静かに反響する。
「シスター」
聞き慣れた声はやや呆れたようにトーンを変えた。
「さっきシスターテレサが探していたぞ。そんなところでぼうっとしてないで仕事したらどうだ?」
「やることはやってるわ」
アイシャはそう返し、振り向く。
「あなたこそぶらぶらしていていいの? 大学は?」
彼……ヨウジが通路を歩いて近寄ってくる。
その肩の上に小さな天使のような姿をした風の精霊が腰かけていた。不機嫌そうにむうっと頬を膨らませて口を尖らせている。
この精霊のヨウジに対する独占欲が年々酷くなっているような気がしてアイシャは内心苦笑した。
「いきなり休講になった。どうも契約者(リンカー)絡みで何かあったらしい」
「そう」
アイシャは目を伏せた。
「大事にならなければいいけど」
「そうだな」
ヨウジが隣に腰を落とす。彼の体温すら伝わりそうな近い距離感は嫌いではなかった。三年の間に彼の人柄や優しさがとても快いもののようにアイシャには感じられていた。
一緒にいて悪くない、と思う。
「ローゼンバーグを打ち破ってもみんなの魂は戻って来なかった。失われたものはもうどうしようもない」
アイシャが感慨を込めてそう言うとヨウジが嘆息する。
「そうだな。でも、だからこそ生き残った俺たちは彼女たちの分も生きていかなくてはならない。それは残された者の責務だと俺は思う」
ポリポリと頬をかいた。
「こんな言い方だとちょいと格好つけ過ぎかな?」
ふふっとアイシャは笑った。
この三年の間に彼女は笑顔を見せる回数が増えている。それが好ましいことだと彼女も自覚していた。
ふと、ヨウジの左耳に切り傷があるのをアイシャは見つける。目立たないが出血し瘡蓋になりかけているようだった。
「その傷」
「ああ、これか? よそ見してたら歩道脇の木の枝に引っかけた」
「意外と抜けてるのね」
そっと手を伸ばし右手で触れる。
ほわんと光が生まれ数秒で消える。
魂の在処で得た力は僅かな力を残して失われていた。無の精霊の力はあの小島にいないと本来の力を発揮できないのかもしれない。アボイドノートにはそれについて書かれていなかったがアイシャにはそんな気がしていた。このことを詳しく調べるつもりはない。
傷を消したりする程度なら可能だしむしろ強すぎる力を持て余すよりはよほどマシだろう。
アイシャが手を引っ込めると吃驚した表情でヨウジが自分で自分の耳を触った。そこにはもう傷はない。彼は目を瞬いた。
「随分と簡単に精霊の力を使うんだな」
「殴らないだけマシでしょ?」
「それはそうだが……ま、いっか」
アイシャはその結論に満足して微笑む。美しい顔がさらに花開いた。
「なあ」
おもむろにヨウジが質問した。
「こんなことを聞くのもあれだが、神様って本当にいるのか? 俺にはこれといった宗教観はないんだが運命とか必然とかならわかる。けどそれが神様の思し召しかと問われたら微妙なんだよな」
「それ修道女に聞くの?」
「いや、他のシスターには聞かない。けどシスターなら聞けるかなって」
またもポリポリと頬をかいた。
「シスターは特別というかさ、あれだ、わかるだろ?」
「いいえ、全然」
答えてまた笑った。
そっか、とヨウジが嘆息ししょうがないとばかりに肩をすくめる。風の政令が嫉妬深そうに首にしがみついた。どうやらこのやりとりが気に入らないらしい。
アイシャはそれが何だか可愛らしくてつい頬を緩めてしまった。
その隙をつくようにヨウジが問いを重ねてくる。
「もう一度魂の在処に行こうとか思わないのか? アボイドノートの知識はまだあるんだろ?」
「知識はあるわ。でも、あたしはもうあそこに用はないから」
「なるほど」
ヨウジが首肯した。
「まあ、今さらかもしれないからな。それなら放っておいたほうがいいか」
「あたしはローゼンバーグのような真似をするつもりはないから」
「あ、そうだな。いや、わかったから恐い顔するのはやめろ」
「……」
いつの間にかアイシャは眉間に皺を寄せてヨウジを睨んでいた。指摘され意識して表情を解そうとする。
「まあ、シスターはシスターだからな」
じゃあまた来るよ、とヨウジが席を立った。外まで送ろうとアイシャも立ち上がる。
「それにしても……やっぱり思うんだが」
ヨウジが言った。
「神様っているのかねぇ?」
「いるわよ」
力強く拳を握ってアイシャは応じた。
「あたしは神を信じている」
「ストレイシープ 怒りの精霊と契約した少女は復讐を果たすために敵地に向かう」完。