第12話 トップナイフ その1
文字数 2,804文字
夜の海を連絡船が一定の速度で進んでいた。
船の灯りが僅かながらに灯っているが深夜という時間帯もあって人影はほとんど見当たらない。海をかき分けるように航行する船に纏わりつくかの如く波が打ちつけていた。
このあたりの海流は激しく複雑だが海面はとても穏やかに見える。
しかし、人がこの海に落ちて何の助けもなければ間違いなく命を失う。そして遺体は絶対に見つからない。人は海に換えるのだ。肉体は他の命の糧となり魂はいずこかへと消えていく。
夜空にぽっかりと浮かんだ月に小さな点が生まれた。
それは緑色の光を放ちながらしだいに大きくなっていく。質量が肥大化しているのではない。遠くから船のほうへと近づいているのだ。
物理的には声を発していないのだが聞く者が聞けば「ケラケラケラ」と笑い声とも威嚇ともとれる声を知覚できるはずだった。
ジャラジャラという金属質な音を除けば「それ」は無音で空を飛んでいる。まるでその存在を主張するかのようにきらきらと緑色の光の帯を残像として煌めかせていた。
緑色に光る「それ」の背には一人の男。
「それ」の背でサーフィンのように立っている。バランス感覚はとても良い。
空気抵抗や海風などというものを完全に無視して、高度や速度への恐怖を完全に無視して、男は「それ」に乗っていた。
ジャラジャラという音の原因は男の身につけているシャツの肩のバッジと腰の銀細工だ。擦れ合い、空を切って狂音を散らしている。
トップナイフ。
男が自分の能力につけた名前である。
本体であり契約者(リンカー)である男の名はケラ。
精霊と契約して能力を身につけたこの男はモヒカンにした金髪をなびかせ、つまらなそうに口をへの字にした。眉を寄せ、不快さを隠そうともせずにぺっと唾を吐く。
その玉子型の目が見据える先には船があった。
「あれか」
*
意識の底から浮上するようにふわりとした感覚がアイシャの中で生まれた。
ぼんやりとしながらも彼女はごろんと寝返りを打つ。船室のベッドはお世辞にもふかふかとは呼べず、これなら床で寝ていても変わらないのではないかという寝心地であった。
痛覚を感知した肉体は睡眠を欲する精神に鈍い痛みをシグナルで送る。
ゆるゆると覚醒していく意識のどこかで「ニャーオ」と猫が鳴いた。
聞き覚えのある猫の声に無意識のうちにアイシャはボブカットの少女を探す。
栗色の髪の可愛らしい少女。
ころころと表情をよく変える愛らしい少女。
エンヤ。
……駄目。
アイシャをたしなめるように女の声が響く。それが誰なのか彼女はわかっていた。これまで散々耳にしてきた声だ。
エンヤに惹かれては駄目。
あなたはまた繰り返したいの?
もうあたしは大切な人を失いたくない。
そう。
わかっている。
自分は大切な人を失った。
家族を、仲間のシスターを、マリーを失った。
ずっと傍にいたかったのに、ずっといられると思っていたのに、気がつくと全て失っていた。
あたしは何も守れない。
あたしは誰も救えない。
あたしは無力だ。
どうしてもどうしてもどうしても独りになってしまう。
求めているのに、ずっとそうしていたいのに独りになってしまう。
たとえ誰かと出会えてもやがては別れが訪れる。
慈悲はなく、絶対的に、宿命的に、独りになってしまう。
失いたくない。
いつまでも一緒にいたい。
そう願えば願うほど別れは辛くて、心までもが引き裂かれるかと思うくらい辛くて、どうしようもなくなる。
あたしはもうそんな思いをしたくない。
女の声……アイシャ自身の声ははっきりと、覚悟を促すように彼女の心に染みていく。
復讐にエンヤを巻き込みたくないというのは半分は本当だ。
けれどもう半分は……。
ニャーオ。
猫の声が再びアイシャを刺激する。
しかし今度はさっきと違った。やけに明瞭にアイシャの耳に届いていた。
「……シャ」
ゆさゆさと身体を揺さぶられる。
「ねぇ、アイシャ」
肩を誰かが揺すっていた。愛らしい声にささやかな幸福感を得る。このままこの声を聞いていたかった。
「起きて、ねぇ起きて」
「……」
切迫したエンヤの口調にアイシャは一気に目が醒める。猫が間近でニャーと鳴いた。呆れているかのような声音に少しむっとする。
「……何?」
とくんとくんと跳ねる鼓動は無理に起こされたからだとアイシャは判じる。決してエンヤの声が可愛いからではない。
枕のすぐ傍にいた猫が滑らかな動きで身を半回転させてベッドから降りた。
エンヤが肩からアイシャの頬へと手を移す。
温かく柔らかな彼女の指の感触にアイシャの胸の鼓動が一段上がった。どうかこの音がばれませんようにと必死で祈る。神様を信じるのをやめてはいるがこんなときくらいすがってもバチは当たらないだろう。
