第14話 トップナイフ その3
文字数 2,443文字
殺られる!
アイシャがそう思った瞬間、後ろから肩をぐいと引っぱられた。
同時にトップナイフの真ん中の足がアイシャの顎から鼻のあたりをすり抜ける。斬られたのでもなく貫かれたのでもなくすり抜けたのだ。
何が起こったのかわからぬままアイシャは後方にいるであろう人物に背後から抱き抱えられた。ふわりと柑橘系の爽やかな匂いが鼻腔をくすぐる。戦いの最中だというのに不似合いな香りだった。
視界がぼやけてくる。
何かのフィルターでもかかったような、曇りガラスの向こうを見ているようなそんな感覚だった。心なしか音も妙にくぐもっている。
アイシャは自分が別世界に取り込まれてしまったのかと思った。
ぼんやりとした視界の先で緑色の何か……おそらくはトップナイフが前足を大振りに振り回している。長い刃はアイシャに届きそうなのに一発として当たらなかった。
かすめることも触れることもない。
完全に空を切っていた。
「セーフティ・パイ」
後ろの人物が言った。
「僕と僕の触れたものを任意に透過させる」
「えっ」
「ちょっと黙っててね」
返事をする間もなくゆっくりとアイシャは落ちた。
廊下の床をすり抜け、パイプや配線を無視して、さらに下へ。
落下のスピードは垂直ではあったが遅かった。ふわふわと鳥の羽根が舞い降りるが如く彼女はさしたる衝撃もなくどこかに着く。落ちていた景色から船室のさらに下、船倉ではないかと思われた。
薄暗くやや広い空間には幾つものダンボールと木箱が積まれている。重ねられた麻袋にはアイシャも知る製粉メーカーの社名があった。微かに澱みのある空気はたとえ換気をしていても取り除ききれない一種独特の臭さがある。遠くから聞こえる低く唸る音は船の動力部からだろうか。
後ろからアイシャを抱いていた腕が力を緩める。
アイシャは振りほどくように離れるとその人物を見た。
「……あなた、誰?」
「ええっと、こういうときはまずお礼を言うのが先なんじゃないの?」
「……」
長身の男だった。
縦にカールさせた亜麻色の髪を胸まで伸ばしている。色白で唇の紅さがやけに目立つ。薄い眉とアーモンド型の目は高めの鼻とともに絶妙なバランスで配置されていた。
いわゆる美形。よく見ないと女と間違えてしまいそうだ。
「あれ?」
男が首を傾げる。亜麻色の縦ロールがぱさりと揺れた。
「もしかして礼儀知らず? ポイッとしちゃってる?」
「……助けてくれてありがとう。で、あなたは?」
「なーんかアレだね。気持ちとかもポイッと捨ててる?」
「……」
男からは敵意を感じない。
だが、アイシャは眉をしかめた。
男はピンクのワンピース姿だった。フリフリのたくさんついた可愛らしいデザインだ。しかもかなり上品に着こなしている。これが男でなければどこのお嬢様かと思えたくらいだ。
胸元の一口囓られた青リンゴのワッペンだけは違和感ありまくりだが。
囓られた部分には薄緑色の宝石があり、キラリと輝いた。
ふうっと男が諦めたようにため息をつく。
「ま、いいや。僕はミセス」
「ミセス?」
「あ、その反応嫌だな。僕は男だし既婚者でもないよ。そういう名前」
「……契約者(リンカー)なのよね?」
「そうだよ」
青リンゴのワッペンだと思っていたものを指差した。
「これがその精霊。えっと、透明の精霊」
「……」
いろんなタイプがあるのだな、とアイシャは無言で感心した。猫だったり道化師だったりカマキリだったり……そして今度は青リンゴのワッペンか。
アイシャが黙っているとミセスが天井を見上げる。その表情には面倒くささがありありと浮かんでいた。
切り替わるように目をぱちぱちさせる。開いた口からは忠告ともとれる言葉が出た。
「あれは強いよ」
「……」
アイシャはうなずいた。
それはわかっている。
あのカマキリは容易に勝てる相手ではない。スピードもさることながら戦い慣れている感じがする。
「一応言っておくけど僕は戦わないから」
