第30話 ステッペンウルフの咆哮

文字数 2,088文字

 男の精霊が何なのか、それはわからない。

 ただ、とてつもなく危険であるということだけははっきりしていた。

 ミセスは男とだぶつく影、おそらくは「ソウルハンター」という名であろうものの手が自分の頭を掴みきらないうちにセーフティ・パイを発動させた。

 透明の精霊と契約したことにより得た力。

 自分と自分が触れたものを任意に透化させる能力。

 一瞬の判断の差だった。

 ソウルハンターの手がミセスの頭をすり抜ける。男が僅かに眉をひそめるがすぐに自分の精霊に命じた。

「やれッ!」

 ソウルハンターの両手が銀色に光る。

 この光が何であれ相応にやばいものだとミセスは判じた。これに捕らえられてはならない。

 ミセスは素早く身を屈めつつ自分の姿を消した。男がまた煙幕を使って位置を探ろうとするのを予測し、今度は床を通り抜けて下の階に降りることにする。

 消耗がより激しくなるのも覚悟で透化を強めた。

 高度の透化は単なる透化ではない。存在の透化だ。

 煙幕で位置がばれる程度のものとはレベルが違う。どれだけ探知しようとしても誰も彼の存在を見出すことはできない。

「逃すかっ!」

 ミセスの読み通り男が煙幕の精霊の力を使ってくる。

 充満する煙の動きはミセスとは無関係に流れていった。煙の中に空白はできず、ミセスは完璧なまでのステルス能力を活かして階下へと逃れる。

 だが、油断はしていない。

 男がまた転移の精霊の力を用いる可能性は考えていた。

 ミセスはセーフティ・パイを発現させたまま廊下を走った。高次の透化は彼の息遣いや足音さらには心音や血流の音すら消していた。この状態の彼を追跡することは誰にもできない。

 そう、誰にも。

 だが……。

 *

 ソウルハンター(本体)は煙幕を消した。

 彼は持っていた二枚のカードを自分と重なる影に渡す。影の手の内でカードは銀色に輝き溶けるように消えていった。

 男は直感的に廊下の窓に歩み寄り外を見下ろす。

 噴水のある中庭が見えた。水は止められ日中であれば見ることのできる二つの水のアーチはない。低木もベンチも照明のポールでさえもどこか眠りに沈んでいるかのように沈黙していた。影のゆらめき一つ見当たらない。

 ……いや、まだそう遠くには行ってないはずだ。

 駆け足が廊下の向こうから近づいてきた。

 男はその方向に見遣る。迫ってくる人影は次第にはっきりとしてきた。

 紺色の制服姿の警備員だ。

 肩や腰には様々な装備品。、屈強そうな巨体はどこかのレスラーを連想させるほどだ。角張った顔は浅黒い。太くて長い眉と獣のような目、鷲鼻と大きな口が威圧感を与えている。

 険しい顔をした警備員は男の傍まで来ると低い声でたずねた。

「例の奴ですか」

 ここ数日のミセスの侵入はこの警備員の耳にも届いていた。故に普段は大学の経済学部の校舎を担当しているこの警備員が高等部の校舎に配置転換されたのだ。

「ああ、さっきまであそこにいたよ」

 ソウルハンターはその場所を手で示した。そこは彼がミセスをカードにしようとして失敗した位置である。

「ジョンK、追えるかね?」
「お任せください」

 月明かりで仄暗い廊下に青白い光が生まれた。

 光源はジョンKの足元。。彼を中心に半径五十センチほどの光が輝いていた。

「私の嗅覚の精霊が確実に賊を追い詰めてみせます」

 のっそりと狼のフォルムをした青い影が光から這い出てくる。体長は二メートルほど。影はやがてはっきりとその姿を見せた。

 色こそ青いが外見は狼と酷似している。体毛以外で明確な違いといえば額にある青白い宝石だろうか。

 この化け物が姿を現すとジョンKの足元の光が閉じるように消えた。

 化け物の額の宝石がキラキラと輝く。

「ステッペンウルフ」

 名を呼ばれた化け物がキラリと宝石を光らせ、ミセスが透過したあたりの床へと走り寄る。

 くんくんと鼻を近づけて嗅ぐとすぐにジョンKのほうに振り返った。額の宝石がチカチカと何かを訴える。

「精霊の匂いを見つけました」

 ジョンKが報告するとソウルハンターはふむと息をついた。

「恐るべき嗅覚だな」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」

 姿勢を正し、ジョンKが敬礼する。その表情に変化はない。しかし声音はとても誇らしげだ。

「早速追跡を開始します」

 ステッペンウルフが青白く発行する。

 光は分裂するように割れていき、それでもその大きさを維持しながら数を増やしていった。一、二、三……八つの光に分かれたステッペンウルフはそこで分裂をやめ光らなくなる。

 八体の化け物は一斉に二メートルの身体を弓なりに仰け反らせた。

 耳では聞くことのできぬ感覚の「咆哮」があたりに響く。夜の静けさを嘲う遠吠えだ。決して陽のものではなく陰のものの吠え声。

 ソウルハンターは自分がその獲物でないことを心の底から感謝した。ジョンKの能力は間違っても敵に回してはならない。

 ジョンKが命じた。

「追えっ、ステッペンウルフ!」

 一体また一体と狼に似た青い毛並みの化け物たちが走りだす。列を成した化け物の群れは吸い込まれるように階段へと消えて行った。

 これからこの化け物たちの狩りが始まるのだ。
 
 
 
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