「アイシャ、何かおかしいの」
「……」
言っていることが理解できず、アイシャは半身を起こした。寝間着代わりのジャージの色は紺だ。左胸にスポーツメーカーのロゴがある以外に模様はない。
「おかしいって、何が?」
「わからない。けど、さっき船内放送がしたと思ったらすぐに止まったの。それもブチッと切れるみたいに。こんなの変だよ」
「あなた、起きてたの?」
「えっと、うん」
エンヤがやや気まずそうに目をそらした。
「ちょっと寝付けなくて」
「そう」
態度が気になったがとりあえず脇に置くことにする。
アイシャは話を戻した。
「船内放送がしたって言ってたけど、どんな内容?」
「ええっと、ザーッて音が鳴って……」
エンヤが中空に目を走らせる。
アイシャは続きを待ったがエンヤは諦めたように苦笑した。
「こ、声は聞こえたんだよ。ただ言葉になっていなかったというか……」
「誰かが間違って船内放送のスイッチを入れた可能性は?」
うっ、とエンヤが低く呻く。どうやらそれは考えていなかったようだ。
アイシャは嘆息し、そっと手をエンヤの頭にやった。
ポンポンと優しく叩く。
「きっと気のせいよ。眠れなくていろいろ想像してしまったのね」
「そ……そうなのかなぁ?」
でも、おかげでこうやってあなたに触れられる。
アイシャは無言でつぶやいて頭から頬へと手を滑らせた。柔らかな頬の感触に思わずつまみたくなる。口許が緩んだ。
「アイシャ?」
戸惑ったような声にアイシャは小さく息を漏らす。これはこれで可愛い。
抱き寄せたいという衝動が襲ってくるがどうにか堪えた。
それとも我慢せずに……。
ガシャーン!
破砕音が轟き身体がびくっとなる。
遠くで叫び声と銃声が聞こえた。アイシャは反射的に音のした方向を見る。
上の階からだった。
「な、何?」
エンヤも天井を見上げていた。驚きと不安をない交ぜにしたように目を瞬く。
ニャーオ。
猫が鳴き、それを合図にしたかのようにアイシャはエンヤと目を合わせた。その瞳に吸い込まれそうになるがすぐに醒める。
今はそんな場合ではない。
船の灯りが僅かながらに灯っているが深夜という時間帯もあって人影はほとんど見当たらない。海をかき分けるように航行する船に纏わりつくかの如く波が打ちつけていた。
このあたりの海流は激しく複雑だが海面はとても穏やかに見える。
しかし、人がこの海に落ちて何の助けもなければ間違いなく命を失う。そして遺体は絶対に見つからない。人は海に換えるのだ。肉体は他の命の糧となり魂はいずこかへと消えていく。
夜空にぽっかりと浮かんだ月に小さな点が生まれた。
それは緑色の光を放ちながらしだいに大きくなっていく。質量が肥大化しているのではない。遠くから船のほうへと近づいているのだ。
物理的には声を発していないのだが聞く者が聞けば「ケラケラケラ」と笑い声とも威嚇ともとれる声を知覚できるはずだった。
ジャラジャラという金属質な音を除けば「それ」は無音で空を飛んでいる。まるでその存在を主張するかのようにきらきらと緑色の光の帯を残像として煌めかせていた。
緑色に光る「それ」の背には一人の男。
「それ」の背でサーフィンのように立っている。バランス感覚はとても良い。
空気抵抗や海風などというものを完全に無視して、高度や速度への恐怖を完全に無視して、男は「それ」に乗っていた。
ジャラジャラという音の原因は男の身につけているシャツの肩のバッジと腰の銀細工だ。擦れ合い、空を切って狂音を散らしている。
トップナイフ。
男が自分の能力につけた名前である。
本体であり契約者(リンカー)である男の名はケラ。
精霊と契約して能力を身につけたこの男はモヒカンにした金髪をなびかせ、つまらなそうに口をへの字にした。眉を寄せ、不快さを隠そうともせずにぺっと唾を吐く。
その玉子型の目が見据える先には船があった。
「あれか」
*
意識の底から浮上するようにふわりとした感覚がアイシャの中で生まれた。
ぼんやりとしながらも彼女はごろんと寝返りを打つ。船室のベッドはお世辞にもふかふかとは呼べず、これなら床で寝ていても変わらないのではないかという寝心地であった。
痛覚を感知した肉体は睡眠を欲する精神に鈍い痛みをシグナルで送る。
ゆるゆると覚醒していく意識のどこかで「ニャーオ」と猫が鳴いた。
聞き覚えのある猫の声に無意識のうちにアイシャはボブカットの少女を探す。
栗色の髪の可愛らしい少女。
ころころと表情をよく変える愛らしい少女。
エンヤ。
……駄目。
アイシャをたしなめるように女の声が響く。それが誰なのか彼女はわかっていた。これまで散々耳にしてきた声だ。
エンヤに惹かれては駄目。
あなたはまた繰り返したいの?