「なぜあたしを助けたの?」
「たくさん人が死んだからね」
ミセスが心底嫌そうに目を閉じて首を振った。縦ロールが宙を躍る。
「わざわざ死なせることもないかなーって。でもこれ大サービスだよ。僕の気まぐれ以外の何ものでもないから」
「そう」
おかげで命拾いしたのだ。とやかく言える筋合いではない。
「せっかく助かった命なんだから大切にしなよ。あれには近づかないほうがいい」
「それは無理」
ぴしゃりと応えた。
半目になってミセスが見つめてくる。言葉はないものの「あんた馬鹿でしょ」とその目が訴えていた。
アイシャは視線から逃れるように天井を見た。
心なしか破砕音がしたような気がする。感覚の耳が「ケラケラケラ」と喚く声を聞いていた。それはもしかすると気のせいかもしれない。だが彼女は胸騒ぎを覚えた。
エンヤはまだ船室にいるだろうか。
大人しくしていてほしかった。今の状況では船室にいるからといって安心はできないかもしれない。けれども、通路に出てあのモヒカン男と鉢合わせになる確率よりは低いはずだ。
エンヤ。
アイシャは言った。
「あいつはあたしがぶちのめす」
「やるの?」
「ええ」
彼女はミセスに向き直る。拳を握り、決意を口にした。
「あたしにはやらなければならないことがある、守らなければならないものがある……だからあいつは絶対にぶちのめす」
「そのために自分の安全はポイッと捨てるんだね」
「あたしの命なんてどうでもいい」
「それ、助けてもらったばかりで言うセリフじゃないよ」
ミセスが苦笑する。呆れすぎて笑えたようだ。
「ま、いいや。生きていたら向こうで会おう。どうせ学園行きなんでしょ?」
アイシャは首肯した。こんなことをたずねるということはミセスも学園に転入するのだろう。
ミセスの能力は使い方次第では危険だが彼自身にそのつもりはないように思えた。
「僕はここで休んでいくから。セーフティ・パイは使うと結構疲れるんだ」
「ありがとう、ミセス」
もう一度礼を言い、アイシャは船倉を後にした。
アイシャがそう思った瞬間、後ろから肩をぐいと引っぱられた。
同時にトップナイフの真ん中の足がアイシャの顎から鼻のあたりをすり抜ける。斬られたのでもなく貫かれたのでもなくすり抜けたのだ。
何が起こったのかわからぬままアイシャは後方にいるであろう人物に背後から抱き抱えられた。ふわりと柑橘系の爽やかな匂いが鼻腔をくすぐる。戦いの最中だというのに不似合いな香りだった。
視界がぼやけてくる。
何かのフィルターでもかかったような、曇りガラスの向こうを見ているようなそんな感覚だった。心なしか音も妙にくぐもっている。
アイシャは自分が別世界に取り込まれてしまったのかと思った。
ぼんやりとした視界の先で緑色の何か……おそらくはトップナイフが前足を大振りに振り回している。長い刃はアイシャに届きそうなのに一発として当たらなかった。
かすめることも触れることもない。
完全に空を切っていた。
「セーフティ・パイ」
後ろの人物が言った。
「僕と僕の触れたものを任意に透過させる」
「えっ」
「ちょっと黙っててね」
返事をする間もなくゆっくりとアイシャは落ちた。
廊下の床をすり抜け、パイプや配線を無視して、さらに下へ。
落下のスピードは垂直ではあったが遅かった。ふわふわと鳥の羽根が舞い降りるが如く彼女はさしたる衝撃もなくどこかに着く。落ちていた景色から船室のさらに下、船倉ではないかと思われた。
薄暗くやや広い空間には幾つものダンボールと木箱が積まれている。重ねられた麻袋にはアイシャも知る製粉メーカーの社名があった。微かに澱みのある空気はたとえ換気をしていても取り除ききれない一種独特の臭さがある。遠くから聞こえる低く唸る音は船の動力部からだろうか。
後ろからアイシャを抱いていた腕が力を緩める。
アイシャは振りほどくように離れるとその人物を見た。
「……あなた、誰?」
「ええっと、こういうときはまずお礼を言うのが先なんじゃないの?」
