第32話 力の差

文字数 2,336文字

「ウダダダダダダダダダダダダダダダダッ!」

 アイシャのラッシュは一発として赤髪の少女に当たらず空を切った。

 まるで見えざる手に拳筋を誘導されているかのようだ。

 信じられないといった表情のアイシャに対し、赤髪の少女は微笑を広げる。胸元まである長い三つ編みの髪についたリボンの乳白色の宝石が嘲うように点滅した。

「うーん、殴れないって言ったのが聞こえなかったのかしら」

 赤髪の少女が首を傾げる。

「私のフライミートゥザムーンの前ではあなたの能力はないも同然なのよ……というか、あなたポピンズ夫人も殴れなかったわよね?」
「黙れ!」

 なおも殴ろうとするアイシャの腕が強引に上に引っぱられた。両手を上げてバンザイのポーズをとらされる。

 抵抗しようとしたが無駄だった。上向きの力が強くて自分ではどうにもできない。

「力にはベクトルがあるの」

 赤髪の少女は小さな子供を諭すような口調で話し始めた。

「重力だろうと引力だろうと力の向きがあって普通は物理法則に則って事象は成り立つの。私のフライミートゥザムーンはそのベクトルを自在に操ることができる。バイクを鉄の塊にして爆発を未然に防ぐこともできるし漏れたガソリンを広がらなくすることもできる」
「……」

 アイシャはバラ園の戦いの時にオートバイに不思議なことが起きたのを思い出していた。

 もしあれがなければさらに酷いことになっていただろう。爆発事案が加われば政府の役人からの聴取も一層厳しいものになっていたに違いない。

「……あの現場にいたの?」
「ふふっ、どうかしら」

 赤髪の少女が楽しげに返す。

 アイシャはこれを肯定ととった。

 おそらく彼女は姿を消してあの場にいたのだろう。自分が仕組んだ対決を見届けたかったからかそれとも別の理由か。

 いずれにせよ納得のできるものではない。

 彼女のせいで犠牲者が出ているのだ。

「人の命を何だと思ってるの!」
「あら、騙されたことよりそっちに怒るなんて意外」

 クスクス。

 赤髪の少女の笑いは酷く癇に触った。

 全身に新たな熱が加わる。どくどくと脈打つ鼓動はアイシャの怒りを燃えたぎらせた。

 両方の拳が黒い光を強める。漆黒の闇よりも深い深淵の黒だ。

 グローブの輝きがあたりを明滅させた。

 怒れ。

 怒れ。

 怒れ。

 アイシャの中の「それ」が煽り立てる。

 彼女は自分に作用するベクトルに力任せに逆らった。うまくいかないがそれでもアイシャは抗いをやめない。

 彼女の怒りに応じるように「それ」がさらなる力を与えてくる。どす黒い精神のエネルギーが全身に行き渡っていく。心拍数がリミッターを失ったかのように跳ね上がった。

 身体が熱い。

 力が溢れる。

 アイシャはギラリと切れ長の目を鋭くした。
「あたしはもう神様なんて信じていない」

 徐々に両腕の自由が戻ってくる。

 赤髪の少女の笑みに変化はない。

「でも、あんたのために祈ってあげる」

 透明の鎖が砕けるような、空気が刃物で切り裂かれるような乾いた音がした。

 アイシャのダーティワークの黒さが光の密度を濃くしていく。それぞれの手の甲に黒い宝石が生まれた。黒を凝固したような真なる黒だ。

 アイシャは吠える。

「ダーティワークッ!」

 自由になった拳でアイシャは殴った。

「ウダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ……ウダァッ!」

 憤怒に満ちた拳のラッシュが炸裂する。

 全ての打撃が赤髪の少女に向けられていた。もはやアイシャを縛るものはなく、彼女の怒りが力ある奔流となって敵に襲いかかる。ポピンズ夫人の悲鳴が耳をつんざくが知ったことではない。

 だが。

「だ・か・ら、殴れないって」

 赤髪の少女がうんざりした口調で言った。その声には何らダメージを感じさせない。

 アイシャははっとした。

 命中したと思えたラッシュが全然効いていない。赤髪の少女に殴打の痕跡はなかった。それどころかぴんぴんしている。

 えっ、とアイシャが思ったとき、黒いリボンの乳白色の宝石がチカチカと光った。

 呼応するように再びバンザイの姿勢をとらされる。

「身の程を知るのね」

 にこやかに、しかし妙に低い声で。

「そんな程度の攻撃しかできないあなたに敵う相手だと本気で思ってるの? だとしたら舐められたものね。それともただの恐いもの知らずかしら? まあどちらにしてもあなたは私に勝てない」

 ポピンズ夫人に。

「アボイドノートはまだ隠してあるわよね?」
「えっ? あっ、はい」

 突然振られたポピンズ夫人が頓狂な声を発する。

 赤髪の少女が命じた。

「なら今すぐ持ってきて。この娘にはちょっと頭を冷やしておいてもらうから」
「で、でもあのノートは」
「私の言うことが聞けないの?」

 笑顔だがやけに圧のある物言いだった。

「わ、わかりました」

 とポピンズ夫人が慌てながら廊下の奥の部屋へと消える。

 あたしをどうする気?

 アボイドノートって何?

 アイシャはたずねようとしたができなかった。喉に圧迫をかけられたのだ。目に見えない力が彼女の首をじわじわと絞めてくる。

「大気圧のベクトルをいじるだけで簡単に窒息死させることが出来るのよ」

 表情に似合わぬ恐ろしいセリフだった。

「でもまあ安心して。殺すつもりならとっくに殺しているから。今はちょっとだけお仕置きしているだけ」
「……」

 悔しいが言い返せない。

 自分と赤髪の少女との力の差は歴然だった。ダーティワークの最大の力で立ち向かっても触れることすらできないのだ。

 こんな……こんなものなの?

 アイシャは無言で「それ」に問いかけた。

 あたしの力はこんなものなの?

 こんなものでソウルハンターに復讐なんてできるの?

 己の力不足に打ちひしがれるアイシャに応えるものは「それ」を含めてどこにもいなかった。
 
 
 
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