もうあたしは大切な人を失いたくない。
そう。
わかっている。
自分は大切な人を失った。
家族を、仲間のシスターを、マリーを失った。
ずっと傍にいたかったのに、ずっといられると思っていたのに、気がつくと全て失っていた。
あたしは何も守れない。
あたしは誰も救えない。
あたしは無力だ。
どうしてもどうしてもどうしても独りになってしまう。
求めているのに、ずっとそうしていたいのに独りになってしまう。
たとえ誰かと出会えてもやがては別れが訪れる。
慈悲はなく、絶対的に、宿命的に、独りになってしまう。
失いたくない。
いつまでも一緒にいたい。
そう願えば願うほど別れは辛くて、心までもが引き裂かれるかと思うくらい辛くて、どうしようもなくなる。
あたしはもうそんな思いをしたくない。
女の声……アイシャ自身の声ははっきりと、覚悟を促すように彼女の心に染みていく。
復讐にエンヤを巻き込みたくないというのは半分は本当だ。
けれどもう半分は……。
ニャーオ。
猫の声が再びアイシャを刺激する。
しかし今度はさっきと違った。やけに明瞭にアイシャの耳に届いていた。
「……シャ」
ゆさゆさと身体を揺さぶられる。
「ねぇ、アイシャ」
肩を誰かが揺すっていた。愛らしい声にささやかな幸福感を得る。このままこの声を聞いていたかった。
「起きて、ねぇ起きて」
「……」
切迫したエンヤの口調にアイシャは一気に目が醒める。猫が間近でニャーと鳴いた。呆れているかのような声音に少しむっとする。
「……何?」
とくんとくんと跳ねる鼓動は無理に起こされたからだとアイシャは判じる。決してエンヤの声が可愛いからではない。
枕のすぐ傍にいた猫が滑らかな動きで身を半回転させてベッドから降りた。
エンヤが肩からアイシャの頬へと手を移す。
温かく柔らかな彼女の指の感触にアイシャの胸の鼓動が一段上がった。どうかこの音がばれませんようにと必死で祈る。神様を信じるのをやめてはいるがこんなときくらいすがってもバチは当たらないだろう。
「アイシャ、何かおかしいの」
「……」
言っていることが理解できず、アイシャは半身を起こした。寝間着代わりのジャージの色は紺だ。左胸にスポーツメーカーのロゴがある以外に模様はない。
「おかしいって、何が?」
「わからない。けど、さっき船内放送がしたと思ったらすぐに止まったの。それもブチッと切れるみたいに。こんなの変だよ」
「あなた、起きてたの?」
「えっと、うん」
エンヤがやや気まずそうに目をそらした。
「ちょっと寝付けなくて」
「そう」
態度が気になったがとりあえず脇に置くことにする。
アイシャは話を戻した。
「船内放送がしたって言ってたけど、どんな内容?」
「ええっと、ザーッて音が鳴って……」
エンヤが中空に目を走らせる。
アイシャは続きを待ったがエンヤは諦めたように苦笑した。
「こ、声は聞こえたんだよ。ただ言葉になっていなかったというか……」
「誰かが間違って船内放送のスイッチを入れた可能性は?」
うっ、とエンヤが低く呻く。どうやらそれは考えていなかったようだ。
アイシャは嘆息し、そっと手をエンヤの頭にやった。
ポンポンと優しく叩く。
「きっと気のせいよ。眠れなくていろいろ想像してしまったのね」
「そ……そうなのかなぁ?」
でも、おかげでこうやってあなたに触れられる。
アイシャは無言でつぶやいて頭から頬へと手を滑らせた。柔らかな頬の感触に思わずつまみたくなる。口許が緩んだ。
「アイシャ?」
戸惑ったような声にアイシャは小さく息を漏らす。これはこれで可愛い。
抱き寄せたいという衝動が襲ってくるがどうにか堪えた。
それとも我慢せずに……。
ガシャーン!
破砕音が轟き身体がびくっとなる。
遠くで叫び声と銃声が聞こえた。アイシャは反射的に音のした方向を見る。
上の階からだった。
「な、何?」
エンヤも天井を見上げていた。驚きと不安をない交ぜにしたように目を瞬く。
ニャーオ。
猫が鳴き、それを合図にしたかのようにアイシャはエンヤと目を合わせた。その瞳に吸い込まれそうになるがすぐに醒める。
今はそんな場合ではない。