「……」
長身の男だった。
縦にカールさせた亜麻色の髪を胸まで伸ばしている。色白で唇の紅さがやけに目立つ。薄い眉とアーモンド型の目は高めの鼻とともに絶妙なバランスで配置されていた。
いわゆる美形。よく見ないと女と間違えてしまいそうだ。
「あれ?」
男が首を傾げる。亜麻色の縦ロールがぱさりと揺れた。
「もしかして礼儀知らず? ポイッとしちゃってる?」
「……助けてくれてありがとう。で、あなたは?」
「なーんかアレだね。気持ちとかもポイッと捨ててる?」
「……」
男からは敵意を感じない。
だが、アイシャは眉をしかめた。
男はピンクのワンピース姿だった。フリフリのたくさんついた可愛らしいデザインだ。しかもかなり上品に着こなしている。これが男でなければどこのお嬢様かと思えたくらいだ。
胸元の一口囓られた青リンゴのワッペンだけは違和感ありまくりだが。
囓られた部分には薄緑色の宝石があり、キラリと輝いた。
ふうっと男が諦めたようにため息をつく。
「ま、いいや。僕はミセス」
「ミセス?」
「あ、その反応嫌だな。僕は男だし既婚者でもないよ。そういう名前」
「……契約者(リンカー)なのよね?」
「そうだよ」
青リンゴのワッペンだと思っていたものを指差した。
「これがその精霊。えっと、透明の精霊」
「……」
いろんなタイプがあるのだな、とアイシャは無言で感心した。猫だったり道化師だったりカマキリだったり……そして今度は青リンゴのワッペンか。
アイシャが黙っているとミセスが天井を見上げる。その表情には面倒くささがありありと浮かんでいた。
切り替わるように目をぱちぱちさせる。開いた口からは忠告ともとれる言葉が出た。
「あれは強いよ」
「……」
アイシャはうなずいた。
それはわかっている。
あのカマキリは容易に勝てる相手ではない。スピードもさることながら戦い慣れている感じがする。
「一応言っておくけど僕は戦わないから」
「なぜあたしを助けたの?」
「たくさん人が死んだからね」
ミセスが心底嫌そうに目を閉じて首を振った。縦ロールが宙を躍る。
「わざわざ死なせることもないかなーって。でもこれ大サービスだよ。僕の気まぐれ以外の何ものでもないから」
「そう」
おかげで命拾いしたのだ。とやかく言える筋合いではない。
「せっかく助かった命なんだから大切にしなよ。あれには近づかないほうがいい」
「それは無理」
ぴしゃりと応えた。
半目になってミセスが見つめてくる。言葉はないものの「あんた馬鹿でしょ」とその目が訴えていた。
アイシャは視線から逃れるように天井を見た。
心なしか破砕音がしたような気がする。感覚の耳が「ケラケラケラ」と喚く声を聞いていた。それはもしかすると気のせいかもしれない。だが彼女は胸騒ぎを覚えた。
エンヤはまだ船室にいるだろうか。
大人しくしていてほしかった。今の状況では船室にいるからといって安心はできないかもしれない。けれども、通路に出てあのモヒカン男と鉢合わせになる確率よりは低いはずだ。
エンヤ。
アイシャは言った。
「あいつはあたしがぶちのめす」
「やるの?」
「ええ」
彼女はミセスに向き直る。拳を握り、決意を口にした。
「あたしにはやらなければならないことがある、守らなければならないものがある……だからあいつは絶対にぶちのめす」
「そのために自分の安全はポイッと捨てるんだね」
「あたしの命なんてどうでもいい」
「それ、助けてもらったばかりで言うセリフじゃないよ」
ミセスが苦笑する。呆れすぎて笑えたようだ。
「ま、いいや。生きていたら向こうで会おう。どうせ学園行きなんでしょ?」
アイシャは首肯した。こんなことをたずねるということはミセスも学園に転入するのだろう。
ミセスの能力は使い方次第では危険だが彼自身にそのつもりはないように思えた。
「僕はここで休んでいくから。セーフティ・パイは使うと結構疲れるんだ」
「ありがとう、ミセス」
もう一度礼を言い、アイシャは船倉を後にした。